十章 感染症対策
10-1 消毒
都市圏でくすぶっていた感染症が、この町にもやってきた。まだ感染者は一人しか出ておらず、差別につながるとして感染者の身元は公表されていない。これから先も公表することはないようだ。会社と施設の契約は、床とトイレが基本契約だったが、そこに除菌作業も加わることになった。今まででも大変なスケジュールだったのに、これ以上仕事が増えると、手が回らないのではないかという心配が出てくる。しかし相手は未知のウイルスで、接触感染や空気感染するということで、施設側も気が抜けないところなのだろう。人が集まるところで集団感染も起きており、文化施設で換気の悪いこの施設は、危険に晒されていた。その危険を回避するための俺たちの仕事だが、作業は増えても賃金はそのままなので、俺としては不服だった。しかし秋元はいつも通り「はい」の一言で、全てを納得してしまう。相変わらず、気に入らない先輩だ。
今日は休業日だったが、施設の倉庫に呼び出された。倉庫なのでストーブを炊いていても寒い。さすがの秋元も、コートを脱がずに椅子に座った。社会的距離を保つことが感染症対策には重要とのことで、ストーブを囲んで等間隔に座った。俺と秋元、そして施設の用務員だ。無口な用務員が、さっそく紙を渡す。俺は手ぶらで来たが、秋元は筆記具を用意していた。用意周到な奴だ。
用務員が、ぼそぼそとした口調で話し始める。大体は、渡された紙に書いてあることだった。事務室に消毒液のタンクを用意しているので、そのタンクからスプレー容器に消毒液を入れること。スプレーは使い捨ての紙に吹き付けて、一定方向に拭くこと。除菌に使った紙は、ビニール袋に入れて捨てること。除菌作業の際、一定方向に拭くのは、モップと同じ原理らしい。紙は倉庫の奥に用意しておくと言っていた。この除菌作業は、午後と午前、一日二回行うことだそうだ。俺たちが休みの日は、用務員がやっておくと言っていた。用務員が説明を終えると、秋元がすぐに手を挙げた。
「質問、よろしいでしょうか?」
「はい」
「使用後の机や椅子は、どうすればいいですか?」
「あ、それも片付ける前に、除菌をお願いします」
「片付けるのは利用者ですので、使用したものと、そうでないものの区別がつかないと思うのですが?」
「分かるようにしておきます」
「何だよ。面倒だな。利用者にやらせればいいだろ!」
俺が言うと、用務員は肩を震わせた。俺にビビっているのだ。
「では、事務室の事業で使った分は、除菌しておきます」
「はあ? その他は?」
事務室の事業なんて、ほとんど行われていない。行事はあくまでこの施設の部屋を借りている一般の町民が主体だ。つまり、事務室が行う除菌作業はほんのわずかで、他の九割以上は俺たちにやらせるつもりなのだ。用務員が黙ると、秋元が横から口を挟む。
「私たちが行うのですね」
「お願いします」
用務員は秋元に向かって頭を下げた。用務員にとって秋元は地獄に仏だが、俺にとっては地獄に閻魔だ。
「説明は以上です。もし、分からないことがあったら、またその時聞いて下さい」
禿頭の用務員は、そう言って、逃げるように倉庫から出て行った。
「おい。これ、手すりもボタンも全部って書いてあるぞ!」
この建物の特徴は、巻貝の中のような造りをしていることだ。よって手すりが多い。それだけではない。エレベーターはもちろん、電気のスイッチやトイレの操作も押しボタン式になっている。その上各部屋の扉は大きな把手がついている。これらを全て手で拭いていくなら、時間も紙も消毒液も、いくらあっても足りないではないか。
「ついでだと思えばいいのです」
俺たちの作業は事後清掃だから、そのついでに除菌作業をすると思えばいいということらしい。しかし、そんなに簡単な話ではない。会議室で使われる机が問題だ。キャスターがついているが、机の向きそのものがストッパーになっており、初めに折りたたまないと動かせない仕組みになっている。その机は、感染症が広がってから人との距離を取るために、一人一台使うようになったのだ。つまり、人数分の机がそのまま残されるということだ。それに椅子までついてくる。机だけでも手間がかかるのに、椅子は弱弱しくてさらに手間がかかる。
「そんなに嫌なら、佐野君は午前の除菌担当にしますか?」
「ああ。まあ。それなら」
午後の方が事後清掃が多いに決まっている。そうであるならば、午前の方が部屋が使われない分、楽に思えた。しかし、これが間違いだった。
いざ除菌作業付きの清掃が始まると、各部屋よりも階段の手すりの方が大変だったのだ。中央階段を二往復するだけで、ふくらはぎがつりそうになる。体はなまっていないはずなのに、除菌作業がここまでキツイとは思ってもみなかった。一方の秋元は、汗一つかかないから、俺が大げさに見えるのが気に食わない。
ところが、除菌作業は思わぬ方向へと転がる。
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