第9話 人望の差

 下駄箱で靴を履き替え、階段を上がってクラスへと行く途中の廊下で、銀髪頭の小さな女の子の背中が見える。一般高校生の集団に囲まれていると、あの頭は目立つからすぐに見つけられる。

 涼花が他のクラスの教室の前を通る度に生徒達がざわつき、神のように崇められていた。

 涼花は月のような可憐さを感じさせながらも、絶対に話しかけてはいけないような別次元のオーラを醸し出している。

 しかし海凪は躊躇せずにその背中へと飛びつく。


「よー、涼花。お嬢様も大変だなー」


「あら、おはようございます。"九条さん”。昨夜はよく眠れましたか?」


 涼花は全く動じることなく、鬼の体幹で微塵も体勢を崩さずに笑顔で対応する。恐るべきプロ意識だ。


「おー、快眠だ」


「それは幸いです。お身体にはお気を付けてくださいね」


 そう言って、涼花は優しく笑いかける。

 その表情はいつもよりも柔らかく、普段の人を見下しているような態度が抜けているようにも見えた。こうやって見るとやっぱり可愛らしいな。


「にしても、涼花は今日も可愛いな〜」


 海凪は涼花の小さな身体に絡みつきながら、ほっぺたをツンツンと指でつつく。


「ふふっ、九条さんほどでは無いですよ」


「言葉がうめぇな。可愛さでお前に勝てるやつは居ねえって」


「ふふっ、ありがとうございます」


 そう言って微笑む涼花の姿は、俺を犬扱いする時のそれとは全く異なっていた。

 コイツらはよく公衆の面前でイチャイチャ出来るな。両方とも顔面偏差値が限界突破しているせいで痛いカップルにはならないのが酷い。何をしても絵になってしまう。


 涼花は良家のお嬢様だ。即ち世間体を気にしないといけない。

 だから猫を被るし、気持ち悪いくらい完璧なお嬢様を演じる。

 だからこそ、そのストレスを俺で解消しているのだろう。残念ながら俺はそんな事情なんて知ったことじゃない。サンドバックでも殴って発散しろ。


「ありゃ、隼人は何でそんなに離れてんだ?もっと寄れよ」


 海凪はふと俺の方を向くと、不思議そうな目で見てくる。


「えぇ、”笠原くん”もお話しましょう。遠慮する必要はありませんよ?」


 涼花も眉毛ピクリとも動かない気味の悪い笑顔を向けてくる。

 そう、涼花は全生徒の憧れだ。そんなお嬢様に関わるとなれば、良くも悪くも必然的に注目を浴びることになる。

 現に海凪は他の生徒達から羨望の目で見られている。だが、それは涼花と特別親しく、同じ女子である海凪だからこその話だ。


「あっ、おい、今は話しかけるな」


 ……そこでだ。変態ヤリチンクソ野郎のレッテルを貼られている俺が関わればどうなるだろうか。

 キラキラとした目を向けていた生徒共の視線が俺へと向くのと共に、辺りの空気が一気に暗くなる。


「は?アイツ笠原じゃね?」

「あぁ、あのクソ野郎の」

「昨日もヤリ捨てたってよ」

「でもカッコよくない?」

「騙されるなよ」

「ただのあんたらの嫉妬でしょ?」

「違うわボケ」

「これだから非モテ男共の妬みは……」


 ほら、言わんこっちゃない。こうなるからわざわざ距離を置いて二人の戯れを見守っていたというのに、海凪のせいで信者共に俺の存在がバレてしまった。


「貴様は神楽様の何だ!言え!」「うわっ!キモっ!」「死ねっ!ねじり潰されて死ねっ!」「近付くなカス!」「消えろ!」「百合に割り込むなイケメン野郎!」


 他クラスの男共が教室の窓から顔を出し、鬼の形相で丸められた紙やら消しゴムやらを投げつけてくる。ダメージは全くないものの、視界が塞がって目障りでしかない。

 バレてしまったものはどうしようもないので、俺は諦めてその場で会話を交わす。


「これでも仲良くお前らと談笑しろと?」


「気にすんなよ。お前Mなんだから」


「だからMじゃないからな」


 戦場のど真ん中で会話をすることに快楽を感じているのなら、そいつはもうMとかいう次元では無い。完全に狂っているだけだ。


「んな事言ってさー、本当は涼花にも尻に敷かれて嬉しいんだろ?」


「答えはノーだ」


 罵倒とゴミの嵐の中でも何とかして会話をしていると、流れ弾の紙くずが涼花の方へと飛んでいき、小さな頭に当たった。


「きゃっ……」


 涼花は小さな悲鳴を上げながら、座り込んで当たった箇所を押さえる。

 どう考えても紙くず如きでそんなにダメージが通るわけがないのだが、洗脳済みの信者達はそんなことを考える余地もなく、大混乱に陥る。


「神楽様がぁぁ!!」

「撃たれた!撃たれた!」

「救急車呼べ!」

「犯人は誰だゴラァ!」

「俺が……俺がやったのか……」


 偏差値的にはそこそこ頭の良い高校のはずなのに、一瞬で知性の欠片も無い猿共が暴れる動物園状態となる。

 別にふざけている訳ではなく、本人達は素で騒いでいるのだ。

 涼花に人格を狂わされすぎてて怖くなる。愛とはそれほどまでに人を変えるものなのか。


「み、皆さん……落ち着いて……」


 涼花はタイミングを見計らっていたように、よろめきながら立ち上がろうとするも、途中でまた地面に倒れそうになる。


「危ねぇ!」


 海凪は咄嵯に涼花の腕を掴み、なんとか支えることに成功させる。


「大丈夫か?」


「はい、ありがとうございます。九条さんのおかげで助かりました」


 涼花は頬を赤らめ、潤んだ瞳で海凪へと笑いかけた。

 その表情はどこまでも純粋で、穢れを知らぬ無垢な少女のようなものだった。


「おー……」


 俺も多少感動してしまった。普段おちゃらけている海凪がああして王子様みたいな言動をすると、何だかすごく頼もしく見えてきてしまう。

 涼花も今の猫被り状態なら姫の役として十分だし、二人で劇団でもやれそうなものだ。

 そんな呑気なことを考えている俺とは対照的に、涼花ガチ恋勢共は絶望した表情で黙り込んでしまう。


「俺達は……とんでもないことをしていたのか……」

「俺は生きる価値のないゴミだ……」

「もはや存在するのすら愚かだ……」

「イケメン女子に神楽様を取られた……」


 涼花はそんな哀れな信者共を眺めると、優しく微笑んだ。


「皆さん、顔を上げてください」


 コイツは普段こんなに哀愁漂う笑顔をすることは無いから、恐らく演技なんだろうが、素人目には全く分からないだろう。末恐ろしい演技力だ。


「私は気にしておりませんよ。皆さんがこれから気を付けて頂けるのなら、それでいいのです」


 綺麗で輝いていて、それでいて温かい笑顔。

 瞳から僅かに溢れている涙が、更にその魅力を引き立てている。

 一瞬一瞬で見せる細かい表情の変え方。声の抑揚の付け方。身体の動作や何までもが、まるで一つの芸術作品のように完成されつくしたものだった。


「天使だ……」


 一人の男子生徒がふと呟いたその言葉を皮切りに、全員が一斉に涙を流しながら飛び跳ね始める。


「何て心の広いお方なんだ!!」

「貴方様こそ真の天使!!」

「清楚系の代表格!!」

「踏んでくれー!」

「俺を罵ってー!」

「愛してるー!」


 所々おかしな奴が混じっているものの、何とか場を収めることは出来たようだ。


「おー、すげぇな。お前の演技力」


 海凪が小声で涼花に賞賛の言葉を送ると、涼花はいつものすました笑顔になる。


「演技とは心外ですね。私は純粋に考えたことをそのまま発信しているだけですよ」


「嘘つくな。『黙ってください。耳障りです。貴方達に酸素を使われる地球様が不憫でならないですね』とか言うだろお前」


「ふふっ、面白い冗談ですね。笠原君」


 とは言いつつも、内心はブチ切れてそうなものだ。コイツは些細なことですぐに怒りだすからな。その時は全然顔に出さないものの、後々になって仕返してくることが多い。つまりコイツの笑顔は一切信用出来ない。


「まぁ、一件落着って所だな」


「ええ、そうですね」


 そう言って、暴れ狂う変態達の横を素通りし、俺達は各々の教室へと向かおうとするが……。


「おい待てゴラ」


 突如として教室の窓から腕が伸びてきて、俺の首根っこを掴んできた。


「ぐえー……」


「お前を認めた覚えは無いからな、このヤリチンが」


 振り返ることも出来ないため、声の主は分からないが、酷く鼻息が荒かった。

 きっと興奮状態にあるのだろう。野生の猿は下手に刺激すると危ないから、ここは慎重に言葉を交わさねば。


「あー……だから俺はそういうのじゃない。信じてくれ」


「んじゃあ何なのよ!!」


 今度は女子生徒の声が聞こえてくる。こちらも同様かなり気が立っているようだった。

 海凪と涼花はというと、楽しそうに笑顔でこちらを眺めていた。

 自分達は高みの見物って訳か。海凪まであの生意気なすまし顔されるとムカつくな。

 傲慢悪役令嬢キャラは一人で十分だ。これ以上は増やさないでくれ。


「おいてめぇ聞いてんのか!!」


 二人を睨みつけることにより対抗していると、服を握る力が一気に強くなる。

 そういえば俺は今大ピンチだったのを忘れるところだった。


「あぁ、悪い。何の話だったか」


「完全に舐めてますねぇ……処します?処します?」


「待て待て、神楽様の前でそんな汚い行為を見せる訳にもいかんだろ」


「この時点で既に汚いだろ」


「むっ……それも一理あるな」


 目の前で高みの見物をしていた涼花の顔が、ハッとしたものへと変わり、また上品な笑みを浮かべる。

 恐らく全員がアイツの方を見たのだろう。


「皆さん、私の為を思ってくれるのは非常に嬉しいのですが、彼は皆さんが思っているほどの悪人ではありませんよ」


「じゃあ、コイツと神楽様はどんな関係なんですか……?」


 震えた声で女子生徒が恐る恐る尋ねると、涼花は一瞬だけ黙り込む。


「……」


 おい、その沈黙はかなり怪しいぞと言いたくなるようなタイミングで、涼花は口を開いた。


「パートナー……でしょうか」


 おいおいおい、よく言えたなコイツ。駄犬やら忠犬やら人間ドッグやら散々人のことをペット扱いしておいて。心は痛まないのか。痛まないか。痛むわけないな。だってあの涼花だし。


「ぱ、パートナー?」


「ええ、彼と一緒に居ると、色々と学べることが多いのです」


 確かに悪役令嬢の心得は学べるかもしれないが、それ以上の事は絶対に学習出来ないと思う。嘘しかついてないぞコイツ。

 それにパートナーとかいう怪しい関係も信者の間では許容範囲じゃないだろうし、誰も納得しないはずだ。


「まぁ……神楽様がそう言うなら……」


「いいに決まってる……」


「いや、駄目だろ」


「お前は黙ってろ!!」


 ダメだコイツら。もう頭が涼花で支配されてるから、疑うことを知らないんだ。


「では、そろそろ授業が始まりますので、私はこれで失礼致しますね」


 涼花は優雅にスカートの端を摘み上げ、丁寧にお辞儀をしてから、微笑みながら歩いて行った。


「おー、んじゃあ私も。お疲れさーん」


 海凪も適当に手を振ると、興味をなくしたように涼花の後へと着いて行った。

 アイツ、逃げやがったな。

 終始笑顔だったが、普段犬呼ばわりしている人間にパートナーとか言っちゃって、屈辱のあまりに内心怒り狂っているのだろう。


「いいなぁ……羨ましいなぁ……顔が良いだけで神楽様のお傍に居れるんだもんなぁ……」


 ずっと俺を掴んでいた腕の力が弱まり、何とかして抜けることが出来る。

 どうやらひとまずは逃がしてくれるらしい。


「まぁ、頑張れよ」


 それがせめてもの励ましの言葉だったが、信者共は納得がいかなかったようで、こちらを睨みつけてくる。


「調子に乗るなよ。貴様のような軽率な男、いつかボロが出て見捨てられるに決まっている」


「……あぁ、捨ててくれたら嬉しいんだがな」


「は?なんか言った?もしかしてあの女神様を侮辱するようなことを口にした?そうであればお前の財布の50円が全て5円になる呪いをかけ──」


「何も」


 俺はそれだけを言い残すと、物凄い殺気を感じる背後には振り返らずに、自分の教室へと向かった。

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