1-5 他人の人生
母親は俺の鼻血には目もくれず、すんなり椅子に腰かけた。そして俺の方を見て、ぎょっとする。
「どうしたの? 話し合いの前に洟垂らして。さっさと拭きなさい」
俺は母親からポケットティッシュを受け取り、鼻血を抑えた。洟じゃなくて鼻血だ。お前のせいでこうなっているのに、分かっていないとは、やはり鬼である。担任は調子を取り戻そうと、軽く咳払いをした。
「家庭での息子さんの様子はいかがですか?」
いきなり確信に迫る教師の発言だったが、鬼はそんなことは汲み取りもせずに、ポカンと口を開けている。そして、教師の鼻っぱしをへし折る。
「元気です」
「え?」
思わず声を出す教師に、鬼は満面の笑みである。担任が家出の様子を聞いてきたということは、家庭での学習や態度のことに決まっているのに、そんな話は鬼に通用しない。教師は再び咳ばらいして、気を取り直す。
「そうではなく、そうですね、進路のことなどは、話し合ったりしていますか?」
もはやこの天然鬼のせいで、担任の日本語まで崩壊している。
「まだ、ですけど?」
「しかし、このままだと、息子さんの高校進学は難しいかと」
「働けないのは困ります!」
少しずつ会話がかみ合っていないのだが、そこは担任だ。ベテラン教師の意地を見せるように、ここぞとばかりに畳みかける。
「そうですね。今は大学卒業していても就職は難しい時代です。高校にも行かなかったとなれば、地元の企業でも就職口は見つかりませんよ」
「なるほど! 先生は大学進学を勧めて下さるのですね!」
「え? いや、そこは……」
俺は腹を抱えて笑った。もう、腹が痛い。俺が受験して受かる大学なんてないだろう。それに、担任は今のままでは高校も無理と言っているのに、全く鬼はそこを理解していない。これは良くできた漫才だ。担任は鬼に敵わないと白旗をあげて、俺に向き合った。俺には言いたいことは、十分に伝わった。だから担任が口を開く前に、俺は机を蹴飛ばした。机が床に倒れ、大きな音が出た。
「お前に俺の人生に口出しする権利あんのかよ? ああ、だりぃ」
俺はそう言って、カバンを引っかけると勝手に部屋を出た。鬼と担任はまだ話をしているようだったが、おそらく話にならないだろう。
この三者面談後も、俺の素行は変わらなかった。むしろ、悪化した。そのまま中学二年に進学し、秋ごろには受験という言葉も耳にするようになった。少子社会である現在は、何かに特化しない高校は定員を割っている。定員の半分なんてところもあった。そう言ったところは、高校自体が存続の危機に直面しているため、簡単に入れると思っていた。特に地元の××高校という公立校は普通科しかなく、不良高校として有名だった。ここだな、と俺は早々に進路を決めた。本当は高校なんて行きたくもないが、俺みたいな奴しかいないなら、教師も校則も緩いと思っていた。クラスにどこかピリピリした雰囲気が広がり、志望理由や点数に関心が傾いても、俺はいつも通りだった。
そして、俺は何の苦も無く、第一志望の高校に進学した。この高校に入学してまず思ったのは、ある意味「終わっている」という感覚だった。あるいは「掃き溜め」という言葉が浮かんだ。皆が俺のように脱力系で、居心地がいいだろうとばかり思っていたのに、違っていた。すぐに暴力に訴えるしか能のないバカ。発情期の猫みたいな恋愛バカ。クラスに一人二人いる真面目バカ。連日のように苦情が学校に寄せられ、そのたびに学年集会やら全校集会やらが開かれて、本来の授業時間が削れた。これぞ本末転倒って言うのではと俺が思ったほどだ。授業がなくなるのは嬉しいが、ムカつくことが多かった。何でバカのために俺が集会なんかに行かなくちゃならないのか。
暴力バカのせいで、保護者集会まで開かれた。教師に怒鳴られた腹いせに、廊下に並ぶロッカーを、片っ端から殴ったり蹴ったりして破壊したバカがいるらしい。そのロッカーの修繕費用が修学旅行の積立金から出されることになり、修学旅行先が近場に変更されたらしい。俺の高校時代の唯一の楽しみが消えた。
留年だけはしなかったが、それは授業もテストもいわゆる底辺のものだったし、補習なんて形だけだったから、何とかなったというだけの事だ。だから、高校三年になって「就職」という問題があることすら、俺は考えなかった。四年間は遊べる時間という、鹿野先輩の教えに従うつもり満々だった。
しかし、いつもつるんでいた仲間の内の一人が、進路指導室から出てくるのを見てしまった。俺たちが進路指導に呼ばれるということは、怒鳴なられるときだけだったから、慰めてやろうとした。しかし、そいつは律儀に「失礼しました」と進路指導室に一礼して出てきた。その挙句、俺と目が合って明らかに狼狽していた。俺は面白い物を見つけたとばかりに、そいつ、島崎の肩を組んだ。いつもなら軽く挨拶するところだが、こともあろうに島崎は俺の手を振り払った。まるで、汚いものをどけるような、蔑んだ眼をしていた。
「何だよ。つれねぇな。あれ? お前……」
島崎のアッシュグリーンのパーマだった髪の毛は、真っ黒でストレートだった。しかも、制服も小奇麗なものに変わっている。島崎は俺からあからさまに目をそらした。
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