四章 退屈な仕事

4-1 汗

 開館日当日、俺はあのダサイ制服を着て秋元を待っていた。秋元が会社に掛け合ってくれたおかげで、休日は事務室で休憩が取れるようになった。しかし、平日はやはり掃除庫で休憩をとらなければならなかった。俺だけではなく、もう一組の方も納得はいかないといった様子だったが、これ以上言うと、会社と契約をしている施設側から契約を破棄され、仕事がなくなる危険性が在ったので、陰口を叩くだけにとどまっていた。


 秋元が入って来るなり、目を丸くした。


「早いですね」

「八時にはここにいろって言ったの、先輩の方じゃないですか」

「そうでした」


 秋元はそう言って、事務室に挨拶をして掃除庫の鍵を取る。清掃員の挨拶には、誰も挨拶を返す奴なんていないのに、秋元は愛想よく挨拶をする。どこの事業所に行くにしても、人にすれ違う時も、秋元は挨拶を欠かさない。清掃員なんかに、誰も挨拶なんてしない。むしろ、睨んでくる奴もいる。その目が「うっせーな。ババア」と言っていても、お構いなしに挨拶をする。しかも昼近くなっても、ずっと「おはようございます」と言う。何故返ってこない挨拶を、わざわざするのか、何故いつも「おはようございます」なのかきいてみると、恩師の教えだからだと言う。恩師と聞いて俺に思い浮かぶ人間はいない。唯一それらしきは学年担任の富岡だったが、秋元のようにずっと尊敬できるほどではなかった。秋元はきっと俺と違って、優等生だったのだろうと、勝手に想像する。現在は二十代後半だと言うが、高校を卒業してから秋元が何をしてきたのかは、誰も知らない。


 八時半から開館だから、その前に絨毯に掃除機がけを終わらせる必要がある。業務用のバキューム掃除機は音も胴体部分も大きいから、早めに済ますように言われている。業務連絡が聞こえにくいとか、図書館があるところだからとか、いろいろと理由を聞いたが、単純にうるさいだけだろうと解釈していた。俺が重たくて使い慣れていない掃除機に悪戦苦闘しながら、絨毯に掃除機掛けを行っている間、秋元は玄関ロビーのモップ掛けをしている。一番大きなダスタークロスというモップだ。クロスの表面は白いフリース素材になっており、使い捨てではなく、洗って何回か使い回しができる。以前には使い捨ての紙っぽいクロスを使っていたのだが、環境問題や経済面の問題から、使い回しできるフリースクロスに切り替わったらしい。たかが清掃道具と言っても、社会問題と関わっているのだ。玄関の周りや風除室の絨毯が終わると、階段下やトイレの手洗い場の絨毯にも掃除機をかけ、最後に図書室の絨毯で終わりだ。俺は掃除機は何とかかけられるが、その後が問題だった。掃除機の線の回収が巧くできないのだ。いつもぐちゃぐちゃに丸めて、強引に紐で縛る。俺が終わる頃には、秋元がロビーのモップ掛けを終わらせているので、今日も縛り直してもらう羽目になった。誰にも見られたくない光景だった。こんなちっぽけなことが、俺に出来ないなんて、格好悪すぎる。


 次はトイレ掃除だ。俺はもちろん男子トイレの専属で、秋元が女子トイレを担当する。研修でトイレの釉薬のことを習ったが、学校では教えてもらわなかった。だから小学校でトイレ掃除する時には、必ず強い酸性の洗剤を付けてごしごしとやっていた。まさか、それが逆効果だったとは、意外だ。学年主任は家庭で習うような職業は、下に見られると言っていたが、俺は研修で学校でも習わなかったことを教わっている。すると当然、何故俺たちが見下されなくちゃいけないのかが分からなくなる。秋元は日本史的な説明をしていたが、それでもやはり、見下されるのは納得がいかなかった。さて、トイレ掃除は春と言えど重労働だ。まだ一か所目だと言うのに、もう汗ばんできている。しかし、大汗をかく俺とは違って、秋元は涼しい顔で清掃をこなしていく。大ホールの横のトイレや二階のトイレなどを回り、手順通りに清掃すれば、トイレは終わりだ。ここまでくると、大体に時間はかかっていて、十時の休憩になる。


 休憩室は、やはり掃除庫だ。無機質で、狭い。その上湿気が多いため、いつもカビが棚を覆っている。空調も窓もないので、夏は暑いし冬は寒いと予想がつく。本当に最悪だ。俺は首から下げたタオルでごしごしと汗を拭くが、秋元はデオドラントシートで、軽く拭いただけだった。


「汗、かかないんだな」


 俺が羨ましそうに言うと、秋元は「ああ」と小さく声をあげた。そして自嘲気味に、笑った。


「昔の癖です。顔に汗かくと支障があったので」

「げ。何だよそれ。昔はマジシャンでもしてたのか?」


 よく分からないが、大汗をかきながらカードを切るマジシャンがいたら、絶対見ている方が気を使うだろうと思って言ってみた。それが秋元の笑いのツボを押したらしい。秋元は声をあげて笑った。


「マジシャン。そうですね。意外にそれに近いかもしれませんね」

「本当は何だったんだ?」

「佐野君みたいに、汗が出るといいんだけど。でないと、夏は熱中症になりやすいから」


 秋元はわざと俺の問いかけには答えなかった。そしてあっという間に十五分が経過し、朝の休憩はこれで終わってしまった。互いに飲み物は飲んだが、部屋の状態が食欲を削り、腹が空いていたにもかかわらず、二人とも何も食べなかった。

 



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