八章 豪雨災害と避難所

8-1 堤防

 夏に雨が降ることは、珍しくはない。梅雨を過ぎても、急な雷雨があったり、たまに大雨が降ったりと、夏の空は秋の空よりも目まぐるしく表情を変える。しかし、今年の雨は異常だった。一度降り出すと、大雨になり、その上なかなか止んでくれない。気候変動がどうだの、エルニーニョがどうだの、台風がどうだのと、テレビの天気予報で連日騒がれた。それらの気象情報をまとめると、温暖化の影響で海水の温度が上がり、大量の水蒸気が発生し、山にぶつかって大量の雨を降らせるらしい。年間降雪量が多い場所は、年間降雨量が少ないと言われていたし、俺もそうでなければ不公平感があると思っていた。しかし、やはり今年の雨の降り方は妙だった。毎日のように雨が降り、テレビでは大雨と洪水の警報が連日発表された。


 俺の母親、つまりは鬼曰く、豪雨災害の年の雨の降り方に似ているという。豪雨災害は、俺でも小学校の社会の時間に習った。小学校のプールの横には、豪雨水害の年に、ここまで水が来たという看板が立てられていたほどだ。小学生の背丈より、随分高いところまで水が押し寄せたことが衝撃的だったので覚えている。川から離れているのに、大人の腰まで水に沈んだという。鬼は、舟で行きかう人々を見たと言っている。


 そう言えば俺が中学生の時、大規模水害までとはいかなかったが、一度だけそれらしきものを経験していた。降り出した雨は向こうの景色が白く霞ませ、道路の色をあっという間に濃く染めた。地区の消防団の人が堤防を見張り、このままでは堤防が決壊するとして、川の水を田んぼに流した。山際まで田んぼが続く田舎だから、遠くの田んぼから徐々に水に沈んでいき、まるで田んぼに巨大なビニールシートを被せたように見えた。その頃には不良と呼ばれていた俺だから、避難なんてしなかった。むしろ、田んぼが駄目になっていく様子が面白くて、仲間と一緒に沈んでいく田んぼにどれだけ近づけるのか、根性試しをしていた。今思えば、わずかでも足を水に掬われれば死んでいた、とても危険な行為だった。そんな俺たちは、地域の人から「バカは死んでも治らない」と言われていたから、周囲の人は呆れていただろう。それは、死というものや水害の怖さと言ったものが、俺たちには無関係だと思っていたから、やっていられた行為だったと、今では反省している。


 そんな危険な雨が続き、俺の仕事場である施設も、避難場所となったと事務室から聞かされる。使われることはないだろうけど、と言い置いてからのことだった。俺も、避難所となる施設は想像もできなかった。昔、大水害があったと授業で習ったきりだし、大水害と言えるものを経験したわけでもない。平凡に災害とは無縁に十八年を生きてきたから、想像できなかったのだ。大げさだな、と俺は思っていたが、秋元は違っていた。秋元の家は、川に近いらしい。


「大袈裟だよな」


 連日の大雨でも、図書館やイベントに人々はやって来る。そのため施設の床はいつもびしょびしょに濡れていて、滑りやすくて危険だ。俺と秋元も、水拭きモップで水を床から吸い取る作業に徹している。俺の言葉が聞こえなかったように、秋元は窓の外を見上げる。その視線の先にあるのは、雨粒を絶え間なく落とす、墨のように黒い雲だ。


「ビビってんのかよ?」


 俺がからかうと、秋元は「はい」と頷いた。意外な反応に、俺は頭を抱えた。最近の秋元は、いつもの秋元らしくない。心配そうに空ばかり見上げている。鬼のように、大水害の経験者でもないのに、どうしてここまで雨に怯えているのか分からなかった。事務室だって、ここが避難所となることなど、頭の片隅にも置いていない雰囲気だ。図書館だって一階にあるのに、通常開館している。雨が強い以外は、日常が流れている。


 秋元の家は堤防の近くで、橋にも近いと言う。かつて廻船貿易で栄え、母なる川と呼ばれたその川は、国土交通省が定める一級河川だ。普段は緑色の流れがあり、川面に日光を反射してきらきらと輝く。堤防の下には公園があり、犬の散歩をしてる人をよく見かける。しかし、秋元の家の窓から見える今の川は、いつもとまるで表情が違うらしい。深い緑色の川面は茶色に濁り、堤防下の公園はもうはるか下に沈んでしまったという。水位の上昇も激しく、川の中州に生えていた木々は、もう頭がやっと川面から見える程度になってしまった。このまま、この滝のような雨が続けば、確実にここは避難所になると、秋元は言っている。


 現在の雨の様子は、バケツをひっくり返したような雨、と言うよりも、滝のような雨の降り方に変わっている。確かに、この雨が夜中まで続けば、警報から避難指示に切り替わるかもしれない。しかし逆を言えば、避難所となるここで仕事をしている限り、命を落とすことはないということだ。まさか会社も、避難所に避難している社員に、そこを清掃しろとは言わないだろう。


「堤防、大丈夫だろ。もう何十年ももってんだし」


 俺はわざと吐き捨てるように言った。堤防は鬼も子供の頃経験したと言う大水害を受けて、その数年後に建てられた堤防だ。昔の蔵を意識した造りで、今では堤防と言うよりも、観光の写真スポットとして有名だ。雨が降った時でさえ、堤防から覗けば、川面ははるか下に流れている。大水害以来、様々な水害を乗り越えてきた堤防で、造りは頑丈だし、何より高い。あの堤防が決壊するところは、同頭を捻っても想像できなかった。


「佐野君。自然を甘く見てはいけません」


 どうやら秋元の近所に、役場の臨時職員として、堤防の調査を行ったことがあるおじさんが住んでいるらしい。その調査内容は、最悪の結果だったようだ。堤防のいたるところに経年劣化によるひびが入り、そのひびから雑草などが生い茂っていた。さらに、堤防の下敷きになっていた植物の力で、堤防自体が緩く波打ち、その影響で割れた部分に雑草が生い茂り、その雑草の力でさらにひびが広がると言う悪循環が見られた。このことから、次に大水害レベルの雨が降れば堤防は危険と判断されていた。俺はその話を全く知らなかったから、驚いた。そんな情報は、鬼ですら言っていなかった。まさか、役場がその情報を隠蔽し、最悪の状況になった時には、議員や役場職員だけ逃げるつもりではないのか。


「役場は、堤防の費用が捻出され次第、堤防の補強工事にあたるとしていましたが、間に合いませんでしたね」


 その情報は、俺が一切目にしない町報にちゃんと書いてあったらしい。しかし、万年赤字続きのこの町で、それほど巨額な予算が捻出できるとは思えない。やはり、町役場でさえ、俺のように自然を甘く見ていたのだろう。





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