一章 働いたら負け

1-1 サボり

 残暑厳しい秋。いや、残暑が死ぬほど厳しい秋だ。俺は無事に高校三年生になっていた。鹿野先輩とは連絡を取り合う関係が続いているが、鹿野先輩に新しい彼女ができてから、連絡があまり来なくなった。環境が変われば人間関係も変わって当然と言えば、当然だ。


 まだ朝だというに、太陽が頑張りすぎるくらいに頑張っている。公園のベンチの木陰になる部分を選んで、俺は制服のまま溶けそうになっていた。この制服というのが曲者だ。春服と夏服があるが、夏服でも十分に生地が厚い。校章入りのワイシャツも、汗ばんだ体に貼りついて不快さを明らかに煽っている。それでも俺が制服をわざわざ着ているのには、重要な理由がある。それは俺の母親の目を欺くためだ。シングルマザーとか、女一人で子育てをしてとか、言われれば聞こえがいい。まるで聖母みたいだ。自己犠牲で子供を育てる、幸薄そうな印象だろうか。しかし、俺の母親には全くそれは当てはまらない。俺の母親は鬼である。比喩ではない。正真正銘の鬼である。ただ体が人間の女であるだけで、俺より年季の入った不良だ。だから誰も近づかない。口と目つきが悪い上に、態度はでかくて格好も変だ。頭はカメレオンの如く違う色に染まっている。自分で染めているのだろうから、根本は黒いままだった。くそ。あのババアの事を思い出したら、熱さが倍増してきた。疲れやだるさは、苛立ちに変わる。


 鳩がうるさかったので、唾を吐いて追い払う。足のない鳩がいたが、普通の鳩に居場所を奪われ、立派な体格の鳩が、またその鳩の居場所を奪っていた。何だか人間社会の構図みたいで笑えた。


 高校生なら、平日の朝から公園のベンチで寝転がるな。そう言いたい奴は沢山いる。犬の散歩に来た奴らの、目がそう言っている。まあ、高校にはエアコンがあるから、テキトウに、気が向いたら、行ってやってもいい。でも、教師がうるさいし、面倒だから、今日はここに一日いるつもりだ。授業に遅れるって言うけど、このそそり立つ断崖絶壁くらいの格差見たことあるのか。赤ん坊の内から知育教材だの読み聞かせだの受けてきた奴らと、ただ何もせずに暴力を受けるだけの奴。何が義務教育で格差は是正されているだ。生まれた時から格差だらけだ。当然、もう小学校に上がった時には成績の上下関係が、そのまま学校での評価と評判になる。中学出てからの事なんて、考えたこともなかった。母親が、高校だけは出ろと命令してきたから、とりあえず一番偏差値の低くて、俺でも入れそうな今の高校を選んだだけだ。俺はとりあえず、不良高校を名高い底辺の高校に行った。そこには俺と同じ奴が沢山いたから、高校にもこんな世界があるのだと、初めて知った。授業も簡単だった。英語の授業は単語どころか、ABCの書き取りから始まった。これなら俺でもいける気がしたが、それは幻想だった。その高校は「行ったら人生終わり」とか、「不良の掃き溜め」と言われていたのだ。しかも、俺が高校一年の時に、他のクラスの一年同士が音楽室でやりやがった。音楽室って所は防音の場所を選んだつもりだろう。そのせいで、俺たちの学年は不良の上に、はしたない学年という評判が付いた。まあ、俺が知る限りでは事件沙汰もかなりあるし、妊娠して中退した奴とかもいたから、その評判はあながち間違ってはいない。俺が高校に行かなくていいのかって話に戻す。これも大した問題ではないが、母親に知られるとまずいからだ。俺はさっきも言った通り、高校には行くことの方が珍しい。だから、テストは散々だ。あの高校はテスト結果だけはマメに保護者に通知しているから、テストは嫌でも受けなければならない。それに、テストの結果次第では、次の学年に進級できないこともある。先輩の話では、一年の内に七回も進級できずに中退したという伝説的な人物までいるらしい。もし仮に俺がテストをすっぽかしたり、そのせいで進級できなかったりしたらどうなるか。それこそ鬼が出てきて俺の人生が終わる。高校に行かなくても、高校に在籍している内はれっきとした「高校生」なので、職務質問とかも生徒手帳があればなんとかなる。そういえば、生徒手帳はどこにやったのか。鬼の手に渡る前に死守しなければならない。と、まあ。赤点を取って補習は毎回のように受けていたが、俺の高校の補習だからザルなんだよ。教師も、それほど力は入れていない。プリント一枚渡して、解けと命じていく。そして解けた奴から職員室に提出に行くだけだ。そんなプリント一枚なんて、俺が解かなくてもいいんだよ。同じクラスにちょっとはできるやつがいるから、そいつに解かせて、後は丸写しして持っていけば解放される。教師もこのカラクリに気付いているだろうが、この高校の生徒に注意しても無駄だと分かっていて、何も言わない。いや、一言いう。「次はないように」とか、「今度こそ赤点を脱出しろ」とか、どいつもこいつも似たことを言う。


「ああ、だりぃ」

 

 俺が思わず声を上げると、公園に自転車が入って来た。もちろん公園は自転車禁止だが、そんな細かいことは気にしない。しかもその自転車は二人乗りだった。公園の地面に轍が付くが、これも気にしない。当然の如く、ヘルメットなんか付けてはいない。これも自己責任ということだ。


「よお」

 

 そう言ったのは髪を緑に染めた同級生だった。名前は香川。下の名前は忘れた。きっと香川も俺の苗字しか覚えていない。とりあえず仲間だと認識できればそれで良かったから、名前まで覚える必要性を感じていなかった。


「またサボってんな?」


 香川の後ろに座っているのは、茶髪でチャラ男の山口だ。黙って身なりを整えていれば、山口はホストに見える。実際、年齢詐称してホストのアルバイトをしていたことがあるらしい。しかし、俺より頭が悪い山口は、その頭の悪さからホストにも向いていなかった。要は、話し相手にもなれなかったのだ。これもある意味伝説だった。

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