3-2 自己紹介

 そして迎えた研修会当日、俺は緊張で眠れていなかった。元々怠惰な性格で、スマホのアラーム機能なんて使ったことがない俺が、そんな生易しいもので起きられると思ったことが運の尽きというものだ。それが遠足の前日の子供のように眠れなかったのだから、寝坊は当然の結果である。俺が目を覚ました時、いつの間にか手にしていたスマホの時計は、七時半を回ったところだった。俺は文字通りに飛び起きて、何も考えずに制服を着る。一応バッグを持って、朝食を無視して玄関に走る。いつものくたびれたスニーカーを履いて、ドアを開け、勢いそのままに走る。俺の家から現場までは歩けば約三十分で着くのだが、この日だけは早めにいかなければならないことは、十分に承知していた。俺は新入社員だから、一番低い位置にいる。それなのに、先輩や研修の講師よりも遅く行くなどあり得ない。今まで先輩後輩の上下関係が厳しい世界に身を置いていたため、そんなことばかりが身についていた。息を切らしている内に、二階建ての大きな建物が見えてくる。足をさらに速めて、自動ドアにそのまま突っ込むと、強かに頭を打った。思わず額に手を当てて悶絶していると、女性たちの声が聞こえてきた。


「こんなところで何をしているんですか?」


 落ち着いた声が、俺の頭の上から降ってくる。あの女だった。その後ろから、俺の母親よりも年上と思しき女性が二人来ていた。皆が同じ制服を着ている。変な格好でも四人集まると、これが普通だと思えるから、数の力は偉大だと今更ながらに思う。女は俺を無視して自己紹介を促した。


「本日、研修を任された秋元奈穂あきもとなほです。よろしくお願いします」


 紫ババアと呼んでいた女は、そう名乗って美しいお辞儀をした。秋元はしゃがんでいた俺に視線を寄こした。俺は仕方なく立ち上がり、秋元に倣う。


「佐野晶です。よろしくお願いします」


 俺が軽く頭を下げると、秋元の隣りにいた女が自分の番だと言うように、一歩出た。


「高木美波です。よろしくお願いします」


 最後に残った女は、恥じらうように俯きながら名乗る。


「杉本孝子です。よろしくお願いします」


 聞けば、俺の他の三人も近くから車や自転車で通ってきていた。広く言えば皆ご近所さんなのだ。だらけそうになった雰囲気を、秋元の冷静かつ穏やかな声が締める。


「ここの清掃は二人一組で行います。高木さんと杉本さんで一組。私と佐野君でもう一組になります」

「はあっ? 聞いてねぇし」


 いつもの調子でケンカ腰になるが、秋元は表情一つ変えずに言い返す。


「研修会の紙を渡した時、何も質問がないと言ってましたよね?」

「そうだけどよ」

「では、説明は最後まで聞いて下さい」


 俺が舌打ちすると、高木と杉本が身を寄せ合って笑っていたので、睨んでおいたが、効果は得られなかった。この二人は以前は別の現場でパートとして働いていたが、この施設が出来たため、社員としてここに異動になったらしい。そのため、この二人にとって現場が違えどやり方は知っているので、秋元の説明は聞いていなかった。そのため、秋元の説明は専ら俺が聞かなければならなかった。ここに来てやっと俺は高校時代の行いを恥ずかしいと思った。俺は教室で教師が話をしているのを聞いてこなかった。授業中なのに教室を歩き回ったり、飲食したり、バカ騒ぎしたりして、授業を妨害していた。しかし、一部の優等生グループには、授業を受ける権利があったのだ。そして、教師の話を聞く彼、彼女たちには、俺は迷惑千万でしかなかった。今の俺は、秋元の説明を聞かなければならないのに、二人が邪魔で仕方がない。説明を聞くことを邪魔されることが、こんなに不愉快で苛立つことだったとは、今まで考えもしなかった。俺は貧乏ゆすりをしながら話を聞き、やっと秋元の説明が終わった。


「では、後は中で説明します」


 そう言って秋元が開けたのは、自動ドアの横にあった関係者用の出入り口だった。施設の開館は三日後だから、正面の玄関の自動ドアは作動させていなかったのだ。俺は別の意味で頭を抱えながら、施設の中に入った。玄関ロビーが広く、吹き抜けになっている。窓際に椅子と机があり、奥には自動販売機が設置されている。正面には大ホールのホワイエが見え、右手には図書館があった。二階はほぼ会議室となっている。俺たちが使う物は、掃除庫に全て収納されている。小さくて窓がない、コンクリート打ちっぱなしの部屋だ。そこに、何本も柄のついた掃除道具が立てかけられていた。お馴染みのモップや、見たこともない大きなワイパーのようなモップもあった。場所によって使い分けるのだろうが、掃除なんて興味がなかった俺には、どれで掃除しても同じように感じた。その他、雑巾のストックや手洗い場のハンドソープの補充用のボトル、水モップやモップの新しいものなど。とにかく掃除庫は掃除道具で溢れかえっていた。しかしそこには、掃除と関係ないと思われるものもあった。丸椅子と、ノートである。丸椅子は手の届かないところに使うのだろうか。しかし俺たちは脚立を使うような危ない作業は、してはならないことになっていたはずだ。俺が首を傾げていると、秋元は信じられないことを口にする。


「ここは、私たちの休憩所になります」


 え? と俺と他二人の声が重なった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る