第77話「天芳と星怜と夕璃、相談する」

 今日は2話、更新しています。

 本日はじめてお越しの方は、第76話からお読みください。




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 兆石鳴ちょうせきめいばつを受けることになった。

 具体的には『奉騎将軍ほうきしょうぐん』の位からの降格と、一定期間の謹慎きんしんだ。

 今後の職務については、追って指示が下ることになる。


 捕虜ほりょを死なせたばつとしては、かなり重いものだ。

 これを決めたのは燎原君りょうげんくんだ。あの人も相当怒っていたんだろう。


 でも……これで俺たちは『金翅幇きんしほう』の情報を得る手段を失った。

 それに、藍河国あいかこくはゲーム主人公の介鷹月かいようげつにとって、父親を殺したかたきになってしまったんだよな……。

 兆石鳴が処罰しょばつされているから、国が意図したものではない、とは言えるんだけど。


 それよりも問題は……太子狼炎たいしろうえんの落ち込みようだ。

 あれから太子狼炎は、ほとんど人前に出てこないらしい。

 燎原君が部屋を訪ねているけれど、答えることはないそうだ。


 太子狼炎は、介州雀をとりで幽閉ゆうへいする作戦に賛成してくれていた。

狼騎隊ろうきたい』から人を出して、手伝ってくれるつもりでいたんだ。


 その作戦は、一瞬で潰れた。

 しかも太子狼炎の外戚がいせきの、兆石鳴のせいで。


 ……どうすればいいんだろう。

 このまま太子狼炎を放っておくのはよくない。

 あの人はいずれ、藍河国の王になる。将来の王が落ち込んだままなのはよくない。

 それに俺は、今の太子狼炎は嫌いじゃない。

 なんとか、元気になって欲しいんだけど──難しいな。


「あんなに落ち込むとは思わなかったからなぁ。どうすれば、元気になるんだろう……」


 夕方。

 星怜と一緒に『獣身導引じゅうしんどういん』をしたあと、俺はそんなことをつぶやいていた。


「え、え、え? どうしたんですか! 兄さん!?」


 汗を拭いていた星怜が、あわてた様子で振り返る。


 星怜が俺を避けていたのは、『天地一身導引てんちいっしんどういん』の秘伝をした当日だけ。翌日からはいつも通りになっていた。

 朝と夕方には、こうして『獣身導引じゅうしんどういん』をやりに来てる。

 ただ……たまにこんなふうに、急に真っ赤になることがあるんだけど──


「な、なにかあったのですか!? 兄さん」


 星怜はびっくりした顔で、俺を見てる。

 汗ばんだまま俺に近づいて、じっと顔を寄せてくる。


「兄さんが落ち込んでいらっしゃるのですか? それってもしかして、秘伝の後にわたしが兄さんを避けていたからですか? ご、ごめんなさい。でも、あれはその……秘伝の後、不思議な感じがしたからなんです。秘伝の間……ずっとわたしが兄さんを感じ取っていたのと同じように、兄さんもわたしの全部をじかに……あのその!」

「星怜?」

「お願いですから元気になってください、兄さん! 兄さんのためなら、わたし……なんでもしますから!」

「落ち着いて星怜、落ち込んでるのはぼくじゃないから」

「そ、そうなんですか?」


 星怜が、ほっと、ため息をついた。


「……よかったです」

「落ち込んでる人というのは、ぼくの知人で──」


 いや……王家の事情を話すわけにはいかないか。

 ここは、少しぼかして伝えよう。


「ぼくの知人で、ぼくよりもずっと偉い人だよ。ちょっとした事件があって、その人がかなり落ち込んでしまっているんだ。その偉い人を元気づけるにはどうすればいいのかな、と思って」

「兄さんより偉い人なんて想像もつかないです」

「まぁ、誰かは言えないんだけど」

「そうなんですか。えっと、兄さんより偉い人を元気づける方法というと……」


 星怜は首をかしげて、考え込むしぐさをした。

 それから、頭を下げて、


「すみません。わたしには兄さん以外の人を元気づける方法は思いつきません。想像もつかないです」

「そっか」

「ですから、人間関係に詳しい人に聞いてみようと思います」

「無理しなくてもいいんだよ?」

「無理なんかじゃないです! わたし……兄さんのお役に立ちたいですから」


 星怜はそう言って、笑った。


「兄さんのためにできることがあるなら、なんでもやってみたいんです。だから、やらせてください」

「わかった。お願いするよ。星怜」

「はい。兄さん!」






 ──数日後。燎原君りょうげんくんの屋敷で──



夕璃ゆうりさま。落ち込んだ人を元気にする方法ってご存じですか?」


 ここは、燎原君の屋敷の客間。

 テーブルの前でお茶を飲みながら、星怜は燎原君の末娘、夕璃にたずねていた。


「急にどうしましたの? 星怜さま」

「兄さんから聞かれたのです。落ち込んでる人を元気にするには、どうしたらいいかって」

黄天芳こうてんほうさまから?」

「はい。兄さんのお知り合いの、偉い方を元気づけたいそうで」

「それで私に?」

「夕璃さまは社交の達人でいらっしゃいますから、人を元気づける方法をご存じかと思ったのです」

「そうですわね……」


 夕璃は茶器を手に、少し、沈黙した。

 優雅ゆうがな動きで茶をすすってから、彼女は、


「黄天芳さまの知人ということは、おそらく、男性ですわね」

「は、はい。そうだと思います」

「男性の方を元気づける方法というと……難しいですわ。私には親しい男性はおりません。社交の場も、女性の方が集まる場所ばかりです。落ち込んだ男性を元気づける方法というのは……どうも」

「そうですか……」

「お力になれなくて申し訳ありません」

「いえ、わたしもがんばって調べてみます」


 そう言って、星怜は力強くうなずいた。


「せっかく兄さんが、わたしを頼ってくださったんですから。できることはなんでもするつもりです」

「星怜さま。ご立派ですわ」


 まぶしいものを見るような目で、夕璃はうなずく。


「大事な人のために一生懸命になれる星怜さまが、うらやましいです」

「わたしは……兄さんに助けられてばかりですから」


 星怜はほおを染めて、


「こんなときくらい、役に立ちたいんです。そうすれば……これからも兄さんの隣にいられるような気がしますから」

「本当に、うらやましいですわ」

「……夕璃さま?」

「昔は私にも、そんな方がいましたの。ほんの小さい頃……おたがいの立場も知らないころに」


 ぼんやりとつぶやく夕璃。

 それから、空気を変えるように手を叩いて、


「す、すみません。私ったら。ぼーっとしてしまって」

「い、いえ。気にしないでください」

「おびの印に……私の方でも調べてみましょう」

「兄さんの知人を元気にする方法、ですか?」

「そうですわ。そういうことを相談するのに、とっておきの方がいますの。あとで相談してみます。わかったことがあったら、星怜さまにもお知らせしますわ」






 ──夕方。燎原君の屋敷で──




「ねぇねぇお父さま。殿方とのがたを元気づける方法って、どのようなものがありますの?」

「どうしたのだね、夕璃」


 夕刻。

 執務から戻って来た父──燎原君りょうげんくんに、夕璃はたずねた。


「誰か気になる男性でもいるのかな? よければ、話を聞くが」

「そうではありません!」

「むきになることはない。お前も年頃だ。気になる方がいるなら私が──」

「違います! 星怜さまからの相談ですわ!」


 それから夕璃は、父に事情を話した。


 黄天芳の知人が、ひどく落ち込んでいること。

 誰かはわからないが、その知人とは、黄天芳より偉い立場の人間であること。

 黄天芳から相談を受けた星怜が、夕璃の助言を求めていたこと。


 ──それらの話を聞いた燎原君は、


「……夕璃は本当に、よい友人をもったのだね」


 とても優しい表情で、うなずいた。


 話を聞いた燎原君は、事情を察していた。


 天芳の言う『落ち込んでいる知人』とは、太子狼炎のことだろう。

 あれから太子狼炎は、人前に姿を現していない。

 政務は自室でこなしているようだが、部屋をたずねても出てこない。


 燎原君も、彼を心配しているのだった。


柳星怜りゅうせいれいはとてもいい子だね。大切にするのだよ。夕璃」

「もちろんですわ!」

「うむ。私も、黄天芳を大切にするとしよう。公私ともに、彼は得がたい人材だ」

「え? あ、はい。それでお父さま。相談についてなのですが……」

「そうだね。それは、私の方でも考えておこう」


 燎原君は言った。


「客人の中には、人をいやす術に詳しい者もいる。あとで話を聞いておくよ。私の方でも、できることはするつもりだ」

「お願いしますわ。お父さま」

「ところで、夕璃」

「はい。お父さま」

「私のお願いを聞いてくれないだろうか」

「もちろんです。私にできることでしたら!」

「そうか……では」


 燎原君は一度、せきばらいをしてから、


「王宮に届け物をしてもらえないだろうか。明日、私は少し遠くに行く予定があってね。王宮に立ち寄る時間がないのだ。代わりに、とあるお方に荷物を届けて欲しい」

「お父さまの名代みょうだいですわね。わかりました」


 夕璃は父に向かって拱手きょうしゅした。


藍夕璃あいゆうり。お父さまの代理として、立派に務めを果たしてみせます」

「荷物は後で渡すからね。それを、狼炎殿下ろうえんでんかのもとに届けておくれ」

「…………え?」


 届け先を聞いた夕璃の顔が、こわばる。

 彼女は目を伏せて、かぶりを振って、


「だ、だめですわ。お父さま」

「どうしてだね?」

「だって、私は狼炎殿下には、ずっとお目にかかっていませんもの」

「昔は一緒に遊んだこともあっただろう?」

「あれは小さいころのお話です。私が無邪気で……なにも知らなかったころの」


 そう言って夕璃は、うつむいた。


「そうです。私はなにも知らなかったのです。そんな私がいまさら、狼炎殿下に近づくなんて……」

「そうかな?」

「そうですわ!」

「ならばどうして王宮で酒宴しゅえんが行われたとき、ついてきたのだね?」

「…………お父さま」

「太子殿下を、一目見たかったからではないのかな? それに殿下が屋敷を訪ねるようになってから、ずいぶんと着飾きかざるようになったようだが」

「いじわるなことをおっしゃらないでください。お父さま」


 夕璃は声をあげた。


「確かに私と狼炎殿下は幼なじみです。従姉いとこという立場に甘えて、殿下に遊んでいただいたこともありました。でも、それは昔のお話です。私が訪ねたところで、狼炎殿下は相手をしてくださいませんわ」

「これは父としてのお願いだよ。夕璃」


 燎原君は夕璃を見下ろしながら、告げる。


「あとで書物を渡す。それを明日、太子殿下に届けなさい。いいかな?」

「……はい。お父さま」


 こうして夕璃は、王宮を訪ねることになったのだった。






 ──翌日。王宮の前で──




「王弟殿下のご息女そくじょの夕璃さまです。狼炎殿下へのお目通りは叶いますでしょうか」


 先触れの女官が、門を守る兵士に告げた。

 夕璃は馬車の中で、許可が出るのを待っている。


 彼女のひざの上にあるのは、父から託された書物だった。

 内政と外交に携わってきた父が、自分の経験したことを記したものだ。

 父はその写しを作らせて、夕璃や、彼女の兄の教育に使っている。

 ここにあるのはそのひとつだろう。


(狼炎殿下は……私に会ってくださるでしょうか)


 夕璃は狼炎の従姉にあたる。

 燎原君りょうげんくん藍河国王あいかこくおうが親しいように、夕璃と狼炎も、昔は仲がよかった。


(当時の私はおろかでした。できもしない夢を見ていたのですから)


 その夢を、彼女は口に出したことがない。

 それは幸いだったと思う。

 もしも口に出していたら、夕璃は、白い目で見られていただろう。

 もしかしたら……不吉な異名に苦しむ狼炎を、さらに苦しめることになっていたかもしれない。


 だから、離れた。

 成長して、男女が距離を置くようになるのに合わせて、自然に。

 王弟の娘でありながら、よこしまな思いを抱く自分は、狼炎の側にいない方がいいのだと。


(本当に……子どもっぽい願いでしたわ。私が、狼炎さまの妻になりたいだなんて)


 夕璃にとって狼炎は、仲のいい、年下の従弟だった。

 けれど夕璃は、周囲の期待に応えようと力を尽くす狼炎を見ているうちに、彼にかれるようになった。

 それを自覚したとき、彼から離れなければいけないと思った。


 同姓どうせいの者は結婚できない。

 王家に所属するものであれば、なおさらだ。


 もしも夕璃ゆうりが、「狼炎殿下の妻になりたい」と口にしていたら、まわりから奇異きいな目で見られていただろう。

 そうならなくて幸いだったと、夕璃は思う。

 父の名誉めいよのために、なにより太子狼炎のために。


(私の思いは、子どものころの無邪気な妄想もうそうです。それでいいのですわ)


 あれは、たわいないあこがだったのだろう。

 本当の恋心に変わる前に、自然と距離をおけたのは、よかったと思う。

 夕璃も、狼炎も、傷つくことがなかったのだから。


 あれ以上、狼炎の側にいたら……心を抑えきれなくなっていただろう。

 想いを口にして、父や狼炎に恥をかかせていたか、それとも……狼炎の妻になる者に、嫉妬しっとの炎を燃やしていたかもしれない。


 そんな自分にはなりたくなかった。

 父に心配をかけるのも、狼炎に迷惑をかけるのも……狼炎の愛する人を傷つけるのも、嫌だった。

 だから夕璃は、狼炎から離れるしかなかったのだ。 


(本当に……星怜さまがうらやましいです。天芳さまを、一途におもうことができるのですもの)


 星怜が天芳に想いを寄せていることは、すぐにわかった。

 うらやましいと、思った。

 好きな人の側にいて、その人の力になる──それは、夕璃にはできなかったことだから。

 だからこそ夕璃は、星怜を気に入ったのかもしれない。


「許可が出ました。夕璃さま」


 女官にょかんが夕璃のもとに戻ってくる。

 しかし、彼女は暗い表情で、


「ただ、狼炎さまはお加減がよくないようで……面会はできないとのこです」

「……そう、ですか」

「お部屋の前までなら案内していただけるそうです。また、書物を側仕えの者に預けることもできるとのことです。いかがいたしましょうか?」

「お父さまからは、直接お届けするように言われております」


 夕璃は父の言葉を思い出しながら、答えた。


「それに、殿下のお加減が悪いのでしたら、お見舞いしなければなりません。お部屋の前まで参りましょう。そのように伝えてくださいませ」

「承知いたしました」


 やがて、馬車が動き出す。

 こうして夕璃は、太子狼炎の部屋をたずねることになったのだった。







「太子殿下にご来客です。王弟殿下のご息女そくじょ藍夕璃あいゆうりさまでございます」


 太子狼炎の部屋の前で、側仕えの者が声をあげる。

 夕璃と側仕えは直立不動ちょくりつふどうのまま、しばらく待った。

 けれど、声は返ってこなかった。


「……申し訳ございません。夕璃さま。やはり殿下は、お加減がよろしくないようです」

「……そうですか」


 夕璃はため息をついた。

 やはり、狼炎は会ってくれないらしい。


(こんなとき星怜せいれいさまなら……どうするのでしょう)


 星怜は、兄の天芳から贈り物をされたとき、勢いに任せて部屋に飛び込んだと聞いている。

 けれど夕璃の立場では、それはできない。

 ならば、今できることは──


「狼炎殿下。お久しぶりでございます。夕璃です」


 ──しばらく考えてから、夕璃は扉越しに声をかけた。


「父より、書物を託されてまいりました」

「…………夕璃どのか」


 扉の向こうで、声がした。

 その声がかすれていることに気づいて、夕璃は息をのむ。

 それから、彼女は、


「お父さまより、殿下のお加減をうかがうように言われております。お顔を見せてはいただけないでしょうか」

「……書物はありがたくいただく。あなたは帰られるといい。夕璃どの」

「……お顔を見せては……いただけないのでしょうか?」

「あなたに凶運きょううんを移すわけにはいかぬ」


 絞り出すような声だった。


「この狼炎は……やはり、不吉な人間なのかもしれぬ。生まれてすぐに母を失い……こたびは、亡き母の弟──兆石鳴ちょうせきめいに罪を負わせてしまった。私はそのような人間だ。従姉いとこのあなたが近づくべきではない」

「なにをおっしゃるのですか。殿下!」

「私の側にいられるのは、よほど強運な者だけだろう。例えば……戦や自己で家族を失い……それでも奇跡的に命を拾うような。そのような人間だけだろうよ」

「……太子殿下」


 ──この人は、絶望している。

 ──なにがあったのかは、わからない。

 ──けれど、このままでは……取り返しのつかないことになるかもしれない。


 そんな思いが、夕璃の胸をよぎる。


「お願いがあります。席を、外していただけますか?」


 気づくと夕璃は、側仕えに話しかけていた。


「数分で構いません。殿下と私を、ふたりだけにしてくださいませ」

「で、ですが……」

「お願いいたします。この通りです」

「ゆ、夕璃さま。あなたが私のようなものに、頭を下げられることは……わ、わかりました。席を外します。ですから、頭を上げてください」


 床にひざを突こうとする夕璃を、側仕えの青年が止める。

 彼は一礼して、廊下の向こうへと立ち去る。「数分だけです」と言い残して。


 側仕えがいなくなったのを確認して、夕璃は深呼吸。

 それから、扉の向こうにいる狼炎に向けて──


「この私……藍夕璃あいゆうりは、あなたの味方です。狼炎殿下」


 夕璃はきっぱりと、告げた。


「私にたいした力はありません。あるのは……お父さまの影響力と、そのお力を借りて作り上げた人脈くらいです。けれど、この藍夕璃は、あなたの味方として力を尽くすことを誓います」

「やめてくれ。あなたにも、私の不吉の影響が──」

「あら? ご存じありませんの? 私も不吉な人間ですのよ?」

「……なに?」

「私はずっと昔から、道ならぬ恋をしておりますの。実現してしまったら、みんなから後ろ指をさされるような恋を」

夕璃姉ゆうりねえさん……いや、夕璃どのが!?」

「ええ。私こそが不吉な人間なのですわ。だから、私はあなたから離れたのです」

「違う……離れたのは、この狼炎の方だ」


 とまどうような口調で、狼炎は言った。


「私は次期国王として、国のことを第一に考えなければいけない。なのに私には……あなたの父上への引け目があった。人望にあふれる王弟、燎原君りょうげんくんを見るのがつらかったのだ。私は不吉で、小さい人間なのだ。だから……」

「でしたら私たちは、似たもの同士ですわ?」

「……な、なんだと?」

「私はまわりへの引け目から、道ならぬ恋の相手に思いを伝えることができないのです。私も小さな人間です。ですから、私と殿下は、似た者同士なのです」

「そ、そうかもしれぬが……だが」


 しばらく、沈黙があった。

 それから狼炎は、重苦しい声で、


「『不吉の太子』の異名は別として……私は未熟みじゅくだ。いつか道をあやまるかもしれない。そのときに──夕璃姉ゆうりねえさんを巻き込むわけには」

「うれしいですわ。太子殿下」

「……え」

「昔のように、飾らない本音を聞かせてくださるのですね」

「…………意地悪だな。あなたは」

「ええ、そうですわ。だから意地悪な私は、あなたが道を誤ったとき、堂々と指摘して差し上げます」


 扉の前で、夕璃は床に膝をついた。


「私の手に負えないときは、お父さまにお願いしますわ。世の才能ある人々の知恵を借りて、あなたに助言して差し上げましょう。それでもあなたが言うことをきかなかったら……そうですわね。人々を集めて、北臨ほくりんの町を囲んで差し上げます」

「……夕璃姉さん」

「そうして、あなたに反省をうながします。殿下──いえ、ろうさまは、それを無視するようなお方ではありません。そうでしょう?」


 そう言ってから、夕璃は立ち上がる。

 足音が近づいていた。側仕えが、戻ってきたらしい。


「私のためにお時間を下さったことに感謝いたします。殿下」


 夕璃は扉に向かって、拱手きょうしゅした。


「お顔が見られないのは残念ですけれど……お言葉を聞けただけで十分です。この藍夕璃、殿下のお慈悲じひに感謝いたします。ありがとうございました」

「……夕璃どの」

「はい。殿下」

「明日……いや、明後日まで、待っていただけないだろうか」


 扉の向こうで声がした。


「これから、あなたが届けてくれた書物を読もうと思う。私のことだから、わからないことや、叔父上に聞きたいことが、山ほど出てくるだろう。近いうちに衣冠いかんととのええて、屋敷を訪ねることになると思う」

「は、はい。殿下!」

「あなたへのお礼は、そのときに申し上げる。それで……いいだろうか」

「ありがとうございます。殿下。もったいないお言葉です」

「…………それは、こちらの言うことだ」


 ことん、と、扉に触れる音がした。

 すぐ側に狼炎がいる。

 それに気づいて夕璃は、耳を澄ます。


「…………ありがとう。夕璃どの」


 その言葉は、夕璃にしか聞こえなかったのだろう。

 涙ぐむ夕璃をはばかったのか、側仕えの青年は距離をおいている。

 けれど、夕璃の表情を見て、なにかがあったことは察したらしい。

 彼は床に膝をつき、夕璃に向かって頭を下げた。


 それに応えてから、夕璃はまた、扉に向かって一礼した。


 一度だけ扉に触れる。

 かたり、と、かすかに誰かが身じろぎする音がした。

 そこにまだ狼炎がいるのを感じて、夕璃は思わず胸を押さえる。


 そうして夕璃は、温かい気持ちを抱いたまま、屋敷へと帰ったのだった。



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