3-4 休憩
覚えていてほしくはなかったが、あれだけ酷いことをしておいて、忘れていてほしいと言う身勝手な願望があった。秋元は、即答だった。
「覚えています」
忘れたくても、忘れられないというのが本音だろう。尿やジュースをまき散らし、ゴミもそのまま放置した高校生の集団が、俺たちだ。しかもあの時の俺は横柄な態度で、秋元を無視していた。トイレがこんなに丁寧に手順を踏んで、材質にまでこだわっていつもきれいな状態に保たれていたことを、俺は今日、初めて知ったのだ。先輩は続けた。
「特に汚す人は、覚えておかないとこの仕事は成り立ちません」
俺は意表を突かれた。秋元から恨み節を聞く覚悟でいたのに、秋元の言葉からは諭すような雰囲気はあっても、感情的なものは伝わってこない。
「汚す人が出て行ったら、すぐに清掃をしておかないと、次の人に迷惑がかかります」
「は? 何それ」
俺は間抜けな言葉しか出なかった。秋元が言うには、汚す人を記憶しておけば、清掃がしやすいということなのだ。確かに何の罪もない人に、汚れたトイレを使わせるのは清掃員としては気が引けるかもしれない。しかし、汚していった奴らに怒りも憤りもせず、悲しむことも困惑もせず、即座に汚いトイレを掃除するという感覚が、俺には分からなかった。むしろそれが人間味のない、無機的な行動に思えた。
「先輩って、本当は人間じゃなかったとか?」
「人間以外に何に見えるんですか?」
「ロボットとか、神様とか」
「口より手を動かしてください。私は女子トイレの様子を見てきますから」
そう言い置いて、秋元は隣の女子トイレに向かった。俺は掃き掃除を終えて、ゴム手袋をはめた。そして一見何の問題もないように見えるトイレの座面を上げた。するとそこには、黄色のかさかさした尿の乾燥した物や、飛び散った便などがこびり付いていた。ここは開館前だと言うのに、事務室や各事業所の人間が、既に何日か前からトイレを使っていたのだ。今まで使っていた人間も時間も限られていたのに、もうこんなに汚れている。開館したら、もっとひどい汚れになるのだろう。そう考えて、俺の手は止まっていた。しかし、秋元の言葉を思い出して、便器の中をブラシで洗う。秋元は常に次使う人のことを考えていた。次使う人には何の罪もない。だから俺たちがいるのだ。便器の中を洗い終えると、赤いタオルで座面の裏側を水拭きする。赤いタオルは尿と便で茶色に汚れた。水分が戻ったので、悪臭も鼻を突く。俺はそそくさとそのタオルを洗い、黄色のタオルに持ち替えた。座面を下げて、座面の表面や便器の蓋を水拭きする。なろほど、色分けしたタオルを使えば、汚れるタオルと、汚れないタオルに分けて使うことができる。混ぜて扱わなければ衛生的だ。このタオルの使い分けを、他の三人はカラコンと呼んでいて、初めはカラーコンタクトとしか思えなかったが、今はカラーコントロールという言葉がしっくりきた。秋元がトイレ掃除の初めに言っていた言葉だった。
俺が男子用の小便器を清掃していると、秋元が戻ってきた。
「もう、他の二人には昼食をとってもらっています。でも、焦らず、ゆっくりでいいので、手順を確認しながら、丁寧にやって下さい」
男子トイレより女子トイレの方が広くて面倒なはずなのに、もう昼飯を食べているのか。俺はまだ半分も終わっていない。これが経験者と未経験者の違いだろう。少し、悔しかった。俺のそんなちっぽけな対抗意識を知る由もなく、秋元は俺が清掃し終えた個室をチェックしている。そして座面の裏まで確認した秋元は、うなずいた。
「よく出来ています」
「ああ。そ、そうか?」
他人に褒められることが、こんなに嬉しいとは、思ってもみなかった。
トイレ清掃を終えて、掃除庫に秋元と一緒に向かう。トイレから掃除庫は直線で目と鼻の先だった。ちょうど高木と杉本が昼食を終えて、外に出てきたところだ。本当に、掃除庫で飲食するのだと、急に現実味を帯びる。高木と杉本も、これには反感を持っていたようだ。二人が秋元に向かって、ここで休憩するのは辛いと抗議し始めた。二人が言うことは、俺が不満に思っていたことと、ほぼ一致していた。臭くて暗くて、埃っぽくて狭い。空調一つ付いていないため、夏には熱中症のリスクがあるし、冬には寒くて風邪をひくかもしれない。どうにか他の場所で休憩や食事をとれないのか。これはれっきとした職業差別だ。この施設自体が、清掃員の休憩場所は必要ないと言っているようなものだ。俺も、二人に同調してうなずいていた。しかし、秋元は動じなかった。表情も口調も変えずに、淡々と説明する。
「確かに、ここで休憩や食事をさせるのは、職業差別かもしれません。ただ、他に場所がない以上、ここしか休憩場所はありません。事務室には、なるべく入らないように言われていますし、他の事業所にも入れません」
「じゃあ、あそこの共有スペースは?」
高木と杉本は、いつの間にかこの施設の地図を持っていた。高木が言う共有スペースとは、玄関ロビーの横にある空間のことで、机と椅子が並んでいる。奥には先ほど見えた飲み物の自動販売機がある。
「そこも、駄目です」
「どうして?」
「会社の方に、苦情が寄せられています。清掃員がだらしなく休憩している。もしくは、就業時間中にスマホを使っているという苦情です。ですので、社員である以上はここで休憩をして下さい」
「清掃員に休憩はないっていうの? それってあんまりじゃない?」
「まだあります。夏場は汗臭くしないでほしいとのことです」
「え? 夏場、エアコンのない所を掃除で動き回るのに?」
「清掃員が汗臭いという苦情もあります」
「何よ、それ」
「お客様からのお声です」
「滅茶苦茶だわ。人として扱われてないじゃない」
「パートの方にも、そこは説明があったと思います」
「スーパーでも企業でも、休憩室ぐらいあったわよ」
「秋元さん、今回のはあんまりだよ」
珍しく、杉本も声をあげた。
「夏と冬はどうにかエアコンのある場所にしてもらわないと」
「そうだよ」
秋元はわずかに逡巡し、一度うなずいた。
「体調は自己管理が基本です。しかし、皆さんの意見として会社の方に取り次いでみます」
「頼んだわよ」
「よろしくね」
「お二人は、他の三か所のトイレをお願いします」
「はいはい」
二人は納得いかない様子で、二階のトイレ掃除に向かった。
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