10-2 暴力
それは俺と秋元が除菌作業に慣れて来た頃のことだった。俺たちが清掃作業を行っている施設が、秋から感染症のワクチン接種会場に指定されたのだ。よって、俺と秋元の仕事のスケジュールは、ワクチン接種のない日となり、休日と出勤日がバラバラになってしまったのだ。しかも、接種の会場として使う部屋には機材があるから、清掃には入らないようにと言うお達しだ。ほぼ全館を利用してワクチン接種を行っているのに、清掃に入れない。そうなると、仕事のしようがなくなってしまう。頼みの綱は除菌作業だけではないか。しかしこんな時でも秋元は言うのだ。
「佐野君。清掃はエンドレスです」
清掃には終わりがない。一か所を突き詰めれば、時間はどんどん過ぎていく。例えばトイレの個室一つとってもそうだ。通常清掃では掃き掃除をした後に、ブラシで便器を擦り、赤いタオルで便座の裏と便器を磨き、黄色のタオルで便座を拭いて、最後に水モップをかけて終わりだ。しかし、目に見えない汚れや普段は時間がかかってできない場所もある。例えば便座の裏側はかなり汚い場合が多い。埃が溜まりやすく、黄色に汚れている。そこは水モップでは届かないため、赤のタオルを裏側に通して、引っ張りながら掃除するしかない。それに目には見えないが、個室の壁もやはり黄色く汚れている。一見綺麗に見えても、ドアの裏や横の壁は、タオルが黒っぽい黄色に染まる。尿の飛び散りは、人が思っているよりも広範囲に広がっているのだ。そんな風に個室一つ一つに手間をかけ、汚れるたびに手をかけていれば、一日などあっという間に過ぎてしまう。それに、普段はあまり清掃に入れない部屋に清掃に入るいい機会でもある。調理室や和室は、俺と秋元の終業時間以後に使われることもあり、なかなか細かいところまで清掃できない。ガスコンロの周りや、べたつく汚れを落とすには時間も労力もかかる。エンドレスとは、こういうことだ。
だが、不満と危険は、最大限に高まっていることも事実だろう。俺と秋元は医療従事者でもなければ、基礎疾患もなく、さらには高齢者でもない。そのため、優先してワクチンを打つことができない。つまり、人が多く集まる場所で、かつ汚れている場所を清掃するのだ。マスクはつけているし、こまめな手洗いは心がけていても、感染リスクは高い。つまり、常に感染の危険と隣り合わせで仕事をしなければならない。
「佐野君。この仕事は誰でも出来る仕事ではありません」
「分かってるって」
誰でも出来て当たり前の仕事は、この世に存在しないと、今なら分かる。特にこの仕事は、忍耐が必要な仕事だ。夏は暑くて、冬は寒い。そして勘違いや差別がある。それでも、誰かが清掃しているから、綺麗な場所がある。秋元だって、すぐにこの仕事を受け入れたわけではない。しかし経験上、秋元は自分を保つ術を時間をかけて習得してきたのだ。そして、それを俺に教えようとしてくれていた。今なら、山口がどうして俺たちから離れて、仕事に従事しようとしていたのかが分かる。仕事は、お金だけではない。
「悪かったよ」
「どうしたんですか、いきなり」
俺は分別もつかない子供だった。図体だけでかくて、悪いことがカッコイイと勘違いしていた。そんな俺を、ここまで指導してきたのは、俺より苦難の道を歩んできた秋元だ。認めざるを得ない。
しかし、感染症対策が強まり、県内でも感染者数が多くなってくると、ある事件が起き始めた。清掃員への侮辱と差別が頻発するようになったのだ。清掃員への差別や偏見は、常にあった。だから、今更特筆すべきことではない。しかし、これが厄介な方向に向いて、暴力沙汰になったのだ。
二階のトイレを、二人で清掃していた時のことだ。女子トイレの方から、何故か男性の声が聞こえてきたのだ。俺は女子トイレに秋元以外がいないことを確認すると、そのまま女子トイレに入った。声がしていたのは、一番奥の個室だった。男性の怒鳴り声が響いていた。
「お前らが菌をばら撒いてんだろ? なあ、そうだろ?」
男は秋元の襟をつかんで、個室の壁に押し付けていた。
「お前ら、汚いからなあ!」
男は苦しそうな秋元に、唾を飛ばしていた。俺は慌てて駆け寄った。
「何してんだよ、離せよ!」
男は俺に気付き、一瞬怯んだが、俺にも暴言を吐いた。
「汚い奴同士、お似合いだな!」
「てめぇ!」
俺はカッとなって、拳を振り上げた。その手を秋元が強引に引っ張って下げさせた。
「佐野君。駄目です」
その間に、男はトイレから出て行った。
「先に暴力振るってたのはあっちだろ!」
「それでこちらが暴力で返したら、問題が大きくなります」
「もう大きな問題だろ!」
俺はそう叫んで、女子トイレから出て行こうとした。それを、秋元の声が止める。
「どこに行くんですか? トイレ清掃の途中ですよ」
「事務室に決まってんだろ。頭来た。あの男は許せねぇ」
「無駄ですよ」
「言ってみなきゃ分からないだろ!」
俺と秋元が言い争っている内に、何故か事務室の用務員がやってきた。トイレの中は音がこもっているため、俺と秋元の声に反応したわけではなさそうだ。用務員は事務室からの呼び出しの伝言に来ただけだった。
俺と秋元が事務室に行くと、恰幅のいい男性がにらみつけてきた。俺も秋元も、睨まれるようなことは一切していないのだが、気まずい空気になっている。
「さっき、お客さんから、暴力を振るわれたと苦情が入った」
俺は耳を疑った。これにはさすがの秋元も、目を見開いている。おそらく虚偽の訴えをしていったのは、先ほど秋元に暴力や暴言を吐いたあの男だ。
「清掃員が暴力沙汰とはな。困ったもんだ。会社に言いつけるぞ。いいな?」
俺が一歩出ようとしたのを防いだのは、秋元が踏み出した足だった。
「待ってください。私たちは一切暴力行為をしていません」
事務室の男の眉が跳ね上がる。
「会社に言いつけてもらっても構いませんが、私たちが暴力を振るっていない以上、この主張は変わりません」
「清掃員のくせに、生意気言うな」
そう言われて、秋元は一歩下がった。そして、目を伏せて首を小さく振った。思わず、論破したくなったのだと、俺は気付いた。秋元は、自分のことよりも、俺を庇っているのだ。しかし、証拠を出せればいいのだが、トイレにだけは監視カメラを付けることができない。秋元に暴力を振るった男も、それを分かった上で、女子トイレに押し入って秋元に暴力を振るったのだ。なんて卑怯な男だろう。
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