第70話「天下の大悪人、帰郷の準備をする(5)」
──
気がついたら、自室にいた。
どうやって部屋に戻ったのかも、思い出せなかった。
「…………この狼炎が、幸運の太子。
あの言葉を、どう受け止めればいいのか、わからなかった。
──
──この狼炎を
──ごまをすって、取り入るつもりか。
そのように反応していたはずだ。
だが、相手は異民族の武将、ガク=キリュウだ。
太子狼炎が「
彼は、そんなつまらないやり方はしない。
それに黄天芳は、太子狼炎に
黄天方は堂々と、太子狼炎に反論していた。
そんな彼が異民族に『不吉の太子』の話を吹き込むとは思えない。
だとしたら、あれはガク=キリュウの本心なのだろう。
無骨な、それでいて気品のある、異民族の将軍の。
「…………なんだそれは。この狼炎のどこが……幸運の太子……なのだ」
ずっと『不吉の太子』と呼ばれて来た。
もちろん、表立って言われたわけではない。
それでも、うわさは耳に入ってしまうものだ。
だから
狼炎が武術を学び、兵の指揮能力を高めてきたのはそのためだ。
人々に力を認めさせるには、戦果を上げるのが一番早い。
敵を打ち払い、国を守る。それは誰からも、はっきりとわかる功績だ。
それを打ち立てるのが近道だと、兆石鳴からは教えられていた。
だから狼炎は、常に自分を
彼が指揮する独立部隊──『
望む結果は、出せなかったのだけれど。
兆石鳴の助言は、間違っていない。
狼炎も、それに応えてきたと思う。
なのにうわさは消えない。
どうしても、狼炎の耳に入ってしまう。
狼炎が安心して接することができるのは、
もちろん、彼も『不吉の太子』のうわさは知っている。
知っていて、狼炎についてきてくれる。
否定もしない。関係ないとも言わない。
ただ、共にいてくれる。どこまでもついてきてくれる。
それがどれほど狼炎の救いになっていたか、海亮自身も気づいていないだろう。
それでも、狼炎は、あきらめていたのだ。
自分の『不吉の太子』の悪名は消えないのだと。
悪名を消し去るためには、藍河国の危機を救うような、巨大な功績を立てなければいけない。
そんなことは不可能だ。
だから狼炎はずっと、『不吉の太子』であり続ける。
父の跡を継いで即位したあとは、『不吉の国王』と呼ばれ続けるのだ。
そんなふうに考えていたのに──
「…………なんだこれは。どうして、この狼炎が……震えているのだ……」
気づくと、太子狼炎は自分が、小さく震えていることに気づいた。
身体だけではなく、声も。
感情が抑えきれなくなっているのだ。
ガク=キリュウが口にした『幸運の太子』の言葉は、狼炎に痛みを思い出させてしまった。
『不吉の太子』という言葉に刺され続けて、いつの間にか、
(……この狼炎の言葉が、異民族を救う助けになっただと? 自分はなにもしていないのだぞ。ただ、話を聞いて、任せただけで……それだけだというのに……)
これまでのやり方は、間違っていたのだろうか。
自分でなんでもしなければいけないと思っていた。
功績を上げるためには前戦に立って、戦わなければいけないのだと。
ずっとそれでやってきた。
他のやり方など、考えもしなかった
(……この狼炎は……これまでとは違うやり方を、選ぶべきなのか)
『不吉の太子』にこだわる必要はない。
『幸運の太子』の言葉に、うかれるべきでもない。
そんな言葉が、太子狼炎の頭の中で渦を巻く。
仮にこれまでのやり方が間違っていたのなら、どうすればいい?
『不吉』にも『幸運』にもこだわらず、藍河国の太子として正しくあるためには──
(この狼炎は叔父上から……
太子狼炎は、声に出さずにつぶやいた。
(……だが、叔父上に教えを
狼炎は、燎原君が苦手だった。
多くの者に信頼される叔父の姿は、『不吉の太子』にとって、まぶしすぎた。
狼炎が燎原君を頼ったのは『狼騎隊』を作ったときに、人材を紹介してもらったときだけだ。それ以外は、狼炎は叔父に会うことを避けていた。
だが──
(……もはや、個人的な感情にこだわっている場合ではない。藍河国はこれから……自国だけではなく、友好国も守らなければならぬのだ。戊紅族──あるいは、
太子狼炎は寝台に座ったまま、考え続ける。
夜が更けるまで、ずっと。
そうして、いつの間にか眠ってしまったのだった。
そして、翌朝。
「お目覚めですか。太子殿下」
「ああ。もう起きている。いつもすまぬな」
寝台で目を覚ました太子狼炎は、側仕えの少年に男性に応えた。
「顔を洗いたい。水を用意してくれぬか」
「……え? は、はい。かしこまりました。殿下!」
「急がずともよい。頼む」
「は、はい」
側仕えの男性は
水の入った器を持って戻ってきた彼は、
「…………あの、殿下? なにか、お身体の具合でも……?」
「いや、いつも通りだが?」
「は、はい! 失礼いたしました!」
「今日は叔父上の屋敷を訪ねようと思う。支度と、先触れを頼む」
「しょ、承知いたしました!」
一礼して、側仕えの者がさがっていく。
太子狼炎は用意された水で顔を洗い、衣服を整えて──
──その後で自分が、不思議なくらい、すっきりとした目覚めを迎えていることに気づいたのだった。
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