第6話

 それから姫は雅代まさよに亮のことを尋ねても、知らぬ存ぜぬの一点張り。絶対に何か知ってそうな様子だったのに明らかにおかしい。

 だけど、最後に「下郎のことならお嬢様が心配しなくてもいい」と締めくくられては、姫の胸中にあるモヤモヤが消えるはずもなく。


「……一体どういう――」


 そのことを聞き出そうとした瞬間、扉から遠慮がちなノックが聞こえた。誰だろう、と二人が顔を見合わせると、それが開けられた。


「失礼します」


 厳粛な声が響き、看護師長が入ってきた。彼女が二人の顔を順番に見てから話を進める。


「丁度よかった。実は、華小路はなこうじさんにある話が持ち掛けられまして」


 彼女がそう切り出すと、雅代まさよの怪訝そうな顔に向かってこう告げた。


「心配しなくても結構です。これは、貴女の主人にとって良い話になりますから」


 そう宥めても、雅代まさよの眉間の皺はますます深くなるばかり。

 別に看護師長が直接姫に何かしら手を加えたわけではないにしても、姫を利用としようとした挙句に責務放棄と来た。従者として、到底赦せぬものがあるだろう。

 しかし、気が削がれたのは次に姫の言葉を聞いた時だった。


「……聞かせて」


「お嬢様……その、よろしいので?」


「……いい。話も聞かないで追い出すのも、なんか不公平な気もするし」


 「承知いたしました」とお辞儀する雅代まさよ。だからと言って、彼女の顔から険しさが引いたわけでもなかった。

 それでも大丈夫だ、と言わんばかりに看護師長は来客用の椅子を引いて腰掛け。コホン、と一つ咳払いを挟んでから本題を切り出した。



 長らく話を聞いていく内に、姫の警戒の顔が未だに信じがたいといったものへと変わっていった。


「……治療を受ける……私が……?」


「はい。とは言っても、もし華小路はなこうじさんが承諾してくれたらの話にはなりますが」


 一通り説明を聞き終わっても、姫はポカンとしている。長年にわたって今、自分にこんな話が持ち掛けられるとは思ってもみなかった様子だ。

 内容を掻い摘むと、ある医者が薔薇紋ばらもん病のことを聞いて姫の状態を知り、なんとしても治療法を見つけて彼女を助けたいという。その可能性が遂に見つかって、確実なデータ採取のために、患者である姫に臨床試験への参加をお願いしたい、とのこと。

 真偽を確かめるために、看護師長はメールと一緒に添付された研究報告書に目を通してみたところ、大丈夫でしょうと判断し、姫に持ち掛けたということ。


「まさか、この研究チームは前回あの……」


「いいえ。全く別の研究チームです。しかも、海外の優秀な方々ばかりです。まあ、前のチームと関係があるのかは不明ですが」


「……外国人?」

 

 頷く看護師長を見て、姫はますます混乱した。

 その説明を聞くに、相手がこちらと面識があったとしか思えないからだ。実際に姫が雅代まさよにアイコンタクトで聞くと、「そんな方は存じあげておりません」とばかりに、頭を左右に振られた。


「ちなみに、成功する確率はどれくらいでしょうか」


 雅代まさよの問いに眉をしかめる看護師長。少しの間を置いて、彼女は説明を続けた。


「ご存知の通り、薔薇紋ばらもん病に掛かったケースは、華小路はなこうじさんただ一人のみ。これは即ち、誰も踏み入れたことのない領域を歩むことになります。

 故に、成功率は著しく低い。そのことは、肝に銘じておくといいでしょう」


「……うん。それで、具体的な数字というのは?」


 今度は姫の問い掛けに、更に眉根を寄せる看護師長。その表情には迷いを表す曇りが見えて、雅代まさよの心をざわつかせた。

 先程よりも長い間を置いて、彼女はゆっくりと口を開く。

 

「僅か0.01%です」

 

 絶望的な数字を聞いて、雅代まさよは奥歯を噛み締めた。

 だって、そんな確率なんて、まるで姫に死ねと言っているみたいなものだ。到底納得できるわけがない。


「……けど、治る可能性があると思って、この話を持ち掛けた。そうだよね?」

 

 どこか前向きな声を聞いて、雅代まさよがハッとなった。そう、姫自身がまだ諦めてなどいないことに気付いたのだ。


「はい、勿論です」


 即答を聞いて、内心で胸を撫で下ろす雅代まさよ

 看護師長の昔の行いがどうであれ、彼女とて一医療関係者の端くれ。延々とベッドで横たわる患者が見たいというより、治った患者の元気な姿を見たい、という気持ちを常に持っていた。


 

 ふと、ある台詞が姫の脳裏をよぎった。それは、姫がまだ死神として四年目時のこと。不意に彼女が亡くなった患者たちに羨ましいと呟いた際に、こう言われた。


『もし神様がまだお迎えに上がられてこないとすれば、それは『まだ死ぬ時ではない』という神様からのメッセージなのでは?』


 最初、姫がそれを聞いた時はあまり理解できなかったけど、今となって初めてその意味が分かった気がした。


――私にはまだやるべきことが残っている。そういうことだよね、神様。


 確かに、治療の話は姫にとって分が悪いかもしれない。

 今この瞬間でも、彼女は心のどこかで死を待ちわびていた。だけど、7年間を待ってもそれが叶わず、代わりに1つの解が出た。

 真っ直ぐに看護師長の目を見る姫の横顔は、まるで揺らがぬ決意の表れのよう。


「……了承しておいて。あ、了承して……ください」


「本当にいいんですか? 下手したら、日本ではない、異国の地で亡くなることになりますよ?」


「……例えその可能性がゼロに近いとしても。微かな希望がある限り、それに賭けてみたいの。もうこれ以上ここに留まるわけにはいかないしね」


 姫が苦笑交じりに言うと、看護師長もこくと頷いた。


「分かりました。先方にはそう伝えておきます。何か進展がありましたら、また追ってお知らせいたします」


「……お願いね」













 看護師長が退室して暫く経った頃、雅代まさよがずっと思っていた疑問を本人にぶつけることにした。


「本当によろしいですね、お嬢様」


「……私ね、こう考えることにしたの。これだけ死を待っていてもまだ死んでいないってことは、今の私は、死とは縁がないって」


「お嬢様……」


 姫の気持ちを聞いて、雅代まさよは少しばかり胸が締め付ける思いがした。元々、意思確認のつもりが、いつしか死への覚悟になった。

 身に詰まる話ではあるが、それでも一従者として最後まで聞かないと、と一旦私情を押し殺すことにした。


「……今でも死にたいという気持ちは勿論あるけど。縁がないなら、諦めるしかない。だったら、“お迎え”が来るまで精一杯生きようって、そう決めたの。無論、その時が来たら大人しく受け入れるつもり」


 いつの間にか、生き続けることが辛いであることを前提とした会話になってしまっている。ささやかな反抗のつもりか、雅代まさよは拳を握り締めた。

 それに気付いても尚、語り続ける姫の口調はとても穏やかだ。


「……それに、7階の患者彼らを置いていくつもりなんてない。皆を背負って行けるところまで連れて行くんだ。ここまで死に損ねたんだから、最後まで責任を持てないとね」


 最後まで自分の気持ちを伝えて微笑む姫の姿は、やはり儚い。

 どこか悲観的で前向きな、そんな矛盾だらけの顔。その表情と、最初に約束を交わした頃の幼い顔立ちが、雅代まさよには重なって見えた。


――嗚呼、お嬢様が。ワタシのお嬢様がやっとお戻りになられましたね。

 

 雅代まさよは嬉しいような悲しいような、何とも言えない複雑な気持ちになった。

 けれど、主人がこう仰られてはもう、彼女には他の台詞はない。


「かしこまりました、お嬢様」

















 その夜、姫は久しぶりに夢を見た。

 霧の中にポツンと一人。辺りを見回すと、何もなかれば誰もいない。まるで雲の上にいるような、曖昧でふわふわとした感覚に包まれて歩き始めた。

 

 彼女が暫く歩くと、よく見知った景色が遠く前の方で広がっている。

 普段から滞在していた談話室の中に彼女が看取ってきた7階の患者が勢揃いで、リラックスしている。


「おっ、姫さんじゃないか! やっとこっちに来るのか。ったく、待ちくたびれたぜ。なあ、皆?」


 この男の声は姫がよく覚えている。彼こそ7階に来た初めての患者であり、その中で唯一彼女のことを『姫さん』と呼ぶお喋り好きな男だ。

 彼の発言によって、他の皆も姫の存在に気付き、まるで久々に再会を果たした友人のように彼女を呼ぶ。


「本当だ、我らの死神さんではないですか! さあさあ、席ならこちらに空いておりますので」


「あら、死神さん。ふふ、今までお勤めご苦労様」


「よう、随分と遅かったじゃねえか、我らの死神さんよぉ。相変わらず別嬪さんなこってぇ。そうだ、ここいらで一曲を披露するってんのはどうよ。こう見えて、実は歌声には一番自信があるんだぜ。どうだ、聞いとくかぁ?」


 もう会えない旧友たちに温かく迎えられ、ノスタルジアに駆られて徐々に歩みを速める姫。あの声を聞くまでは。


「お姉ちゃぁ~ん」


 どこまでも朗らかな、幼い声。

 姫がその声に振り返ると、そこには彼女が見たかった三人の姿が並んでいた。「おーい」と大きく手を振っているみお。その隣で恥ずかしげもなく大声で姫の名を呼ぶ亮。そんな二人の後ろに「お嬢様」と微笑む雅代まさよ

 三人の顔を見比べて、もう一度前方の懐かしき光景に目を向ける。あと数歩先で彼らと団欒できそうな距離。

 なのに、彼女はそこからもう一歩も進まず、ただじっと足下を見る。


「……ごめんね皆。まだ暫くそっちに行けそうにないや」


 罵倒が飛んでくることを想定して、姫はぎゅっと目を瞑って拳を握りしめた。


「そうか……。まあ、姫さんがそう言うのなら仕方ない。なぁーに、こっちのことは気にすんな。時間ならたーっぷりあるからな。行って来い」


 男の暖かな言葉を初めに、他の患者も次々と見送りの言葉を送った。

 それらを受け止めるように、震えている唇をきゅっと結び、背中を向け、亮たちの方へと歩き出した。

 それと同時に、みおもまた姫のところに向かう。やがて、二人は向き合って立ち止まった。


「…………」


 長い長い数秒間姫は逡巡した後、伸ばしかけた腕を力なく落とした。掛けるべき言葉があるはずなのに、中々出てこないことに悔しがっている様子だ。だけど彼女とは対照的に、みおは全く気にしない様子で姫の脇をすり抜けた。


――また言えなかった。


 そんな後悔が心中に広がり、無意識に握った拳が小刻みに震えていた。小さく息が零れる音と同時に拳を解いた、次の瞬間――。


「お姉ちゃぁ~ん、バイバァ~イ!」


「――――」


 底抜けの明るさを帯びたみおの別れに振り向くと同時に、姫の心は揺らいだ。まるで、彼女がまだ生きているような錯覚に陥ってしまいそうだ。

 だけど、みおとの明日なんて、もう二度と来ない。

 姫は暫く何も言えずにいたが、やがて口を開いた。


「……ええ。バイバイ、みおちゃん」


 泣きじゃくった顔を綻ばせて、小さな親友と永遠のお別れを告げる姫。とことこと走っていったみおの見送りをせず、彼女は歩き続ける。

 暫く進むと、周りの景色が眩しい光に呑まれていく。目覚めは間近だと直感的に感じて、姫の意識が眠りの海から浮上していく――。

 その刹那――。


「行って来い。暫くこっちには戻ってくるなよ」


 おじいさま、と彼女が呼び掛けようにもそれが叶わず。


「大丈夫、一姫かずきならできる。何せ、おじいじの一番のお姫様だからのう」


 姫の心に響く懐かしい声は、光の中に溶けていった――。

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