第5話

 その後、姫は看護師に早急に老婆のご家族に連絡するように勧めてから、部屋を後にした。行く当てもなく廊下を彷徨い続けても、老婆の姿がどうしても彼女の頭にこびりついて離れなかった。

――どうして、あのおばあちゃんのことがこんなに気になるのか。


 言うなれば、あの老婆は華小路はなこうじ家とも7階とも、何ら接点も持っていない、赤の他人だ。それなのに、たった一回しか会ったことがない相手の顔がこんなにも印象的だなんて。


「……なんかおかしいよね」


 姫がそうは言っても、それを振り払うことができなかった。

 死ぬ間際の患者なんて今まで何回も見てきたつもりだけど、あんな綺麗な笑顔ができる人間を見るのは初めて。

 どうやって生きたら、あんな風に笑えるんだろう。ふいにそんな質問が思い浮かべても、


「……なんて、今更聞けるわけがないよね」


 ため息が零れるだけ。思えば、今まで彼女に関わりを持った人間が次々と彼女の元から離れていった。

 屋敷では姉たちに無視され、育ての親である祖父が旅立たれ。

 病院では齢をとうに超えるほどの沢山の患者を看取り、幼いみおを亡くし、普段後ろに控えているメイドすら見当たらなくなり、今度は亮まで自分の元から離れた。

 次々と彼らの姿を思い浮かぶうちに、


「……あ、れ?」


 突然視界がにじみ、一筋の涙が頬を濡らした。何年ぶりの涙の存在に内心で戸惑いつつも、慌てて手の甲で拭く。

 けれどいくら拭いても拭いきれず、かと言って情けない姿を誰にも見られたくなく、その場で蹲って自然消滅するのを待つことに。

 しかし、それが運悪く通りかかったスタッフの優しさによって邪魔された。


「君、どこか具合でも――ちょっと君?!」


 制止を振り切って逃げ出す姫の背中に伸ばした腕が、虚しくも空を切り。そのスタッフが物悲しい背が遠ざかっていくのを、ただ見送ることしかできなかった。












 自分の病室に駆け込んだ姫は、そのままベッドに倒れ込んだ。

 久しぶりの全力疾走で胸を上下させているが、心の内から湧き上がる感情の激流を抑え込むことはできなかった。急に堰を切ったようにポロポロと涙が零れ落ち、ベッドのシーツに染み込んでいく。

 

「……止めて。止めてよ。なんで止めてくれないのぉ」


 咽び泣きながら紡がれた言葉の奥には、やはり戸惑いがあった。

 姫自身も自分が泣いているのかが理解できなかった。理解できないのに涙を流しているこの状況は、ある種の矛盾とも言えよう。

 

――なんで。どうして。

 自問を繰り返していく内に、様々な思い出が脳裏を駆け巡った。

 屋敷内での一人ぼっちの食事。いつしか彼女以外の患者全員がいなくなった7階。


――そうか。二人と出会うまではずっと独りだったんだ。

 そう気付いただけで、涙腺が余計に緩むだけで一向に止む気配がない。姫はシーツに顔を埋めて咽び泣き続ける中で、様々な台詞が脳裏を駆け巡った――。


『あら、こんな夜中にどうし――ああ、そうか。もうお迎えの時間なのね、死神さん。いやぁ、とうとう自分の番になったわけですかぁ。

 お勤めご苦労様。いや、ここは看取りに来てくれてありがとう、と言っといた方がいいのかな』


『天国への待合室で神様のお迎えを待つ。それって、とても素敵な響きではないですか。そうでしょう? 我らの死神さん』


『なんか息苦しいルールばっかだなぁおい……。でもまっ、それが家族への負担を最小限にする方法ってんなら従おう。我ら死にゆく当事者にとってこんな都合のいい話なんてあるはずがねえ。何せお迎えを知らせる死神さんまで付いてくるんだぜ? 

 つまりだ、最期に拝む顔はこんな別嬪さんの顔だってこたぁ。これ以上の幸せってあるのかよ』


『そんじゃあな姫さん。先に天国うえで待ってるぜ』


 最後に思い浮かぶのは、申し訳なさそうに力なく笑う、あるお喋りな男の最期。もう何年前のことなのに、今でも記憶の中に鮮やかに輝いている。


「……やだぁ置いて行かないでよ、みんなぁ」


 本音を言えば、7階の患者あっち側がよかった。

 例え彼らと同じ病気を持っていなかったにしても、彼女もまた自分の死を待ち望んでいた。屋敷では誰にも必要とされないが故に、死神として生涯を終えたい、とずっと思っていた。

 けれど、神様の気まぐれで選ばれたのはいつも姫以外の患者で。振り返ると、誰もいなくなったのだ。


 それでも姫は待ち続けた。死神としての役割を果たすためというのもあるが、お迎えられることの方が大きかった。

 だけど、二人と出会ってから彼女自身も大きく変わった。四人と過ごしていく内に、いつの間にか心の奥底で隠していた「死にたい」という気持ちが段々薄れていった。

 あの楽しかった日々に想いを馳せても、もう二度と戻ってこない。

 彼女がそう気付いたその刹那、笑い声で溢れる明るい談話室がある日、突然元の静寂に戻ったことを脳裏にちらついた。


「……みおちゃん、りょぉ」


 嗚咽混じりに二人の名を呼んだその瞬間、泣きじゃくった声がこもった号泣へと変わり。今まで無意識に抑圧していた感情が爆発した分だけ、その烈しさは空気をも震撼させた。













 姫が暫く激しく泣いても、その流涕は中々止まらなかった。室内に響く彼女自身の泣き声が、より一層孤独を際立たせた。


「……なんで皆が私を置いていくの。もう独りは……いやだよぉ…………まさよぉ」


「フフフ、そんなことを仰らずとも、ワタシはいつでもお嬢様の傍にいますよ」


 え、と共に声の方へと向けると、雅代まさよはカーテンの裏から姿を現して言葉を続ける。


「だって、ワタシはお嬢様専属のシモベでございますから」


「……ぐず、ま、雅代まさよ……。もう、今まではどこに行ってたんだよ」


 彼女を責めたくても、言葉の端々から嬉しさが滲み出てしまい、結局かわいい文句になった。

 雅代まさよが短く謝罪をし、まだ泣きじゃくっている主人に歩み寄る際に姫は上体を起こしベッドの縁に座った。ポケットからハンカチを取り出し、涙を拭いてあげる際に雅代まさよはこう答える。


「……全てはコレクしょ――いえ、なんでもございません」


 姫は軽く鼻をすすり上げながら、雅代まさよの顔を見上げて問い掛ける。


「……まさか、ずっと部屋にいたの?」


「うん? そうでございますが?」


「……え。ってことは、全部聞かれてたのでは……」


「フフフ。ええ、バッチリでございます♪」


「……そこは誤魔化すところでしょ! もう……雅代まさよがこんなに喜ぶのでは怒るにも怒れないじゃない」


「えと、それは……申し訳ございませんでした?」


「……何故そこで疑問形なのよ、もう……」


 むくれたり、呆れて笑ったりする姫の動作は全部総じて可愛らしいものではあるが、雅代まさよの目は誤魔化せてなどいない。それらの表情は一時の安堵から作った紛い物であることを。

 

――そんな顔をさせたのは、お嬢様専属メイドとして失格だ。

 雅代まさよは少しの間を置いて、「お嬢様は」と呼び掛けた。当の本人に首を傾げられたが、それでも構わず話を続ける。


「もしかしてお嬢様は、ワタシまでお嬢様の傍を離れたとお考えになられたので?」


「……な、何よ。そう考えちゃいけないだっていうの?」


「まさか、お嬢様があの約束をお忘れになられたとは……。どうやら、これは由々しき事態でございますね」


「……うん? 何の話?」


 まるで、ますます話が分からないみたいに、姫の頭上にあるはてなマークがどんどん増えるように見えた。それがまたかわいいと感じてしまうのは、実に不思議なものだ。


「お嬢様、ちょっと小指を拝借していただいてもよろしいでしょうか」


 雅代まさよが視線を合わせるようにしゃがむと、うん、と共に差し出される小指に自分のを絡ませた。

 もう一度、あの時に果たせなかった約束を誓い直すために。


「これから先、例え華小路はなこうじ家が滅びようとも、天変地異が起きようとも、この錦雅代にしきまさよ、必ずやお嬢様の傍にいることを、ここでお誓いいたします」


「……雅代まさよ


「ですので、もしお嬢様がお亡くなりになられましたら、ワタシも後を追って切腹いたします」


「……愛が重いって。愛が」


「それがワタシなりのケジメでございますので、悪しからず」


 少しだけ小指に力を込めながら告げる雅代まさよに向かって「全くもう」と呆れて笑う姫。


「……その、これからもよろしくね」


「はい、お嬢様」


 少し照れるような表情を見せる姫に、こちらも微笑で返す。

 ふと、雅代まさよは他の姉たちとのわだかまりを解消しようと言った時のことを思い出す。

 以前、交わした時には多少の打算が含まれたけど、今は違う。彼女はただ純粋に、主人の心を安堵させたくて行動したのだ。その気遣いが相手に通じたかのように、姫もまた満足気に微笑んで――。


「ウフフ、これで正式に24時間365日、ずっとお嬢様のお傍に居られる権利を得たわけですね。おめでとう、ワタシ。ありがとう、ワタシ」


「……なんというか。相変わらずだね、雅代まさよは」


「フフフ、もしワタシまで変わってしまったら、どこかの寂しがり屋お嬢様が泣いてしまいますからね」


「……う、うるさい」

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