5-3 予防


「こんにちは。どうぞお使いください」

「おはようございます。どうぞ」

「お疲れ様です。多目的トイレはこちらです」


 秋元は、トイレの前のヒールマークを取っているから、トイレに来た人とすれ違う。そのため、一人一人に挨拶をしているようだ。これは今に始まったわけではない。秋元は会った人全員に挨拶を欠かさない。事務室に入る時、出るとき。事業所に入る時、出るとき。これくらいならまだ分かるが、階段や廊下ですれ違った時も、全く知らない施設利用者に挨拶をする。当然、清掃員などに挨拶を返す人はいない。無視されるのはまだ良い方で、時には睨み返してくる人もいる。稀に驚いたように反射的に挨拶を返す人もいるが、会釈だけだったり小声だったりする。どうせ返してもらえない挨拶なんて、しなくても同じ事だろうと、俺は思っていた。


 ヒールマークをひたすら擦り落とし、水モップをかけていると、正午のチャイムが鳴った。俺も秋元も疲労困憊気味だ。あんなに大量のヒールマークは見たことがなかったから、さすがの秋元もため息を吐いていた。掃除庫で弁当を食べる。秋元の弁当はいつもおにぎり二つだけだ。しかも、わかめとか梅干しとか、定番の具材しか見たことがない。よく飽きないものだと思いながら、俺は弁当を広げる。秋元がいつも粗食だから、こちらとしては食べにくい。だからと言って、おかずを分けてやるのも、施しを与えているようで嫌だった。


「挨拶、別にしなくていいんじゃね?」


 会社の方からは、事業所に挨拶するように言われていたが、利用者にまで挨拶しろとは言われていない。どうせ無視されるのだから、挨拶するだけ損だ。すると秋元は首を振った。


「挨拶は、予防です」

「挨拶が、予防?」

「前に、私たちは見られているという話をしました。でも、私たちだけが見られているわけではないと、お知らせする必要があります。そのお知らせが、挨拶です」


 聞き覚えのあるセリフだった。俺の高校が万引きの温床となり、高校周辺の店から、俺たちの高校の生徒全員が出禁をくらった時のことだ。全校集会が開かれ、万引きは窃盗罪という重い罪であることや、店員は常に俺たちを監視していること、監視カメラもあることなどが説明された。そして校長は、店側が「いらっしゃいませ」と声をかけるのは、挨拶と同時に、ちゃんと目が行き届いていることを、相手に知ってもらうサインだと言っていた気がする。


「挨拶をすることで、利用者側の意識を変えることができます。つまり、清掃員に見られていると思ってもらうことで、汚れの予防効果を狙っているのです」


 俺は首を傾げた。それは理想論だ。俺たちは全校集会の後も、万引きをした。店員に挨拶されようがされまいが、関係なかった。制服で高校がばれるから、私服に着替えてまで万引きをした。店側が薄利多売で、いくら企業努力をしているのかなど、関係なかった。


「効果、ない気がするけど? 俺なんか、小便器と小便器の間に放尿された時がある」

「挨拶はしましたか?」

「相手の方からしてきたから、珍しいと思ってただけ。俺からは、してない」

「その時、佐野君が挨拶をしていたら、変わっていたかもしれません」

「俺が悪いと?」

「可能性の話しです。とにかく、佐野君も挨拶するようにして下さい」


 俺はこの秋元の言葉を無視した。どうして無駄なことをしなければならないのか、理解できなかった。それに、誰にでもぺこぺこする秋元は、遠くから見ていて卑屈に見えたからだ。


 秋元は、午後になっても挨拶を続けた。しかし、挨拶が帰ってくることはなかった。階段を秋元が清掃し始めたとき、一人の男性が秋元の方に近寄ってきた。まだ若い男だが、平日の昼から施設にいるということは、働いていないのかもしれない。男のふらふらした足取りに、俺は嫌な予感がして、その男と秋元を視界に入れながら、廊下をモップで拭いていた。


「こんにちは」


 秋元がいつものように、男に向かって挨拶をした。男はにやついて、自分が持って来たペットボトルを飲みながら、秋元に付きまとう。


「掃除のおばちゃんに、挨拶なんてする価値ねぇんだよ。バーカ」


 男はペットボトルの中身を秋元に向かって、振りかけた。秋元は小さく悲鳴を上げる。俺は思わずモップを放り出して、階段を清掃していた秋元に駆け寄る。


「大丈夫か?」

「ただの、水だったようです」

「そう言うことじゃなく!」


 俺は階段の上から、俺と秋元を見下す男を睨んでいた。男はわざわざペットボトルに剥がしたラベルを詰めて、キャップで蓋をして、そのまま燃えるゴミに捨てた。その顔はやはりにやついている。俺たちに、分別しろと言っているのだ。


「このっ!」


 俺が男に怒りをぶつけようとした時、秋元が俺の腕をつかんだ。


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