第7話

 翌日、姫が雅代まさよに昨晩の不思議な夢のことを話していると、「兄さん」と呼ぶ声が遠くから聞こえた。

 なんだか聞き覚えのある声だと姫が首を捻ったら、声の持ち主がドアの後ろから顔を出した。


「あ、カチコミ通り魔」


「……雅代まさよ


 姫がそう注意してから、三人は軽く自己紹介した。それが終わった直後、梨衣りえに亮の居場所を尋ねられたが、


「……兄さんって、もしかして亮のこと?」


「はい、そうです。もう既にお姉様に名前を呼ばれてるなんて、羨ましい……」


 最後の方でボソッと呟かれたので、姫が思わず「え?」と聞くと、「いえいえ、こっちの話です」と口早に返された。


「……ええと、最近はお兄さんとは一緒にいないけど、雅代まさよなら何か知ってるんじゃない?」


「え、そうなんですか?」


 最初は澄ました顔で装った雅代まさよではあるが、二人に見つめられる内に観念したようにため息一つを落として、亮のところへと案内することにした。

 

 








 リハビリ室の前に連れられてきた二人は、大きな窓ガラス越しに見たある光景に唖然。あの不真面目な亮が、平行棒で歩行訓練をしている。これが普通の訓練ならまだしも、この尋常じゃない追い込みを見たら誰しも驚くだろう。


 必死に平行棒にすがり、一歩ずつ前進する亮。

 その額は苦悶の汗でびっしょりではあるが、その白い歯並びが燦々と輝いているもんだから気味が悪い。実際に、梨衣りえの顔から若干血の気が引いた。

 最早これは、ある種の狂気とも言えよう。

 何かの拍子に転んだ彼を見て、彼女は小さく悲鳴を上げた。


「に、兄さん!」


 彼女は慌てた顔をして窓ガラスに駆け寄りって、その拍子に窓を叩いてしまった。けれど、この時の亮は起き上がるのに必死でその音に気付いていない。

 なんとか起こそうにも身体がとうに限界を訴えて、もう一度地べたに顔を埋めることになった。それでも彼は諦めず、爪が手の平に食い込むほど強く握り込み、全身の力を振り絞る。

 その際、上げられた亮の顔には、必死に唇を曲げて笑顔の形にする、とても不格好な表情が浮かんでいた。


「ちょっと、どうして兄さんを止めないですか!」


 食い入るように亮を見ていた姫がその声でハッとなり。振り向くと、梨衣りえが既に木村きむらさんを問い詰める形になっていた。


「アタシだって止めましたよ。それも何度も、ね。だけど、鶴喜クンが頑なになって、それで……」


 相手がまだ言い終わっていないのに、梨衣りえがリハビリ室に飛び込んだ。「兄さん」と共に彼の元へと駆け寄り、彼を支えるように懐に入り、肩を貸した。


「もう、どうしてこんな無茶をするんですか」


 亮の全身は汗だくで嫌悪感すら起こしたが、それでも梨衣りえは気にせず、彼を起こすのに手助けをした。その際、彼女は一瞬アザだらけの両脚を見たが、眼下の痛ましい光景に胸が締め付けられる思いがした。


「お、おう、梨衣りえか……。すまないが、ちょっと離れてくれないか?」


「離れるわけがないじゃないですか! 兄さんはあたしを救ったから骨折しちゃったみたいなものですし……」


「悪いが、こればかりは冗談ではないんだ。放してくれないか?」


「ダメです! もう、こんなにボロボロになって――」


「お願いだ梨衣りえ。僕は本気なんだ」


 亮が昔の一人称を使ったことに少し驚く梨衣りえは、思わず彼を直視した。真剣な目付きに根負けされて、彼に平行棒を握らせてから渋々と手を離した。彼女に短く礼を言った後、またあの狂気じみた訓練を続ける。


 まるで生まれたての小鹿のように、全身がぷるぷると震えていて、首まで真っ赤になったが、それでも彼はただゴールを目指してちょっとずつ前を進んでいる。無論、不格好な笑顔を維持しながら。

 必死に頑張っている彼の姿を直に目の当たりにされて、梨衣りえはある質問を投げた。


「兄さんはどうしてそんなに、頑張れるんですか」


「あははは、そりゃあ奇跡を起こすんだからに決まってんだろう」


「奇跡を起こす?」


「いいか、梨衣りえ。奇跡を見せることは、つまり格好つけることだ。そして、格好つけるということは――陰で人一倍、いや、五倍の努力をすることだ。

 例えこの足が無駄になったとしても、姫の笑顔を見ることができれば、これくらい、大したことではないッ」


 彼の手が滑って一瞬バランスが崩したが、なんとか立ち直ることができて再開。一時はどうなることか、と亮の無茶振りにひやひやした見守りガールズが、ほぼ同時にホッと一息。

 激しく肩を上下させ荒い息を続いている彼を見ると、相当疲れた様子だ。それでも彼は、歯を食いしばって笑顔を維持しながら、前へ進む。


「一瞬だ。ほんの一瞬だけでもいい。一瞬の奇跡を見せれば、この世はまだ捨てたもんじゃない、と。生きていればきっとたくさんいいことがあるよ、と。そう教えてやりたいんだ。僕はッ」


 彼の言葉は、その場にいる全員の心の琴線に触れ。その中にも姫が含まれているが、一番深く心打たれたのは、間違いなく彼女だろう。

 誰もが感動している中で、亮の膝が再び折って前のめりに倒れた。今まで両脚を酷使した分、急に力が抜けたようだ。

 まずい、と亮は咄嗟に目を閉じたが、その衝撃は思っていた以上に柔らかかった。

 しかしそれを確認できるよりも先に、彼の意識はそこでぷつりと意識が途切れた。










「―――――――――――しょうか」


「―――――――てね」


 幾つものの声が亮の睡眠を邪魔する。

 だけど不思議なことに、彼はそれを不快だと思わなかった。彼自身も寝起きはいい方だと思っていたが、何故かまだ疲れが残っている感じがした。

 しかしこれ以上寝ても会話を盗み聞きしているようなので、彼は起きることにした。


「……あ、目覚めた」


「あれ……姫。どうして姫がここに……。僕は一体……ああ、そうか。僕、気絶したのか……」


 真上の姫の顔に内心で驚きつつも、彼は自分が意識を失う寸前の出来事を思い返した。頭の下の尋常でない至福の感触に内心で戸惑い気味ではあるが、それを騒ぎ立てるほどの体力は、もう彼には残っていないようだ。

 視界の端に姫のパジャマの柄を見て、十中八九、自分は今物凄く恵まれた展開にいるという推測に辿り着いた。


「どれくらい、気絶しましたか」


「……うーん、十分ぐらいかな」


「ははは、そうですか。では、その分挽回しないと」


 彼は平行棒に顔を向けると、すぐに姫の手で戻された。


「……もう二度と、あんな無茶はしないで」


「はは、無茶はするさ。もう一度姫の笑顔を見るためなら」


「……もう」


 微かに眉を上げていた姫の顔は、眉尻を下げた笑みに変わり。それに苦笑いを返す亮。すると、汗ばんだ額から何やら柔らかい感触が押しかけてきた。

 え、と彼は目を開けると、丁度姫が上体を起こしていて前に垂れた髪の毛を耳に掛けるところだった。

 それを目撃したことで、より一層彼の推測が確実であることを証明されることになる。


「きょええええええええええ!?」


 驚きの余りに、彼は勢いよく立ち上がった。


「……え」


「「「えっ!?!」」」


「うん? えッッ?!?!」


 周囲の反応で自分が立っていることに気付いた次の刹那、


「いったぁぁぁああああああッッッ!?!?!」


 亮は地面でのたうち回った。一瞬の沈黙の後、爆笑が起こり。空気につられて姫もふふふと笑い、そんな彼女の笑顔が見れたことに彼も笑い出す。

 亮のサプライズ作戦は大失敗に終わったけど、姫の笑顔を取り戻せたのだ。思い描いたプランとは少し違った形になってしまったけれど、彼の目標は達成した。

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