8-3 確保

 ボストンバッグとリュックサックを車に詰め込み、鬼が運転する車で隣町に向かう。下の道路はもう既に冠水していたので、なるべく上の道を選んで走る。それでも坂道は滝のようだったし、車のタイヤ部分からは大きな水しぶきが上がった。ここでこんな状況なら、秋元の家はとっくに避難しているだろうと思った。その一方で、秋元なら避難せずに仕事に向かうのではないかという心配もあった。


 俺はスマホの電池を気にしながら、秋元に電話をかける。秋元は、すぐに電話に出た。


「佐野君。どうしましたか?」

「今どこだよ? まさか、まだ家にいるんじゃないだろうな?」

「家にいます。明日には出勤ですから」

「はあ? お前、頭悪いんじゃねぇのか? すぐ逃げろ、早くに逃げろ!」

「避難するなら、施設に逃げます。朝にトイレで着替えをして、仕事をします」

「バカ! 堤防壊れたら死ぬんだぞ!」

「その時には、佐野君にお願いします」


 そう言うと、秋元は電話を切った。


 叔母の家に着き、鬼がボストンバッグを取り出している。俺も、自分のリュックサックを取り出した。しかし、リュックサックの隙間から、あのダサイ制服がはみ出ているのを見た俺は、車に戻っていた。


「晶、何してんの!」


鬼が叫ぶ。俺も雨の音にかき消されないように、叫んだ。


「戻る! 洪水が収まったら、迎えに来る! じゃあな!」


 俺は車で来た道を戻り始めた。しかし、今来た道ももう冠水していて、遠回りを余儀なくされた。俺はリュックを抱いたまま、二階の布団で寝た。もう夜の三時だった。寝ている間に水が来たら逃れられないと思ったが、その時は死ぬしかないと、腹をくくった。スマホが、まだ鳴りやまなかったので、俺はスマホの電源を落として、眠った。


 朝、俺は目覚めることができた。つまり、どうにか生き残ったのだ。すぐに制服に着替え、朝食をスナック菓子で済ませると、施設に向かった。そこにはもう、秋元が制服を着て清掃する姿があった。そしてその口元には、マスクがある。まさか、ウイルスに侵された患者が避難してきたのだろうか。


「佐野君、マスクは?」

「そんなもん、知るかよ」


 秋元は制服のポケットから、一枚の袋に入った不織布マスクを、俺に差し出した。


「今から、隔離されていた避難者のいた部屋を、清掃しに行きます」


 隔離されていたということは、やはりウイルス感染の疑われる患者がいたのだ。秋元によると、その避難者は、県外に渡航歴はなく、県外の人との接触もなかった。ただ、避難所開設にあたって行われていた検温で、三十五度以上の発熱があったらしい。そこで、大事を取って一般の避難所とは別の部屋をあてがったという。もしも、この隔離された避難者がウイルスに感染していた場合、この町で初めてのウイルス市中感染が確認されたことになる。俺は仕方なくマスクを着けて、新しいゴム手袋をはめた。秋元と同じいでたちで、隔離場所となった楽屋に向かう。楽屋は一階だ。堤防が決壊していたら、楽屋は一気に水に飲まれてしまう。それなのに、いくら隔離が必要とはいえ、ここを避難場所とするなんて、信じられない。つまりこの町は、感染者を水没の恐れのある場所に避難させ、その後始末を全て清掃員に任せるのだ。そうすれば、外部者の手だけ汚れて、自分たちはリスクを背負うことはない。


 楽屋には、避難所用の毛布が二枚、重ねて丸められて床に置かれていた。楽屋の床は絨毯になっているが、ここで一夜を過ごすのは心細かっただろう。俺がビニール袋にその毛布を入れて密閉している間、秋元はアルコールスプレーで、楽屋を拭き掃除していた。使用したであろう楽屋のトイレも清掃し、隔離場所の清掃を終える。ゴム手袋はこの時だけしか使わなかったが、ウイルスが付着していると菌をばら撒いてしまうので、捨てるしかなかった。そして楽屋を出ると、すぐにビニール袋をゴミステーションに出す。ゴミ袋もまだ使えたのだが、これも仕方がなかった。


 川は結局、氾濫しなかった。堤防も、決壊しなかった。しかし、堤防の低い場所では、川の水が押し寄せて、床下浸水が起こった。現在避難している人々は、そんな自宅に被害が出て、家に帰りたくても帰れない人々だった。町の避難勧告も、警報に切り替わったところで、多くの避難者が自宅に帰ったと言う。それでも、家に帰れない人々は施設だけで十人以上はいた。小中学校の体育館も避難場所になっていたが、その場所も避難場所でなくなると、この施設に避難場所が統一されるということだった。つまり、まだ避難者が来るということを意味していた。施設の避難場所がどこかと思っていたら、二階の大会議室だった。大会議室は北側の壁がガラス張りになっており、階段を使うとそこから部屋の中が丸見えだった。しかも楽屋と違って、床は冷たいフローリングだ。多くの人の視線に晒されることは、それだけでストレスだ。その上床は段ボールを敷いているのみだった。中には段ボールを床に敷かず、ガラスの壁に立てかけて過ごす避難者もいた。床の硬さや冷たさは我慢できるが、着の身着のまま逃げてきた姿を見られるのは、やはり我慢できないようだ。


 俺と秋元は、こんな時でも通常清掃を余儀なくされた。しかし、トイレ清掃に入ろうとした時、最悪な情報がもたらされた。洪水で、上下水道を管理していた施設が冠水したため、これから断水になると言う報せだった。


「佐野君、今のうちに入れられるだけ水を確保して下さい」

「今、やってるんだよ!」


 まだ、SKの水は出ている。これが断水するのかと思うほど、日常的な光景だった。しかし、三つ目のバケツに水をためている時、急に蛇口から出てくる水量が減った。そしてそのまま、水が出なくなってしまった。蛇口を確認してみても、全開になっているにもかかわらず、一滴もでない。溜めることができたのは、大きなバケツ一つと、小さなバケツ二杯だけだった。これではどうやりくりしても、一日の清掃で使い切ってしまう。これで水洗トイレは全て使えなくなったから、トイレ掃除はしなくてもいいのでは、と思ったが、そう簡単に事は動かない。ここは避難所だ。水が流れなくても、生活していくうえでトイレを使わないわけにはいかない。




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