4-4 体裁

 春は雪が解けて泥をつけてくる人が多いため、乾燥して泥が砂礫に変わる季節。夏は湿気が多いため、埃も水分を含んで重くなり、色も濃くなる季節。秋は枯葉が舞い込み、夏に生きていた虫の死骸が増える季節。冬は雪が入るために水で床が濡れ、泥になる。その上厚手のコートや服を着たり脱いだりするので、一番綿埃が増える季節でもある。ゴミが一番多いのは、おそらく大ホールを使った後だが、そこの埃は赤くなるので、すぐにどこのごみか分かると言う。何故ならば、大ホールの客席が赤かったからだと言う。まるで利き酒ならぬ、利きゴミだ。大ホールなんて見学にちらっとしか見ていないはずなのに、もうごみの予想がつくのだ。すごいことなのだろうが、同時にそこまでできると変態じみている。しかも、代り映えのしないゴミに、そんな違いがあるとは思ってもみなかった。やはり経験が違うのだろう。


 砂礫の多い季節は、水拭きも必要だと言うので、俺と秋元はモップを水拭きモップに持ち替えて、再び担当の会議室に戻った。細かな砂や小石をそのままにしておくと、床に傷がつくのだと言う。普段何気なく使っている部屋に、ここまで気を使っていたとは、驚きである。


 水拭きが終わると、次はいよいよ床のヒールマーク取りだ。女子トイレに洗剤があるので、俺は秋元が戻ってくるまでトイレの前で待っていた。そんな俺の横を、訝し気な表情の親子が通り過ぎていく。その後、母親に手をひかれた幼い子供が声高らかに、言った。


「どーちて、おそうじのひと、たってるの?」


 母親は慌てた様子で、人差し指を立てて「しっ」と言った。しかしその母親の顔にこそ、男性清掃員が、女子トイレの前で何をやっているのかと書いてあった。休憩場所も限られ、自販機もスマホも使えないのに、立ってるだけで文句か。一体俺たち清掃員が何をしたというのだろう。俺がこんなに真面目に掃除しているのに、清掃員というだけでこの仕打ちか。過去の俺たちの所業を振り返れば、他人の事を悪く言える筋合いはない。それよりもあんな子供と同じレベルの事を言ってくる大人の気がしれない。俺はその親子を、ずっと睨んでやった。そこに、白いスプレーと水拭きモップ、スポンジを持った秋元が戻ってきた。そして俺の不機嫌な顔を無視して、床を指さした。そこには大きなヒールマークがあった。


「やり方、覚えて下さい」


 そう言って、スプレーで業務用中性洗剤を、ヒールマークに噴霧する。そしてスポンジのざらざらしている方で、ヒールマークを擦る。すると、気持ちいいくらい黒いヒールマークが消えていく。最後に、擦ったところを水拭きして完了だ。オレンジのモップではあんなに力と時間をかけて、一つのヒールマークを落としていたのに、簡単に落ちた。力を入れなくても簡単に汚れが落ちると言うのは、胡散臭い通販番組でよく言われる言葉だが、これは本物だ。


「やってみて下さい」

「おう」


 俺も秋元と同じ手順で黒い汚れを拭いてみる。しかし、同じ物で同じ作業を行っているのに、全く落ちる気配がない。力を入れてスポンジで擦っても、駄目だった。


「それ、傷ですね」


 秋元が俺の手元を覗き込んでそう言い、説明を続けた。


「傷はもちろん落ちません。それから、黒いヒールマークよりも他の色のヒールマークの方が、落ちにくいと思います。後は、古ければ古いほど落ちにくくなります。だから早期発見と早期対処が必要です」


 そうならそうともっと早めに言ってほしかったと思いつつ、経験がものを言うのだと、改めて感じた。それにしても、早期発見と早期対処なんて、まるでがん検診啓発の言葉だと笑えた。秋元は俺に玄関ロビーのヒールマークを任せ、自分は図書室に入って行った。秋元は図書室など、人のいる所に清掃に入る時は、一言断るように言い置くのを忘れなかった。俺はロビーに立ち尽くした。いくら簡単にヒールマークが落ちると言っても、一つ一つ手作業で落としていくのだ。しかも合板の床は木目や傷が多く、ヒールマークと見分けがつきにくい。それなのに、細かなヒールマークと思われる汚れは数えきれなかった。俺は仕方なく、一つ一つ丁寧にヒールマークを消し始めた。しかし、大まかなところを落とし終えたところで、俺の集中力は切れた。もう十分だろうと勝手に思い、図書室に足を向けた。すると、フローリングの床に貼りつくようにして、ヒールマークと格闘する秋元の姿があった。挨拶を忘れそうになり、図書室に入ってから「失礼しまーす」と言った。ふとカウンターを覗き込むと、図書館の休憩所が目に入った。そこには小さな流しと、机や椅子があった。どういうことだ、と俺は思った。俺たちは掃除庫でしか休憩が取れないのに、図書室には十分な休憩室があるではないか。しかも流しまでついている。この待遇の差は何だ。俺はいてもたってもいられず、秋元にそのことを告げ口した。しかし秋元は小さく「知っています」と答え、図書室のカウンターに声をかけて、頭を下げながら図書室を出た。そして二人で掃除庫の前まで移動して、俺は言った。


「あそこ、借りればいいんじゃないかよ?」


 俺は先ほどの親子や、待遇の差に、苛立っていた。思わず声も大きくなる。すると秋元は俺を掃除庫の中に引き込んだ。


「他は他です。借りることはできません」

「同じ仕事してんじゃん。しかも俺たちの方が動き回ってんだぞ?」

「佐野君、そう言う態度は駄目です」

「は? 何が?」

「傲慢だと言っているんです」


 秋元が、珍しく厳しい声を出した。


「私たちに多くのクレームが来ると言うのは、それだけ他者から私たちが見られているということです。確かに理不尽なことも多くあります。でも、だからと言って、私たちが傲慢な態度に出れば、ますます他者の心象は悪くなり、自分の首を絞めることになります」

「体裁がそんなに大事か?」

「はい。大事です。仕事をするということは、誰かに見られるということですから」


 俺は溜息を吐いた。唾もはきたかったが、そこは我慢した。ここで秋元を責めても仕方がない。確かに、図書館から場所を借りられても、居心地は悪そうだ。俺と秋元は二階もヒールマークを取って、道具を片付けた。その頃にはもう日が傾いていた。後は最後の見回りをして、汚れやごみをチェックする。そして溜まっていればごみをまとめて、ゴミの集積所まで持って行くだけだ。長い、長い一日だった。体力には自信があったが、今では疲労困憊で、筋肉痛が全身を襲っている。これを毎日繰り返すことを考えると、気が萎える。一方の秋元はそんな様子をおくびにも出さず、連絡用のノートや、清掃記録用紙に〇をつけて印鑑を押していた。




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