8-4 非常事態

「どのくらい溜まりましたか?」


 秋元が男子トイレに来て、俺の足元のバケツの水を確認する。


「そっちは?」

「似たようなものです。でも、これだけあれば、何とかなるでしょう」

「どうやって?」

「給水車が来るそうです。それまで持てばいいのです」

「給水車? いつ来るんだよ?」

「明日の午後からだそうです。これなら間に合いますね」


 秋元はバケツの水を見て、安堵の息を吐いた。俺はその安堵が分からない。一番水を使うのはトイレ清掃だ。今日一日と明日の分が、この量の水で足りるとは思えなかった。しかし、秋元は自信をのぞかせる。


「タオルの使い分けと同じです」

「タオル? SKのカラータオルのことか?」


 一つのSKには、基本的に三色のタオルが掛けられている。赤と黄色と青だ。性格にはピンクと黄色と水色だが、それぞれ拭く場所が決まっている。赤は一番汚いところ。便座の裏やトイレの縁などを拭く。黄色はトイレの中で、比較的汚れていない場所を拭く。座面やトイレの蓋などだ。そして青はトイレでは使用してはならない。トイレ以外で汚れている机などを拭くためのタオルだ。信号機を思い出してみれば、分かりやすいかもしれない。赤は危険。黄色は注意。青は安全。


「この水は、トイレだけで使うことにしましょう。水拭きモップは赤タオルと一緒の水で洗います。そうすれば、三つのバケツで十分に清掃できるはずです」

「ああ。一つのバケツで、一つの色のタオルしか洗わないことにするのか?」

「その通りです」


 一番汚れる赤とトイレの床を拭く水モップは、大きいバケツの水で洗ったり絞ったりする。そして、二つ目のバケツは、黄色のタオル専用として使うのだ。そして三つ目のバケツの水は、補充したり、何かハプニングがあったりした時のために取っておく。確かにこれならば、トイレ清掃が何とかできそうである。しかし、二回も水を使い回すのだ。さすがに二回目は気が引ける。それは秋元も同じだったようで、浮かない顔をしている。


「仕方ありませんよ。非常事態ですから」


 秋元は、自分に言い聞かせるように言った。俺は秋元が困っているのを初めて見て、調子が狂いそうになったので、秋元の肩を叩いた。秋元は弾かれたように顔を上げる。


「ほら、やるんだろ?」

「そうですね。やるしかありません」


 俺と秋元は、いつも通りの清掃を心がけた。相変わらずビニール手袋は臭いし、雨で床はぬれっぱなしだったが、我慢したりモップを使ったりして対応した。


 しかし、午後になり昼食休憩になった時に問題が発生した。俺はもちろんのこと、秋元も弁当を忘れてきたのだ。いや、忘れてきたと言うよりも、二人ともそんなことを考える余裕はなかったし、暇もなかったというのが現状だった。俺と秋元は施設側と会社に掛け合って、仕事を昼までで終わらせることになった。やはり、自然を甘く見てはいけないのだ。


 翌日、朝から施設の前に長蛇の列ができていた。銀色のタンクを付けた大型の車が、施設の駐車場の隅に泊まっていたのだ。皆がタンクや袋を持っていたから、すぐに給水車が来たのだと分かった。昨日は午後からと言っていたが、予定が早まったらしい。俺は身支度を整えると、すぐにトイレのSKに保管してあったバケツの水を捨て、台車を借りて列に並んだ。秋元も女子トイレからバケツを持って出てきた。

就業中と言っても、今は並んでいるだけだったので、俺は疑問に思っていたことをきいてみた。


「昨日、いつから清掃してたんだよ?」


 昨日から不思議だったのだ。俺が施設に来たのは、始業時間だったのに、その時にはもう秋元は玄関ロビーをモップ掛けしていた。しかも、マスクをしていたのだ。これは事務所と情報を共有していないとできない対応だ。何故なら来たばかりの人間が、一昨日の夜に隔離されている人がいるとは知らないはずだからだ。


「私も、避難していただけのことですよ」

「え? 避難者だったのに仕事してたのかよ?」

「はい」

「頭、おかしいだろ。絶対」

「そうでしょうか?」

「そうだよ」


 では一昨日の夜、秋元はわざわざ自分の仕事場に避難していたことになる。おそらく、作業着を持って避難して、翌朝には多目的トイレで着替えて、朝から仕事をしていたのだ。しかも、あの丸見えの大会議室に、秋元は避難した。だから、自分と同じように避難していた人の動向が、手に取るように分かったのだ。小中学校の避難場所の方が、高台にあると言うのに、秋元はあえてこの施設を選んだ。自分が何かあった時に、すぐに清掃に入れるように考えたはずだ。これは死んでも治らない清掃馬鹿というやつだと、俺は笑った。




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