8-2 避難

 秋元の隣りに並んで、滝のように降る雨が、道路を川のように流れる様子を見ていた。排水溝は、もう役に立たず、流雪溝がなんとか雨水の逃げ場になっている。俺の家の雨どいも壊れたと、鬼が騒いでいたことを、ぼんやりと思い出す。ただ古いからだと無視していたが、この雨の勢いで、雨どいさえこらえ切れなくなっていたのかもしれない。あの堤防は見掛け倒しだったと言いうことになる。あんなに大きくて立派な建造物が、自然の前では何の力もない。しかも、ただの雑草のせいで堤防が弱くなるとは、思いもしなかった。人工物の脆さを感じ、自然の強さを思い知る。


 人間は自然を追いやることに成功した、と思っている。地面をアスファルトに変え、巨大な建造物を建て、田畑を広げ、山を切り崩し、海を埋め立てた。夜でさえ、明かりを灯すことに成功している。宇宙から夜の地球を見ると、日本が一番くっきり光って浮かび上がると言う話を聞いたことがある。しかし、地震や雷、洪水を無害にする術は、まだ人間は持ち合わせていない。それどころか、これまで蹂躙してきた自然に、あっという間に命も生活も奪われる。少子高齢のこの町も、自然の驚異に晒されている。耕作放棄地の増加に伴い、田畑は自然の状態に戻り、野生動物たちがやすやすと人々の生活に入り込んでくるようになった。アスファルトやコンクリートの隙間から、植物が根を張り、地面を元に戻す。巨大な建造物は地震や津波に呑み込まれ、一瞬で瓦礫になり、土地は更地になる。山も海も、人間がいなくなればすぐに自然に還るのだろう。人間の生活は脆い。もしかしたら秋元は、巨大地震や落雷被害など、自然災害の被害者だったのかもしれない。それで、こんなに心配しているのだ。


「佐野君、怖いのは水だけではないのです」


 そう言われて、ぴんと来た。大都市圏で、未知のウイルスが猛威を振るっているという話だ。まだ大都市圏の話しだから、対岸の火事くらいにしか思っていなかった。しかし、このウイルスの特徴として、人が密集したところで患者が出やすいということが、最近分かってきたと新聞の見出しにあった。


「堤防が決壊すれば、この施設の一階は水に沈むでしょう。そうなれば、二階の部屋は限られています。小中学校の体育館に分散させて避難誘導しても、ここでは密集状態になるのは明らかです。もし、ウイルスを持った人が一人でもいれば、避難してきた人だけではなく、私たちも罹患の可能性が在ります」

「なんだよ、脅すなよ」

「脅しではありません。私たちはここの清掃員です。避難者の衛生面を支えるのも、仕事の内です」

「バカ言うなよ。何で俺たちを見下してきた奴らのために、そこまでしなくちゃなんないんだ? 大体、避難者を働かせるって、どういう神経してんだよ!」

「昨日、会社に問い合わせたところ、やはり、どんな状況でも出勤だそうです」

「マジかよ? ふざけやがって! 俺は嫌だね。仕事だって、命あってのもんだろ!」


 俺は急に山口のことを思い出していた。身重の彼女を守って死んだ山口だ。就職して、真面目に人生を再スタートさせたばかりに、呆気なく死んでしまった。だから山口は高校を卒業することすらできなった。一方の俺は、就職してまだのうのうと生きている。文句を垂れ、些細なことで苛立つのは、相変わらずだ。それなのに、山口の方が先に死ぬなんて、仕事に殺されたようなものじゃないか。だから俺は、山口の二の舞にはならないと決めていた。


「佐野君。清掃員は、契約を反故にした場合の違約金が高いんです。確かに命が一番大事ですが、仕事も生きる上で大事です」

「いつもきれいごとばっか言ってんじゃねぇよ!」


 俺は秋元に腹が立ち、重たい沈黙の後、ロッカールームに駆け込んだ。秋元はそんな俺を追って来た。


「何してるんですか?」

「帰るんだよ」

「まだ就業時間内です」

「知るかよ」


 俺はバッグと傘を手にして、施設を後にした。秋元一人でも、施設の清掃は終わらせられるだろう。清掃員が勤務をまっとうすれば、違約金は発生しない。だから、俺はむしゃくしゃしたまま、一人、帰ることを選んだ。


 しかし、夜になって状況は一変する。大雨と洪水の警報は、避難勧告に変わった。川の水はさらに増水し、氾濫危険水位を超えていると、何度もニュースで報道されていた。事件や事故とは無縁の田舎だったのに、今晩は全国ニュースでこの町が取り上げられている。同じ県内では、もう既に川が氾濫し、避難してきた人々がテレビ局のインタビューに答えていた。「こんな洪水は、何十年前の大水害以来だ」と、答えていた。川のライブ映像は、見たこともない川の様子が映っていた。濁流がごうごうと音を立てて、うねりながら猛スピードで流れていく。流木やごみが、橋の足に絡みつき、橋の上にまで水が溢れそうになっていた。橋が、濁流にのみ込まれるのも、もはや時間の問題だった。テレビに釘付けになる俺のスマホには、絶えず町からの研究アラートが聞こえてきていた。一秒も間を置かず、すぐに安全な場所に逃げるように促している。次々に、避難勧告の地域が増加していく。町のスピーカーも何か言っているが、雨の音にかき消されていた。夜が深まるにつれて、状況は悪化していった。


 そして夕食を済ませると、鬼が言った。


「早く準備して!」

「何の?」

「避難に決まってるでしょ! 伯母さんのところに避難させてもらうことになったから」


 俺の伯母さんと言うのは、鬼の姉である。鬼が隣り町に住む姉に、避難を打診すると、すぐに了解してくれたと言う。鬼はボストンバッグに、服や化粧品やトラベル用品を片っ端から詰め込んでいた。俺もリュックサックに、必要なものを詰め込んでいく。その途中に、ふと、手が止まった。俺の視界の端に、仕事の制服が映りこんだのだ。俺は咄嗟にその服をリュックに入れた。その時、家のインターホンが鳴った。鬼が玄関に出ると、そこには区長が消防隊員と一緒に立っていた。どうやら、ついに俺が住んでいる地域にも、避難勧告が出たようだ。区長は一軒一軒、早く非難するように言いに来たのだった。鬼がこれからすぐに高台にある姉の家に向かうと言うと、口調は気を付けて、と言って出て行った。



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