7-3 調理

 男子トイレの汚れは、いつにも増して散々だった。小便器から滴り、床に広がる尿は異臭を放ち、大便器は便で汚れ、手洗い場は水浸しだ。ガラスには水滴が飛び、トイレットペーパーも空になりそうだ。ハンドソープの補充も必要だった。これを一日中清掃しなければならないと思うと、気が滅入った。とりあえず、俺と秋元は一回目のトイレ掃除を終えた。その頃には、既に大勢の人が施設内で賑やかにしていた。走り回る子供を親が捕まえたり、親に置いていかれたと泣き喚いていたり。そうかと思えばアイスやジュースを持って走り回る子供が、親に注意されて暴れていた。耳が痛くなるほどの雑音だ。綺麗にしたばかりのトイレにも、ぞくぞくと子供連れの来館者が入って行く。油断すると、子供にぶつかりそうになり、こんなところを清掃するのは、かえって危険ではないかと思われた。しかし、秋元は涼しい顔で、図書館に清掃に入る。確かに、図書館は催し物の区域外だから、通常清掃ができた。再びトイレを清掃し、昼食をとることになった。俺が萎えていると、秋元は、恐ろしいことを言った。


「本当に大変なのは、午後からですよ」

「これ以上に?」

「はい。二階の調理室も使用とのことでしたから」

「マジか。ちなみに何すんの?」

「昼食は調理室で作って、大会議室で親子そろって食べるそうです」


 聞かないほうが良かったと、俺は後悔する。調理室は、俺がトイレの次に嫌っている清掃場所だ。椅子や調理台、ガス台に床など、本当に面倒くさいのだ。しかも、見た目を重視したのか、床はクロスで細かな凹凸があり、ゴミや汚れが取れにくい。初めの頃は何をどこから手を付ければいいのか分からず、秋元に何度も清掃のやり方を質問していた。さらに、調理室から大会議室に食べ物を持って移動するということは、汁や食べ物がこぼれる心配もある。そうなると床がべたついているので、水拭きしなければならない。大会議室も同様だ。子供に、食べ物を一切落とさずに食べろと言う方が間違っている。


 気分がのらないまま、俺は秋元と一緒に二階の清掃に向かった。廊下やホワイエでも、いくつかの団体がブースを出しており、プラレールやバルーンアートで子供たちがはしゃいでいた。その後ろで、親は子供にスマホを向けて写真を撮っている。写真に映りこむことはできないため、近づくことすら困難だ。暇を持て余した子供たちが、鬼ごっこを始め、そこらじゅうを走り回っているので、階段から転げ落ちないかと心配でもある。


「どうやって清掃するんだよ?」

「オレンジのSでとりあえず対応しましょう」


 秋元もこの状態では手も足も出ないのか、一番小さいモップを選んで、邪魔にならないように拭き掃除をすることにしたようだ。俺は小さい手垢がいっぱいついたガラス拭きを任された。その時、調理室の方で、がしゃん、と派手な音がした。一人の女性と子供が、味噌汁まみれになって転んでいた。女性の横には盆と四つのお椀が転がっている。子供は泣きじゃくっていて、親が子供に慌てて寄り添っていた。そして、来館者同士のケンカが始まった。親は子供に怪我がないことを確認すると、女性をにらんだ。エプロン姿の女性も、むっとした様子で、親子をにらんだ。


「うちの子が火傷したらどうするんですか!」

「その子がぶつかってきたんでしょう!」

「謝りなさいよ!」

「どうして? 謝るのはそっちでしょう!」


 そんな醜態を見ていた秋元は、モップをトイレの通路の壁に立てかけ、ケンカする両者に近づいて、声をかけた。ケンカなら殴り合えよ、と思っていた俺は、秋元がこの場をどのように収拾するのか興味があった。


「どうかなさいましたか?」


 あたかも通りかかって、今ケンカに気付いたように、秋元は声をかけた。そして多目的トイレの方を見ながら、冷静に両者に語りかけた。


「お召し物が汚れてしまっていますね。あそこに洗い場があるので、お使いください。もし、落ちない汚れがありましたら、洗剤がありますので、お申し付け下さい。ここは私が清掃しておきます」


 そう言って、秋元はやはり頭を下げた。滑りやすい床で申し訳ございません、と。床が悪いということにして、暗にどちらも悪くないとほのめかしたのだ。俺だったら、正直に、子供の方がよそ見しながら女性にぶつかっていったと証言するところだった。秋元はいつでも来館者ファーストらしい。秋元は盆に転がっていた椀を重ね、調理室に戻した。そしてバケツにタオルで吸い取った味噌汁を絞り出していた。味噌汁がなくなったところで、水拭きモップで丁寧に拭きとった。ケンカをしていた両者は、毒気を抜かれたように、多目的トイレの水洗い場で、味噌汁の汚れを洗い流している。濡れたエプロンの女性が戻って来て、秋元に近づいた。俺ははらはらして見ていたが、秋元は微笑んで見せた。


「お怪我がなかったようで、何よりです」

「いえ。さっきは、ありがとうね」

「いいえ。こちらこそ」


 お互いに頭を下げあって、女性は調理室に戻っていった。それを見ていた俺に、誰かがいきなり体当たりしてきた。子供かと思ったら、どう見ても成人男性だった。その先を、小学生くらいの男の子たちが逃げて行く。どうやら男性は子供たちと一緒に、鬼ごっこをしている最中に、俺にぶつかってきたらしい。男性は俺を無視して子供たちに向かって叫んだ。

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