五章 悪意の現場

5-1 小学生

 掃除機をかけていると、駐車場にスクールバスが入ってくるのが見えた。地元の小学校の児童たちが、わらわらとバスから降りてくる。見たところ十歳くらいだから、小学校四年生か五年生くらいだろう。若い女教師は、大学を出たばかりのようで、児童たちを静かにさせるのに必死だった。俺も仕事をするなら、あんな女性がいいな、と思いつつ、掃除機をかけていた。そこに、二列に並んだ児童たちが、先生に引率されるかたちで入ってくる。まだ風除室の掃除機掛けが終わっていない。児童たちは掃除機のコードを跨いだり、ぴよんと跳ねたりしていた。


「うわあ。邪魔」


 という声が聞こえたので、慌てて掃除機を片付けようと、プラグを抜いてコードを巻き取っていく。しかし、それを見た児童がまたやんや言い出した。


「ぐちゃぐちゃ」

「下手くそ」

「邪魔」


 俺の怒りは頂点に達しようとしていた。どうして引率の教師は何も注意しないのか。俺が本気で怒れば、こんなチビどもは泣き出すに決まっている。しかし、児童たちを追うように、新聞記者とカメラマンらしき男性が入ってきた。ここで俺がチビどもを泣かせたら、それこそがニュースとなってしまうだろう。何故ならここは、平和な田舎で、事件や事故は滅多に起こらないからだ。だから地方の新聞記者もローカル番組のカメラマンも、新しくできたこんな施設にわざわざ来て、子供たちが図書館の利用の仕方を学ぶなんてことまで記事にしたり、ニュースにしたりしているのだ。俺はどうにか怒りの矛先を鞘に納めて、男子トイレの清掃に移った。しかし、ここでも問題が発生していた。


 図書館の前に並んでいる児童の列が、男子トイレの出入り口まで伸びていたのだ。こんな田舎にこれだけ児童がいたとは驚きだが、元々あった五つの小学校が統合され、新しい小学校になったと聞いたことがあるから、これくらいの大人数になったのかもしれない。俺は人生で初めて猫なで声を出した。


「ごめんな。ここ通してね」


 自分の声と口調が気持ち悪かった。そして何故か俺に声をかけたられた児童が、泣きそうになっている。俺がそんなに怖いのだろうか。それを尻目に、秋元は児童の間をするすると縫って、女子トイレの清掃に入ってしまった。


「ごめん、ごめん」


 俺が謝りながら男子トイレに入り、清掃を始めると、何人かの男子児童がトイレに雪崩れ込んできた。どうやら図書館に入る前に、トイレ休憩が入ったらしい。そんな事とはつゆ知らず、俺はパニックになっていた。友達としゃべりながら小便器に向かうものだから、尿が便器から垂れている。しかも、個室の方は二つとも使用中になってしまった。どこからどう手を付けたらいいのか分からなに。とりあえず、箒を手に取り、空いているスペースの掃き掃除から始めた。しかし、元気のいい声はぞくぞくとトイレに向かってくる。しかも、全員俺の存在を無視している。よけたり挨拶をしたりといったことは、全くしない。子供だから仕方がないとはいえ、掃除する方は大変だ。どの児童の靴にも、どこから付けてきたのか、泥がついていたからだ。


「うわ。すげー。トイレきれい」


 その意見に俺も心の中でうなずく。それはそうだろう。俺が毎日掃除しているのだから、完璧にきれいになっていて当然だ。しかし、すぐに別の声がその意見を打ち消す。


「当たり前だろ。ここ、新しいんだから」

「ああ。そっか」

「早くいこーぜ」

「待てよ」

「もうみんな、行ってるよ」


 まるで、嵐に巻き込まれたような状態で、俺は何もできずにトイレの隅で立ち尽くしていた。情けない話だが、俺も高校の頃は、清掃員なんか無視して当然だと思っていた。それが小学生レベルであり、社会的にそうしてもいいような雰囲気があるという事実に、打ちのめされていた。そして今、トイレを使った小学生は、今後もトイレは誰が綺麗にしているかなんて、知らずに育つのだ。そして彼らの将来の夢のランキングに、今も、これからも、清掃員は入らないのだ。新型インフルエンザが流行した時、ゴミ収集業者がエッセンシャルワーカーとしてとりだたされた時期があった。ゴミ収集車が来ないから歩道に家庭ごみが溢れ、問題になったのだ。これは清掃業者に社会が目を向ける好機だったが、ゴミ収集が再開されると、この問題は取り上げられることがなくなった。つまり、家庭用のごみが目につくところに放置されるのは困るから、誰でもいいから片付けろと言っていたに過ぎない。社会におけるゴミにまつわる仕事など、その程度の認識なのだ。俺はそう思いつつ、箒で乾いた泥を掃き出し、通常清掃を行った。もちろん、今までで一番時間がかかってしまったことは、言うまでもない。


 図書館は小学生に占拠されているため、清掃には入れない。そのため玄関ロビーを、もう一度フリースモップで磨くことにした。小学生が通ったため、事後清掃となるのだ。一般的に、清掃作業は事後清掃である。つまり、使用後の部屋を清掃するのだ。これに対して、使用前の部屋を清掃することを事前清掃と言い、これは滅多にない。事前清掃に入るのは、大ホールを誰かが使う時にくらいだ。大ホールを使うゲストに、気持ちよく楽屋や楽屋のトイレを使ってもらうために、ゲストが到着する前に清掃を終わらせる必要がある。そのため、事前清掃には素早さが求められるため、俺は入ったことがなく、秋元が一人で済ませている。秋元は俺に構っていなければ、本当は一人でこの施設を清掃できるのだ。

 




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