5-2 夢
玄関ロビーを終わらせて、珍しく秋元の方から俺に質問してきた。
「佐野君は、小さい頃、何になりたかったんですか?」
図書館から出てくる子供たちを目で追いながら、秋元は目を細めている。それにつられるように、未就学児と思われる女の子が、図書館から出てきてしまった。その時、秋元はわき目もふらずに走り出していた。幼い女の子が転びそうになるのを、秋元が支えていた。しかし、それを見た母親は、女の子の手をぐいと引いて、秋元を睨みつけていた。そして、信じられない捨てセリフを吐いて、去って行った。
「汚い手で、うちの子に触れないで」
それを背中で聞いた秋元は立ち上がり、親子に向かって軽く会釈をしていた。
「お気をつけて」
そう言って、秋元は俺のところに戻ってきた。フリースモップから箒で埃を取り、集めて塵取りに入れる。流れるような無駄がない作業だ。どうして、秋元が何も言い返さないのかと、俺は自分のことでもないのに、腹をたてていた。清掃員が汚いというイメージは、利用者が残していくゴミや汚れのせいだろう。もしも、利用者がゴミも汚れも出さなければ、清掃員など必要がない。しかし、人は存在するだけでゴミや汚れを生み出している。あの女の子も、その母親もそうだ。それなのに、自分を棚に上げて、あんな酷いことを言うのは間違っていると思う。
「俺、将来のこととか、考えたことない。てか、考えてたら、こんなとこにいないよな」
「そうですか。じゃあ、今の仕事は嫌いですか?」
「好きな奴いんのか?」
「まあ、物好きですね」
「だろ?」
「でも、こんなことを言っていた人がいます。好きなことを仕事にしてはならない。仕事を好きになれ、と」
「誰の名言だよ?」
「友人の言葉です。その言葉の意味が、この仕事に就いてやっと分かった気がします」
「どういうこと?」
「今の仕事を好きになれば、充実した日々になるということです」
「で、先輩の夢って何だったんだ? お花屋さんとか? ケーキ屋さんとか?」
俺は馬鹿にしたように秋元に言ったが、本当は教師に向いているのではないかと思った。他人に教えるのは巧いし、話し方も丁寧だ。
「私ですか。私は、そうですね。普通のサラリーマンになりたかったです」
意外な答えに、真実を見た気がして、俺は目を瞠った。しかしそれを巧く返せるほど、俺は大人ではなかった。
「それって、OLってこと?」
俺の揶揄いに、秋元は笑った。冗談です、と。
そして小学生がいなくなった図書室の事後清掃に入って行った。何だかその後ろ姿が、寂しげに感じられた。俺は俺に、腹をたてていた。
二階に上がり、俺と秋元は絶句した。階段を上がってすぐの二階廊下は、真っ黒だった。幾重にも大小さまざまなヒールマークが重なり、大会議室に続いている。一体何があったのか、首を傾げるしかない。仕方なく秋元がフリースモップをかけ、俺がヒールマーク用の洗剤で、一つ一つヒールマークを消していった。最近できたものらしく、色の濃いものも、薄いものも、すぐに消すことができた。しかし中には傷になっている黒い線も混じっていて、綺麗な状態に戻すのは無理だった。それだけではない。俺がヒールマークを取っている場所と離れたトイレに向かう通路も、真っ黒になるまでヒールマークで汚れていた。そこは秋元が請け負ってくれた。二人で床に向かい、せっせとヒールマークを擦り落としていく。なかなか地道でキツイ作業だ。そんな中、がやがやと賑やかな声が、大会議室から聞こえてきた。どうやら図書館の使い方を学んだ小学生たちが、大会議室で何か話を聞いていたらしい。その内容は知る由もないが、二階にヒールマークを付けた犯人たちの正体は分かった。この小学生たちの靴は、色とりどりで、黒い靴底は男児に多かった。しかも、ふざけながら歩くので、床に靴底を擦り付けるようにして歩くのだ。そんな小学生たちは、必死にヒールマークを消す俺と秋元を指さして笑っていた。
「何かやってる」
「消し消しジジイと、消し消しババアだ!」
何が面白いのか、俺と秋元に変なあだ名を付けて、大笑いしている。
「この、クソガキ」
俺が小声で言って立ち上がると、秋元はそれを予期していたかの如く遮る。そして児童たちに微笑みかける。
「こんにちは。階段、気を付けて帰ってね」
秋元はそう言いながら、児童たちに手を振っていた。事務的な微笑みだが、笑うことができるのだと、そちらに興味が傾き、俺は何をしようとしていたか一瞬忘れた。しかし床を見て苛立ちと共に記憶がよみがえる。
「先輩、なんでだよ? あいつらがこれの犯人じゃないかよ」
俺は床を指さしながら、秋元に詰め寄った。しかし秋元は、もとの無表情に戻り、静かに俺を諫めた。
「まだ、子供です。佐野君は、小学生の頃、ああやって友達と遊びながら歩きませんでしたか? 床の汚れなんて、気にしていましたか?」
「それとこれとは話が違うだろ。教師だって注意してなかったし、教えてやるのも俺たちの役目だと思うけどな」
「佐野君、さっきの女の子の母親を思い出して下さい。私たちは、信用されていないのです。特に、子供にとっては、侮ってもいい相手だと思われています。もし私たちが怒ったら、児童たちをさらに騒がせることになったでしょう」
「消し消しババアのくせに」
「佐野君だって、消し消しジジイの称号を貰っていたじゃないですか」
「称号? ただの悪口だろ?」
「あだ名を貰うのは、それだけ近しい存在に感じてくれたということです。私はそれを嬉しく思います。きっと彼らは一人でここに来た時、ヒールマークを残さずに帰るでしょう」
「先輩って、本当に変わり者だよな」
俺はぶつぶつと文句を垂れ流しながら、ヒールマークを消す作業に戻った。
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