プロローグ 下
「先輩、俺を誰だと思ってるんすか? ほら、ちゃんと持ってきましたよ」
俺は丸めたズボンを先輩に向かって投げる。先輩は器用にキャッチして、品定めする。そしてそのまま、そのズボンを隣の先輩に渡した。
「一年のが欲しいって、先輩ショタコンすか?」
俺が煙草の脂で汚れた歯で笑うと、鹿野先輩が俺の頭を平手で殴った。
「ばーか。この時期にズボンといえば、この高校の風物詩だろうが」
「ふうぶつし?」
俺は頭の中でそれを漢字に変換できなかった。しかしその意味なら、何となく理解していた。この高校では、大半の生徒が制服を着崩したり、制服以外の服を着てきたりする。中でも俺たちの中で、ズボンをなるべく下げた状態ではく、いわゆる「腰パン履き」が流行った。そのため、ズボンの裾は床に擦れて汚くなり、挙句の果てに擦り切れてしまうのだ。つまり、二年以上の生徒がはいているズボンは、もれなくぼろぼろだ。だから、一年の綺麗なズボンが必要となる。そんな需要がこの時期にあるということだ。
「マジで? 先輩就職するんすか?」
「俺じゃねぇよ。こいつだ」
「高倉です。えっと、佐野、君だっけ? 今日は本当に助かったよ」
高倉は一見真面目そうに見えたが、俺の見間違いだった。あまつさえ知り合いの後輩に盗みを依頼し、それが何でもないように、ただ礼を言う。いや、礼は言っていないか。しかも、今更になって新品のズボンが必要だということは、高倉も同じ穴の貉で、腰パン履きの常習者だったということだ。そして、今になって急に真面目な印象になったのは、この高校の風物詩と関係しているのだろう。
「これ、約束のお金」
高倉は千円札三枚を、鹿野先輩に渡した。俺には金の話なんて一切してくれなかったのに、二人の間では金銭の授受が約束されていたらしい。当然、俺は面白くない。
「俺には?」
「あとでジュース奢ってやるよ」
「あ、子ども扱い」
「一つガキだから、子供でいいんだよ」
釈然としないが、先輩には素直に従うまでだ。そして俺は単純だ。売店の横にある自販機を思い出だして、コーラがいいと考えていた。
「じゃあ。俺はこれで」
高倉は、逃げるように理科室を出て行った。自分から依頼してきたのに、まるで俺たちには関わりたくないとでも言いうような態度に、俺は怒りを感じた。
「全く、就活、就活って、どいつもこいつも」
鹿野先輩は大きく溜息を吐いて、ぼやいた。
この高校のこの時期の風物詩とは、就活である。ここはすべての人から見放されたような不良高校だ。授業は受けたい奴が受けるが、他の奴がさぼっても教師は全く意に介さない。数人しかいない教室で、淡々と授業は始まり、終わる。しかし、自由を持て余すのも三年間という期限付きだ。卒業は必ずくる。その前に進路を決める必要がある。進学何てできないような授業だから、ほとんどの奴は就職組だ。そこで一つ問題になるのが、制服だった。面接のときに、身なりを整える必要が出てくる。しかし、この高校の生徒が制服をちゃんと着こなしているのは、一年目の最初だけで、三年にもなると型崩れや汚れや破れも日常茶飯事だし、気にしていない。だから、この就活の時期になると一年生の制服が盗まれるという事件が多発するようになる。別にいいじゃん、と俺は自分を棚に上げて思う。今の一年生も、就活時期になったら同じようなことをするのだから。盗みは悪しき慣習だが、見方によってはいい伝統だ。後輩は先輩に制服を譲るのだ。盗まれる奴が悪い。だから、教科書の名前は本の天井に、油性ペンで書けと教わる。この高校に来て、一番に身の守り方を教わるのだ。素直に表紙や裏表紙に書く馬鹿は、当然ターゲットにされる。名前の部分を破って盗まれるのがオチだ。
「鹿野先輩は、ここ出たら、何するんすか?」
自分で言って、「ここ出たら」なんて、まるで「刑務所から出たら」と言っているようで笑えた。確かにここはとりあえずの場所だ。三年という長いのか短いのか分からない時間を、ただ「高校くらいは」という世間の目のために過ごす牢獄。自由はあるが、いつも物足りない。
「俺? 遊んでから考える。だって、大学生何て金払って四年間遊んでるんだぜ?」
「確かに」
「だったら、こっちだって四年くらいは遊ばねぇとな」
「そうっすよね」
俺と鹿野先輩は笑い合った。楽しければ、それでよかった。働いたら負けで、働く奴は馬鹿だと思っていた。
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