7-4 躾

「待ちやがれ!」


 そう言いながら、男性は階段を一段飛ばしで駆け下りていく。その言葉は俺の言葉だろうに、と思うが言えなかった。本当は「すみません」の一言ぐらいあっても良かったと思っている。成人した父親が、小学生と一緒になって本気で鬼ごっことは、世も末だ。階段まで使っているのだから、危ないことこの上ない。親ならば、本来、子供たちを躾ける側の人間であるはずだ。それなのに、子供を追っていて他人にぶつかっておいて、謝りもせずに走り去る。これではただの図体の大きな子供ではないか。ぶつかられた背中が痛い。高校までの俺だったら、あの男性を半殺しにしていたところだ。


「大丈夫ですか?」


いつの間にか、秋元が俺のすぐ傍にいた。


「これくらい、痒くもない」


 俺が見栄を張り、秋元はそれに気付かず大会議室に目をやった。昼食の時間が過ぎて、大会議室は食べる場所の役割を終えていた。がらんとした室内には、使い終わった机と椅子だけが残されていた。食事に夢中で、片付けを忘れているのか。それとも、部屋の使用量に金を払っているから、片付けなくてもいいと思い込んでいるのか。


 俺と秋元は事務室から大会議室の鍵を借り、中に入った。手には新しい雑巾代わりのタオルがあった。秋元が机を拭いてから、俺が折りたたんで部屋の隅に片付けていく。椅子も秋元が汚れを拭きとってから、俺が重ねて隅に寄せていく。何もなくなった部屋の床は、味噌汁や飲み物、食べ物で盛大に汚れて、かぴかぴに乾いていた。しかも、これと同じ汚れがいくつもある。どうやら子供が食べこぼしたものだけではなさそうだ。本気で鬼ごっこして、ぶつかった相手を無視することといい、食べこぼしを恥ずかしいとも思わないことといい、最近の親は子供なのか。親の精神年齢が幼いのではないかと、疑いたくなる。


「最近の親は、子供を叱らないんだな」

「褒めて伸ばすのが、最近の主流らしいので、佐野君もお子さんを怒ってはいけませんよ。親が怒鳴り込んできたり、事務所にクレームが入ったりしますから」

「はあっ? 躾はどうなってんだかね」


 俺と秋元は水モップをせっせと動かしながら、乾いた飲食物の痕を拭いていく。大会議室は広いので、これだけで疲れるし、時間もかかる。汚れを落としてから、フリースモップをかけて埃などを取り除いて、ヒールマークを取る。あんなに走り回られたら、きっと全館がヒールマークだらけになるだろうと、心配だった。


 モップ類を片付けて、一階のトイレに戻る。トイレは案の定、清掃前の状態に戻っていた。俺の苦労は一体どこに消えたのか。そんなことを思いつつ、初めから清掃をやり直していると、秋元が男子トイレに入ってきた。そして、男子トイレの個室を覗き込んで、何かをチェックしている。


「ここは大丈夫みたいですね」

「何?」

「女子トイレ、またやられました」

「え? また?」


 俺たちの中でも、特に要注意人物はブラックリストに入っている。名前は分からないので、その手口でニックネームを付ける。個室をチェックしに来たということは、また個室のトイレが狙われたのだ。そこにしかないもの。それは、トイレットペーパーである。ある特定の女性が、個室トイレのトイレットペーパーを盗んでいくのだ。残りが多いトイレットペーパーから巻き取り、予備に置いておいた物はそのまま鞄に入れてしまうらしい。


「またトイレットペーパー女か」

「ええ。迂闊でした」


 こんな状態の中で、迂闊も何もないと思うのだが、秋元は渋面を作った。今日は全館利用で、子供たちが集まり、半ば混乱状態にある。しかも、ずっとトイレに貼りついているわけにもいかない。しかし、だからこそ、この混乱状態に乗じて、盗みを行ったのかもしれない。確かにここは公共の施設で、税金で建てられ、備品も町民税で賄われている。しかし、だからと言って、その施設の備品を自分だけの物にしていいわけがない。これは窃盗と言うれっきとした犯罪行為だ。


「つーか、まだ図書館にいたりするんじゃ……」

「ああ。そうですね。きいてきます」


 秋元はそう言って、図書館に入って行った。トイレットペーパーを盗む女は、図書館でも騒ぎを起こしたことがある。図書館の新聞に、勝手に線を引いたのだ。自分の家の新聞に何を書きこもうが勝手だが、図書館の新聞も公共の物であり、後から読む人の妨げになってはならない。俺が苛々いていると、肩を落とした秋元が図書館から出てきた。


「どうだった?」

「いませんでした。それに、図書館には今日は入っていなかったようです。一応、司

書の方に注意喚起だけしておきました」

「くそ! 何なんだよ、あの女」

「これはもう、事務所案件ですね」


 さすがの秋元も、これほど被害を出されたら、事務室に報告するしかない。事務所に報告すると言うことは、次に犯行があった時には警察沙汰にするということだ。少し大げさな感覚は受けたが、仕方ないことだった。秋元としては胸が痛いのだろうが、警察に言われれば、トイレットペーパー女も改心するだろう。


 後日、別の施設で、トイレットペーパー女が捕まったという噂が流れた。この施設だけでは飽き足らず、他の公共施設や店でも、同じ手口で犯行に及んでいたらしい。秋元は、クレプトマニアとは違った感じを受けたという。クレプトマニアとは、万引きなどでスリルを味わうことを目的として、犯行を繰り返してしまう犯人のことだと秋元は言う。しかしトイレットペーパー女の場合、自分に構ってほしくて犯行に及んでいるように感じると、秋元は言っていた。きっと孤独なのだろうと、秋元は女に同情していた。


 トイレットペーパー女が逮捕されたことから、施設の備品の盗難は収まった。しかし、少量のトイレットペーパーの巻き取りは、男子トイレでも女子トイレでも起きていた。秋元は、これだけは清掃員にはどうしようもないと、悔やんでいた。





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