第4話
「あの、すみません。
背後からいきなりフルネームで呼ばれてビックリしてガバッと振り返るも、看護師一人が視界に入ってきた刹那、胸いっぱいに安堵感がじわーと広がっていく。
「……はい、そうですが」
「ある方が貴女様を会いたがっていますので、少しお時間をお借りしてもよろしいでしょうか」
「……いいよ別に。時間ならいっぱい余ってるから」
「よかったです。それで、あの、今日はお友達は……?」
「……きょ、今日は偶々皆用事があるみたいなので、それで」
何かを察したように看護師は気まずそうに「あー」と発し、すぐさま取り繕うように咳払い一つ置いてから、一緒に付いてくるように促す。一度頷いた手前、姫は相手は誰だろうと思いながら、彼女の後に付いていくことにした。
姫が連れてこられた場所は、見知らぬ病室だった。
看護師が率先してドアを開けると、ピッ……ピッ……という無機質な電子音が勝手に鼓膜に滑り込んで、思わず息を呑んだ。
ベッドで横たわっている骨ばかりの老体の口には酸素吸入器が付けられていて、脇には点滴のスタンド、横には心電図が一定のリズムを刻んでいた。それらを見て、姫はふと亡き祖父のことを連想した。
お爺様の最期もこんな感じなんだろうか。
漠然とした質問を思い浮かび、入室する姫。
来客用の椅子に座るよう看護師に促され、腰掛けると、彼女はあることに気付いた。目前の高齢患者は今まさしく、生と死の狭間に立たされている。あちら側に引きずり込まれないように、懸命に皺の多い目を開けているだけで。
「この方は
看護師が老体をポンポンと叩くと、焦点のない目をこちらに向けてきた。が、すぐに眉間に皺を寄せて首だけを動かす。
姫がベッドの傍にいるのに、彼女の姿を認識できない程、盲目になったのだ。その事実を気付いた姫はハッとなり、看護師の方を振り向くと、彼女は申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ございません。木下さんの視力はその、段々衰えていまして……」
看護師の言葉で姫は胸が締め付ける思いがした。
そもそも、彼女が眼前にいる老婆とは今回が初対面のはず。それなのに、老婆の目的が全く見えてこない。
どうして自分に会いたがっていたのか、どうして老婆は自分にお礼がしたかったのか。こんな重体だというのに、初対面の相手にそうせざるを得ない理由とは。
様々な疑問が交錯する中、看護師は笑みを添えて説明をし始めた。
「
「……そんなことが」
亮とみおにこれを聞かせてあげたら、きっと大喜びするだろう。
今この場にいない二人の姿を脳裏に浮かんで眉尻を下げる姫。今更二人のことを思ってもどうしようもないのにね、と自虐で締めくくって再び看護師に目を向ける。
「こんなことをお願いする立場ではありませんが、幾つかお願い事を聞いていただけないでしょうか」
「……私でよければ」
深々と腰を曲げる看護師を見下ろして、姫はなんだか屋敷にいるみたいだと思い、苦笑いを漏らす。
「では、
初対面の人の身体を触れるのには些か抵抗はあったが、相手が死ぬ間際の人間ならば、私情を挟む場合ではない。
「……えっと、私がここにいるよ、おばあちゃん」
姫がそう呼びかけては右手の五指を老婆の指と優しく絡ませ、もう片方の手を絡まった手を重ね合わせた。
傍目から見ると、姫の行動が少々大袈裟に見えるかもしれない。だけど、眼前のニッコリとした笑顔を見ると、そんな些細なことすら気にしなくなる。
「は、お……」
しかし、老婆の言葉を理解できず、姫は小首を傾げるばかり。
「すみません、どうやら
「……こ、こう?」
老婆に顔を見えやすいように、姫は席から立ち上がり、少し身を乗り出して顔を移動させた。だけど後方から「もっと近く」と言われ、距離を縮ませる。
やがてそれが幾度も繰り返していくうちに、やっと看護師からオーケーが出た時には、老婆の顔は目と鼻の先にあった。
――いやいや、幾らなんでも近すぎない?!
そう焦り出すも看護師が老婆の両手を顔の両サイドに置かれては、最早無意味な抵抗に等しい。顔のパーツを確認するように、もぞもぞと動き出した両の皺だらけの手。
人との触れ合いに不慣れな彼女にとって、気味が悪くて仕方がなかったではあるが、老婆の希望を応えるように目を瞑って我慢した。
額、眉毛、鼻梁、頬、唇。
一通り触らせて終えると、ようやく解放されてホッと一息つく姫。彼女が油断したほんの一瞬の隙に、老婆はこちらに向けてはにかんだ。
「……あぁりがふぉねぇ」
幾つかの前歯もなくなって、歪んだ語音になってしまった。
それでも、ちゃんと「ありがとうね」と聞こえたものだから、実に不思議だ。姫の口は小さく開いたまま、老婆は二度も頷き――。
「べっびんさんやぁねぇ」
「――――」
脳裏によぎったのは、昔よくあったある情景。
『うんうん!
孫娘の可愛らしさに胸を躍らせ、普段の厳粛な印象とそぐわぬ、にやけた顔ではしゃぐ亡き祖父の姿。
新しい衣装を着せられる度に決まってこの言葉が飛んできたから、それが幼少期の姫の心には何も響かなかったが。今となっては、それは懐かしい思い出となった。
「……お爺様」
蚊の鳴くような声で零れた、懐かしき呼び名。
それを一度口にしたら、押し寄せる感情の波に呑まれないようにきゅっと唇を結び、強引に微笑の形を作った。
「……ど、どういたしまして、おばあちゃん」
目前の老婆に心配させまいと作った表情に、まさかのはにかんだ顔が返ってきて、姫は内心でビックリ。
骨と皮ばかりの顔に浮かべる笑顔に、一片の未練も感じなかった。
姫はその表情を、少し羨ましく思った。
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