3-3 禁止事項


 ただし、俺は怒りをにじませ、他二人は困惑をにじませている。しかし、それでも秋元は、何もなかったように続ける。


「休憩中は、ここから出ないことが約束です」


 ついに俺たちは絶句した。こんな狭くて汚くて、埃っぽくて、夏冬には冷房も暖房もないここでしか、俺たちは休憩してはいけないと、秋元は言い切ったのだ。皆が理不尽さをにじませると、秋元はさらりと続けた。


「休憩中も仕事中も、スマホなどは禁止です。まあ、ここは圏外ですので、連絡は取れませんが。引継ぎはノートで行ってください」


 秋元は艶やかな黒髪をなびかせて休憩室に入り、モップを一本取ってきた。その唇は両端がわずかにつり上がっている。


「それから、空調設備がないと言って、汗臭くするのも厳禁です」


 そう言いながら、秋元はモップを持って先に進んだ。一度、玄関ロビーに戻る。そして秋元は屈んで床をコンコンとノックするように叩いた。


「ここの床材はよく使われているリノリウムではなく、合板です。木目があるので、それに沿ってモップをかけてみて下さい」


 そう言って、秋元は俺にモップを渡した。高木と杉本はモップの使い方に慣れているから、俺にお鉢が回ってきたようだ。小学校の時に、木目に沿ってモップをかけろと教わったことがある。それ以外は適当でいいのだろう。要するに、汚れが落ちればいいのだ。俺はモップを握る手に力を入れて、床にモップを押し付けるようにして前に後ろにと、モップを動かしてやった。俺が磨いたところだけ、幾分輝きが増した気がする。しかし、高木と杉本は笑い、秋元は呆れ顔だった。


「高木さん、彼にお手本を見せて下さい」


 秋元の言葉に、高木は「はいはい」と答え、俺からモップをむしり取る。そして高木はそのまま、真っすぐに木目に従って進み、角の所でくるりとモップを回転させ、見事にUターンを決めた。そのまま俺たちのところに戻ってくる。高木が鼻を高くしてにやついて、俺を見下ししていた。秋元が高木からモップを受け取り、モップの裏面を俺に向けた。


「見て下さい」

「普通にゴミついてるんですけど?」

「よく見て下さい」


 そう促され、俺はモップの裏側を観察した。よく見れば、モップの一隅にしか、埃が付いていないことに気付く。そして埃が固まって紐状になり、線を引くようにまとまっている。


「これが本当のモップのかけ方です。この動きなら、ゴミを取りこぼすことはなくなります」


 確かに、俺のやり方ではこんなに埃が取れていなかった。モップ一本にもやり方があるものなのだと、感心してしまった。


「次に、トイレです。今日は開館前なので、佐野君も女子トイレに来てください。開館後は佐野君には男子トイレを担当してもらいます。絶対に女子トイレには入らないように」


 男女差別だと、俺は反感を覚える。俺と秋元が男女に分かれてトイレ掃除をすることには、正当性を感じる。しかし、高木と杉本は女性同士だ。つまり女性の清掃員は男女のトイレを清掃出来るが、男性清掃員だけは女子トイレを清掃できないことになっているのだ。俺は女子トイレに何の関心もないし、関心があったら男として変態だと思う。しかしトイレを使う男の身としては、女性清掃員が入ってきたら、それなりに気を遣う。だから女性清掃員と男性清掃員は、一組になった方がいいと言うのが率直な感想だった。


 女子トイレに移動して、秋元が手順の説明を始めた。箒で床を掃いてから、トイレの蓋を上げて中をブラシで擦る。その後色分けされたタオルで便器を拭く。最後に水モップで床を拭き、手洗い場のガラスを磨いて仕上げる。たかがトイレ掃除だと思っていたが、意外に手順が多い。しかも、この施設にはトイレが四か所もあるから、同じことを四回も繰り返すことになっているのだ。面倒くさいと俺が顔をしかめていると、高木がおもむろに手を挙げた。


「トイレ用の洗剤は?」

「使いません」


 秋元は間髪入れずに答える。このトイレは陶器で出来ており、まだ新しい。新しい陶器には釉薬が塗ってあるから、洗剤がなくても、ブラシで擦るだけで汚れが十分に落ちるのだと言う。逆にトイレ用洗剤を使うと、陶器に塗ってあった釉薬が剥がれて、目には見えない傷がつき、汚れやすく、清掃でも落ちにくくなるのだと言う。先ほどの床材もそうだったが、単に場所を清掃するのではなく、その材質に合った清掃の仕方があるのだ。高木は納得していなかった。パート時代にトイレ用洗剤を使って来た経験から、秋元のいうことに納得できない様子だ。それを見た秋元は、実際にトイレ掃除をやってみようと提案した。もちろん、俺と秋元は男子トイレで、高木と杉本は女子トイレを担当する。


「終わり次第、掃除庫で昼食をとって下さい」


 秋元はそう言って、二手に分かれた。トイレ掃除の用具と、清掃用の水道がある狭い場所はSKと呼ばれ、外側からはトイレと一体化しているが、夏場は臭いそうだ。それにしても、と俺はズボンのポケットからスマホを取り出して、時間を見る。八時から入ったはずなのに、もう十一時になっている。何かに集中すれば、意外に時間が立つのが早いのだ。


「スマホは就業中は厳禁です」


 秋元はさっそく俺に注意をして、床を掃くように命じた。秋元は最初から俺のお目付け役として男子トイレに来たのであって、自分は何もする気がないらしい。俺に男子トイレ全部を押し付ける魂胆だ。俺は箒で床を掃きながら、気になっていたことをきいた。


「先輩、その、前に公園のトイレ掃除してませんでした?」

「やっていた時期もあります」

「公園って、誰が使うか分からないから、怖くないですか?」

「怖がっていて、この仕事は出来ません。誰が使うか分からないのは、ここも同じです」


 公園もこの施設も公共の場所だが、俺たちみたいな奴らがたむろするのは、圧倒的に屋外だ。こんな品の良くて、誰かの目があるような施設をたまり場にはしない。


「俺の事、覚えてませんか?」


 俺は自分で地雷を踏んだ。




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