7-2 アイス

 そこに、ノックの鋭い音がする。ノックのしかた一つで、清掃員を人間として見ている人物なのか、それとも人間と見ていない人物かが分かる。ヒールマークもそうだ。偉そうにしている奴ほど、ヒールマークが長くて大きい。自分の足音の響きに、酔っている人間の歩き方だからだ。それに、立場が上の人間ほど、黒い靴をはくから一目瞭然なのだ。


「子供がアイス落としたみたい」


 事務室の男はドアを開け、その言葉を投げ込んですぐに、ドアを閉めた。


「すぐ行きます」


 秋元はそう言って、俺に目配せして掃除庫を飛び出した。俺がアイスをどうやって片付けるか考えている内に、秋元は女子トイレから水拭きモップを持って出てきた。そして床に視線を走らせると、親子ずれに挨拶しながら、素早く階段の下に向かった。俺は戸惑いながら、その後を追う。階段の下には、棒が刺さった白いアイスが半分解けた状態で、床にべちゃりと落ちていた。香りから判断して、バニラアイスだろう。秋元はおもむろにアイスから突き出た棒を引き抜き、ポップに擦り付けて俺に渡した。そしてモップを解け落ちたアイスに被せると、くるりと水モップを半回転させた。すると床にはもうアイスはなかった。俺は驚いて目を瞠るが、秋元の視線はなおも床を走っている。半回転させた水拭きモップをさらに回転させ、点々と残されたアイス液を拭いていく。アイス液はアイスの自動販売機まで続いていたが、秋元は全て拭き終えてしまった。そしてそのまま、女子トイレに戻り、何事もなかったように戻ってきた。俺は慌ててアイスの棒を、燃えるゴミに分別して捨てた。


「何だよ、今の。本当に手品師だったんじゃないか?」

「何がですか?」

「アイス消失」

「ああ。一応、これくらいは」

「何であれだけで、分かったんだ?」

「だから、何がですか?」

「どこにアイスが落ちてるとか、どのくらいの汚れだとか、全然言われてないのに」

「ああ。それですか。経験の差です」


 それを言われてしまうと、俺の経験不足が際立ってしまって、何も言えない。そう思って俺が黙ると、秋元は少しだけ笑って、冗談ですと言った。


「今日は暑いので、アイスを食べたがる子供が多いだろうな、と初めから思っていたんです。そして子供なら、すぐに食べたがるだろうって、予想は出来ます。つまり、自動販売機からアイスを買ってもらった子供は、すぐにアイスの紙を取ってしまうんです。でもアイスを買ってあげた大人としては、ちゃんと座って食べさせたい。だから座る場所を探すわけです。その間に、この暑さでアイスは溶け、子供の手に余る。そしてアイス液が棒を伝って子供の手を濡らし、アイスが手から落ちてしまう。子供が歩けるのは自販機からそう遠くありません。おおよそ、階段の下あたりだと思います。もし、大人がアイスを落としたなら、もっと先の場所だったと思うのですが、子供がアイスを落としたと言っていたので、見当がついたんです」

「探偵向きだな」


 今なら俺にも分かる。「子供がアイスを落とした」ではなく、「子供がアイスを落としたみたい」と、断定的な言い方でなかったから、アイスを落とした瞬間は誰も見ていないのだ。つまり、アイスが落ちているのを見た事務員が、掃除庫に言いに来た時には、もうアイスは溶けかけていた。そうなると、水気を吸い取る水拭きモップが最適な掃除道具となる。しかも、子供がアイスを落としたならば、秋元が言うようにアイスを持って移動したことになるから、アイスの自販機までアイス液で床が汚れていることも推測できるというわけだ。しかし、これを一瞬で見抜くとは、本当に咄嗟に頭の回転が効くのだなと感心してしまう。それに、あの水拭きモップの使い方は、誰でも出来る技ではない。俺が秋元に再び賛辞を送ろうとしていた時、今度は玄関ロビーから駆け込んできた若い男性が、俺たちに向かって来た。


「ああ。いいところに。あの、玄関先で自転車のカゴに入れていたジュースを、こぼしてしまって」

「見せて頂けますか?」


 血相を変えた男性に対しても、秋元は一切動じる気配はない。


「こっちです」


 俺と秋元が玄関ロビーから出ると、風除室を出てすぐに、黒い自転車があった。そしてその籠の中で茶色のビンが割れ、籠の下には黄色の水たまりができていた。


「少々お待ちください。佐野君、ゴム手でガラスのビン片付けて下さい。くれぐれも怪我をしないように、気を付けて下さい」


 そう言って、秋元は掃除庫の方に走って行った。俺も男子トイレからゴム手袋をはめて、ビニール袋を持ってくる。俺は瓶の欠片を慎重に取り出して、ビニール袋に入れていく。今日は子供のイベントの日だ。もし子供がここで転んだり、手をついたりしたら、大怪我をする。考えるだけでもぞっとした。そしてよりにも寄ってこんな日に瓶を割った男に、苛ついていた。そこに、一方の手にバケツに水を持ち、もう一方の手には水切り棒を持った秋元がやって来る。バケツの水を置いて、俺の作業の進捗状況を見る。


「意外に大きな欠片で済んでたから、拾えたと思う」

「そうですか。ありがとうございます。では、流雪溝の蓋を開けて下さい」

「ああ。そう言うことか」


 ここはニュースにはならない「隠れ豪雪地帯」と呼ばれる町だ。雪を片付けるための大きな側溝がいたるところに存在し、普段はコンクリートで蓋がされている。こぼれたジュースと細かいガラス片は、水で流雪溝に落として流せばいいのだ。俺はコンクリートの想い蓋を持ち上げ、横にずらした。そこにすかさず秋元が水を流し、水切り棒で水とジュースを一気に流し込む。その作業を秋元は数回繰り返し、風除室の前はすっかり綺麗になった。俺がコンクリートの蓋を元にも出せば、そこにジュースの水たまりがあったとは、誰も気づかないほどだ。俺が手間をかけさせやがってと思っていると、秋元は男性に頭を下げていた。


「ご報告、ありがとうございました」


 男性も、戸惑いながら、何度も俺と秋元に礼を言って、謝っていた。男性が去ると、俺と秋元はトイレ掃除に向かった。


「何で礼なんかすんだよ? あいつが絶対的に悪いのに」

「普通なら、あのまま逃げてしまいます。でも、そうしていたら、どうなっていたと思いますか?」

「そりゃ……」


 お俺が考えていた通りだ。幼児や子供が怪我をしたかもしれないし、誰かが転んだ拍子に怪我をしたかもしれない。それ以前に、風除室前にジュースやガラス片が散乱していたら、気分が悪いし、シミになっていたかもしれない。


「そうです。だから、ここでは自分が汚しても清掃員に言えば何とかしてくれる、という信頼関係を来館者様と築くのが最善策です。嫌な顔をしたり、怒ったりして、汚れなどの報告が上がって来なくなるのが、一番悪いことですから」


 秋元は当然のように言って、女子トイレの清掃に入って行った。俺も男子トイレの清掃に入る。




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