三章 初めての実地研修

3-1 制服

 紆余曲折あった俺は、無事に高校を卒業して会社員になった。会社員という響きは、何度耳してもいい気分だった。卒業から入社式までの間に、社長から電話を受けて、会社に赴く。こういう時、車の免許があって良かったと思う。意外に自分が充実している日々を送っていることに、今までにない誇らしさと満足感があって、少しだけくすぐったい気分だ。


 会社に着くと、あの女がいた。


「失礼します」


 そう言いながら、会社のドアを開ける。そしてドアを閉めて、一礼する。それが社会人としてもマナーだと教わったからだ。女は事務作業をしているのか、パソコンの前から動かない。広い空間に、キーボードを叩く音だけが鳴っている。静かすぎて、居心地が悪い。


「失礼します。佐野です。社長に呼ばれてきました」


 少しだけ、大きな声で言ってみる。すると女はキーボードを打つ手を止めて、一つため息を吐いた。そして俺に応接室に来るように促した。面接を受けた部屋だ。


「佐野さんは、服のサイズはいくつですか?」


 応接室に大きな段ボール箱がいくつかあり、女はその中を漁っていた。何をやっているのかと覗き込むと、作業服のようなものが沢山入っているのが見えた。


「男物のМです」

「じゃあ、十三号くらいで大丈夫でしょうか?」


 噂に聞いたことがある。スーツなどは、お馴染みのS、M、Lではなく、数字に号を付けてサイズを言うのだとか。しかし残念ながら制服で就職活動をした俺は、リクルートスーツに何の縁もなく、十三号と言われてもいまいちピンとこない。


「佐野さんは背が高いですが、うちの制服は大き目でかつ男女兼用なので、大丈夫だと思いますよ」


 女はそう言って、机の上に白いズボンと紫色の上着、そして紫色の三角巾を重ねて置いた。俺はそれを見て、血の気が引いた。これは制服というより、紫ババアセットと言った方が正しい。こんな服を着るなら、普通の店で売っている作業着の方がまだましだ。これがこの会社の制服だと言うのか。はっきり言って、俺は着たくない。しかも、女はこの制服が男女兼用だと言った。サイズは男女兼用かもしれないが、デザインは明らかに女性よりだ。こんな恥ずかしい恰好で仕事をすると思うと、気が萎えた。


「次に、写真を撮りますので、そこの壁に立ってください」

「写真なら、履歴書に」

「社員証の写真が、高校の制服だとおかしいでしょう?」

「ああ。社員証。なるほど」


 俺はおとなしく、白い壁を背にして立った。写真を撮るには薄暗かったが、問答無用で撮影準備は進む。女はスマホではなく、デジカメのレンズを俺に向けた。


「はい、撮ります」


 そう言うが否や、フラッシュがたかれれる。見ればスマホの画像よりも荒い写真がカメラに収まっていた。これが一生ものの写真になると思うと、心が折れそうになる。それにしても、俺は今日、この女にしか会っていない。他の社員はどうしたのだろう。


「あの。俺は今日、社長に呼ばれたんですけど?」

「今、全員現場にいますので、私が代わりです。何か質問はありますか?」

「いえ。別に」


 俺が首を振ると、女は「そうですか」と答え、A4判の紙を一枚俺に寄こした。紙には研修会のお報せが書いてあった。


「ここが佐野さんの現場になります」


 どんどん進んでいく話に、俺は追いつけなくなった。こんなに一度に想定外のことばかり起こるのだ。授業ですらまともにきいたことがない俺の頭は、情報でパンク寸前だった。しかも、俺は女に聞きたいことがあったが、彼女の淡々とした事の運び方と口調に、もはやたじたじだった。とりあえず、研修会の場所と日時を確認する。俺の家の近くの公共施設に、朝の八時に集合し、終わり次第解散となっている。会社の研修会にしては、随分とざっくりしている気がしたが、友人たちに見放された俺には比較材料がない。


「この施設が出来たことに感謝して下さい。ここがなければ、佐野さんは不採用でした」

「え? どういうことですか?」

「弊社は交通費削減のため、契約が取れた現場の近くの人材を採用することが多いのです。佐野さんはまさに、その例です」


 女のいうことを信じれば、俺は現場の近くに住んでいて、交通費がかからないから採用されたことになる。つまり、俺の履歴書の住所欄が決め手となって、俺はこの会社から内定を貰えたということなのだ。全く、人生は何に左右されるか分からない。女は無表情と事務的な口調を保ったまま、「質問はありますか?」ときいた。俺は何も考えていなかったので、そう聞かれると首を横に振るしかない。女はまたもや「そうですか」と言った。


「では、今日はここまでで終わりです。研修は遅刻厳禁でお願いします。社員証は研修の時にお渡ししますので、気を付けてお帰り下さい」


 女は、俺にそう言って一礼し、パソコン作業に戻った。俺は追い出されるようにして、会社を後にした。


 家に帰って、さっそく支給された制服を試着してみる。サイズは問題なかった。裾上げもしなくていいようだ。問題はそのデザインと、色の組み合わせのセンスの無さである。今どき紫の服に、紫の三角巾はないだろう。しかも、服が紫なのに、ボタンと襟は黄緑色という謎の配色だ。ズボンは五百歩譲って良いとしても、男が三角巾で仕事をするなんて、聞いたことがない。こんなものを被るのは、小学校の家庭科で調理実習をした時以来だ。これを着て街を歩いて、現場まで行かなければならないのか。家から現場までは徒歩範囲だ。だが、こんなダサイ服で街を歩くくらいなら、車を使った方がいい。しかし平日の車は、所有者である鬼が使う。そうなると、俺の毎日の仕事のために借りることはできない。仕方なく、俺は制服の上の部分を隠すために、ジャケットを着ることにした。

 




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