4-2 ヒールマーク

 次は図書室だ。図書室には司書が何人か在中していて、朝晩に清掃を行っている。そのため、図書館の清掃は軽めでいいと言われた。その一方で、会社と施設が結んでいる契約では、床とトイレが軸になっているため、手抜きは出来ない。フリース生地の大きなモップで、一気に図書館の床を拭いていく。俺はモップの大きさと本棚の間隔の目測を誤り、いつも本棚にモップの角をぶつけてしまう。狭いため、角まで到達した時、どの様にモップを回転させればいいのか分からない。すると秋元がすかさず寄って来て、モップの上を持つ手を回転させて、下の方の手でモップの舵を取るように教えてくれた。俺はこれまで全てを下の手でやっていて、上の手はひたすら力を加えていたから、思うようにモップが動かせていなかったのだ。しかし秋元の言う通りにすると、モップが水を得た魚のように、すいすいと滑る。力が入っているわけではないのに、自分の進みたい方に勝手にモップが動いているようだ。それに、最大の難関だった隅でのターンも、手首を捻ることで簡単にできた。俺は自分が天才だと思った。俺がモップをかけている間、秋元は窓の縁を水拭きしていた。ここで使うのはただのタオルではなく、繊維が残らない特殊なもので、鏡やガラスにも使用するものだ。


 図書館の次は廊下やホワイエを、同じモップで拭く。モップが大きいから楽だと思っていたが、思っていた以上にホワイエも廊下も広く、何度も往復しながら拭き残しのないようにするのが難しい。しかし、基本的に図書館の時と同じモップの動かし方なので、無駄な力を入れずに拭くことができていた。俺は廊下やホワイエであることに気付いた。床に黒くて擦ったような跡が、点々とついていたのだ。


「先輩、これ、何すか?」

「ヒールマーク」


 初めて聞く単語だった。そいえば、学校の廊下でも見たことがあったような気がする。その時は、何か黒い汚れがあるな、くらいに思っていた。まさか、こんな汚れ一つにも名前があるとは知らなかった。俺はモップで擦ってみるが、いくら力を入れて擦っても、ヒールマークは落ちなかった。むしろ、前より汚くなったかもしれない。


「ゴムを擦った時に出来る汚れで、靴のかかと部分でつくから、ヒールマーク。それでは落ちないけど、オレンジのモップでなら落ちますよ」


 フリース地のモップは砂礫や埃を取ることはできても、汚れを取るには向いていないのだと言う。オレンジのモップは、このフリース地のモップより小さく、油がしみ込んでいるので、汚れを取るのに適している。一口にモップと言っても、種類によって得意不得意があるのだ。俺は急いで掃除庫に戻り、オレンジ色のモップを持って来た。ヒールマークの上でごしごしと拭く。しかし、落ちない。秋元が嘘をついたのかと訝しんでいると、秋元は俺の持っているモップに手を伸ばした。


「こうするんです」


 そう言って秋元は、モップの端をヒールマークの上に乗せて、その上を足で踏みつけた。そして足でモップの端を踏みつけたまま、床を蹴るように拭く。次にモップが床から離れると、そこにはもう、汚れ一つなくなっていた。時には荒療治も必要ということだろうか。しかし、ヒールマークはどこにでもあり、大きさも様々だ。一つ一つこんなことをしていたら、体力が持たない。そんな俺の心配を察したように、秋元は言った。


「ヒールマーク専用の床用洗剤があるから、午後からはヒールマーク消しですね」


 そんな便利な洗剤があるなら、先に言ってほしかった。俺が走って持って来たこのオレンジのモップは、一体何のためにあるのだろう。無駄な体力も使ったし、もしかしたら秋元は俺を実は苛めているのではないか。俺は歩いて、オレンジのモップを掃除庫に片付け、廊下のモップ掛けに戻った。その間、秋元は図書館の窓枠に使った特殊なタオルで、ガラスを拭いていた。一見綺麗に見えるガラスだが、光の加減や見る向きによって、曇っていたり、手痕がついていたりする。その見極めはさすがだと思った。


 そうこうしている間に、チャイムが鳴った。正午を報せる時報だ。二人でまた掃除庫の中に籠る。やはり埃臭いし、狭くて暗い。こんなところで飲食をしていたら、体を壊しそうだ。しかし秋元は、平然と弁当を広げる。秋元の弁当は前と同じおにぎり二つだった。一方の俺の方も、前と同じ鬼の手作り弁当だ。小食なのか食に鈍感なのかは知らないが、相手がおにぎりだけだと言うのに、こちらがにぎやかな弁当だと、何だか食べにくい。だいたい、俺が他人と行儀よく昼飯を食べるなんて幼稚園ぶりだ。いつもは菓子を食べるか、軽くパンを齧るだけだった。朝から夜中まで遊んでいたから、規則正しい生活に加えて労働など、過去の俺には想像もできなかっただろう。


「何ですか?」


 俺があまりに秋元のおにぎりを見つめていたから、不快に思ったようだ。


「いや。別に。足りんのかなって」

「余計なお世話です」

「だよな」


 俺は無言の中、弁当を平らげ、秋元もおにぎり二個を完食した。秋元がマイボトルのお茶を飲み、俺は炭酸飲料を飲む。飯に炭酸飲料なんて合わないだろうと言われたことがあったが、これだけは昔からの習慣でやめられない。炭酸飲料では熱中症対策にならないと聞いたことがあるから、もう少し季節が進めば、否が応でもスポーツ飲料が必要となるだろう。



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