9-5 我慢
なるほど、と俺は一人合点していた。だから研修会の後に、秋元はあんなに落ち込んでいたのか。自分の過去の転機となったところに、論破するということが関わっていたからだ。だから滅茶苦茶な話をしていた講師に我慢ならず、論破してしまった自分を責めていたのだ。その一方で俺と同じ高校を出ているのに、国公立大の出身で、有名企業のプロジェクトリーダーだったのに、今は俺と同じ職場で同じ仕事に就いているのだから、人生は分からないものだ。そして会議中や論破中に、額に汗をかくと説得力がなくなるため、自然に顔に汗をかかなくなったというわけだ。そんな秋元にしてみれば、悔しかったに違いない。苦労して大学に入り、就職活動もこなして新卒で採用され、人望も厚かったのに、そのパワハラ男に仕事も人生も、全て奪われてしまったのだ。秋元には、まだその仕事に対する未練がある。だからこそ、講師を論破してしまった。その一方で、秋元は今の仕事にも必死だ。だからどんなことも我慢したし、いくらでも頭を下げた。
そして俺は気づいてしまった。そんな秋元が怖がる相手が、事務室にいる。どんな卑劣な奴でも腰を低くして対応してきた秋元が、事務用プリンターの営業の男が怖いと怯え、掃除庫に隠れている。
「今、事務室にいるのって、まさか」
秋元は俯いたまま何も言わなかった。それが無言の肯定となった。俺は掃除庫を飛び出した。秋元は確かに不器用で、会議を巧くまとめられなかったかもしれない。しかし、そんな女の人生をぐちゃぐちゃにした男が、今でも同じ会社で仕事を続けていることが、許せなかった。営業は二人で来ていた。歳のいった男と、その部下の若い男だ。今、二人は事務室でプリンターのメンテナンスをして、新しいプリンターに買い替えるように勧めている。秋元が咄嗟に俺を止めようと、手を伸ばしたが、俺はその手を払いのけた。
「ダメです、佐野君!」
俺は挨拶もなしに、事務室に乗り込んだ。俺は秋元の苦労を知っている。俺みたいな奴等が常に授業妨害する中で、集中して授業に出続けることの難しさ。不良高校と言うだけで、皆十把一からげにされて、世間の冷たい視線に晒される悔しさ。それを乗り越えることの難しさも、知っている。秋元は推薦で入学したことを悔いているようだったが、あの高校で内申点を高いところで保つことは困難だっただろう。秋元は三年間、それをやりきったのだ。そして、その上で就職したのだ。つまり、今俺が抱えている怒りは、過去の自分への怒りでもあった。授業を妨害し、破壊行為に及び、法を犯し、まっとうに高校生活を送っていた人間の人生を壊してきた自分と、秋元を貶めた男が重なっていた。
つかつかと男に詰め寄った俺を、男がソファーから見上げていた。
「何だね、君は?」
男は不快そうに俺に言った。俺は他の奴の制止も聞かず、男の襟元をつかんでいた。そこに、秋元が入って来ていた。
「佐野君! あなたまで人生を壊すことはないはずです!」
秋元はそう言って、俺の手から男の襟をむしり取り、男を庇った。そしてあろうことか、その男に向かって、秋元は深く頭を下げた。憎んでも憎み切れない男に、秋元は謝罪した。
「申し訳ございません、お客様。お怪我はなかったでしょうか?」
男は秋元の首からぶら下がった社員証を、まじまじと見た。そして、何かを思い出したような顔になり、高笑いを始めた。
「秋元。なるほど。見た顔だと思ったが、こんな所にいたのか。結構、結構。お掃除のお仕事を頑張り給え。よく似合っているよ」
「ありがとうございます」
秋元はそう言って、再び男に頭を下げて、俺の腕をつかんだ。俺は仕方なく秋元と一緒に事務室を後にした。事務室を出たところで、秋元は俺の腕を離した。秋元は洟をすすり、目には涙をたたえていた。
「あれで良かったのかよ?」
俺は釈然としないまま、秋元に質した。秋元はハンカチで目元をぬぐい、うなずいた。
「はい。他人の仕事をバカにする人は、きっと自分の仕事が理解できていない人ですから」
うなずきながらそう言って笑った秋元の目は、充血して真っ赤だった。俺は秋元には一生敵わないと、思い知らされた。
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