第9話
さざ波の音に傾けながら、白い浜辺を歩く一行。
せっかく海に来たのに、みおは歩きながら波が押し寄せて引いていく様子を眺めるだけで、一切近寄ろうとしない。そこで姫は彼女の背中を一押しすることに。
「……ここで見てないで、もうちょっと近くまで行ってみない?」
「え、入っていいのっ?」
上目遣いでそう尋ねてくるみおの声が弾んだ。
もし彼女に犬の尻尾が付いていたら、今頃ぱたぱたさせているだろう。姫がその様子を想像してみると、思わず笑いが込み上げてきた。
「……足くらいまでなら、いいんじゃない? あ、でも今は秋だから、冷たいのかどうかは分かんないけどね」
手を繋いだ二人は波打ち際へと近付いていく。そして海の手前で立ち止まると、姫がみおの足元に屈み込んだ。
「……はい、みおちゃん靴脱いで。入る前にこうやって裾をまくっておかないと濡れちゃうからね」
「お嬢様、反対側はワタシが」、と
「へへへ、ありがとぉ~、お姉ちゃん! マイターお姉ちゃん!」
「うふふ、マイスターお姉ちゃんでございますよ、みお様」
みおのズボンの裾が捲くられ、膝から下が露わになった。姫は自らロングスカートをたくし上げて、彼女と同じ状態にする。
成長途中であるはずのみおと、成熟した大人であるはずの姫。年齢差があるはずの二人なのに、脚の細さはあまり変わらないように見えて。それが少しばかり
「よし、では私も……」、と亮までズボンの裾を捲くろうとした時に、
「ダメ。下郎、ハウス」
「ワン!」
あまりの可笑しさにみおは思わず吹き出し、姫に至っては困ったように笑う。そこで、みおは何か思い付いたかのような顔をし、「そうだ!」と姫を見上げる。
「ねえねえ、お姉ちゃん、『せーの』で一緒に入ろぉ~」
意外な提案にドキッとしつつも「う、うん」と受け入れる姫。
受け入れたとは言え、慣れないものをやろうとしたら自ずと表情が強張ってしまうもの。主人がカチコチになっている一方で、
車椅子の手押しハンドルから離れたとは言え、亮が勝手に離れられないと理解したからこその行動だろう。
すっかり置いてけぼりにされたことに怒り心頭の彼が、その場でてんやわんや騒いでいるが、彼をそっちのけでパーフェクトショットを撮ることに夢中だ。
姫がゴクリと固唾を呑み込んで、眼下で寄せては返す白い波を凝視。長い間を置いて、彼女はきつく結んだ唇をゆっくりと開けて――。
「……い、いくよ」
「うん!」
「……せ、せーの」
「えいっ!」
まるで明確な国境のラインを踏み越えるかのように、大きなアクションで漣の中へと足を踏み入れる二人。
白い足首が同時に水の中へと入った瞬間、みおが小さく跳ねる。
「つめたぁーい!」
「……そうね」
はしゃぐみおとは対照的な落ち着いた口調で返す姫。
しかし、その無邪気な表情が、何かしらの疑問を抱えるものに転じた。彼女は自らの足元をじっと見つめる。
「……どしたの?」
「本当にしょっぱいのかなぁ~と思って」
「……ああ、海が? この前も言ってたよね」
「うん。お兄ちゃんそう言ってるから」
そんなみおに、姫は笑いかける。
「……気になるなら、試しに舐めてみれば?」
「えっ、これ、飲めるのぉ~?」
「……まあ、本当はダメだけど。でも、ちょっとだけなら。こんな感じで、ね」
お手本を見せるように、姫は人差し指を海面に浸すと、濡れた先端を舐めてみせた。やってごらんと言わんばかりに彼女は視線で促すと、みおも海水で指を濡らした。そして、それを恐る恐る舌先へと運び――。
「あはは、しょっっっぱぁぁーい!」
海がしょっぱいであることを知り、みおは大はしゃぎ。その後、彼女は海水の冷たさを味わいつつも、笑顔で足を上げ下げする。
「見て見てお姉ちゃん! 足に砂がくっついてるぅ~!」
「……濡れてるからね」
「ははは、砂でベタベタだぁぁ~!」
些細なことでも全力で楽しむみおの姿は、姫の心中にある石が取り除かれた。最初は海らしい経験をさせてあげられなかったらどうしようと悩んだけど、その燦々とした笑顔が見れてホッとした。
それから彼女たちは水の掛け合いするわけでもなく、ただ冷たい浅瀬を歩くだけ。服を着ているも原因の一つなのだが、その前に彼女たちはまだ『患者』の身だ。
もし幼稚な水遊びで風邪でも引いたりしたら、この先外出したくても許可が下りるわけがない。そんな未来を防ぐために今回の遊びは控えめにしよう、と移動中に皆と話し合って決めたのだ。
しかし、途中まではみおも満足しているのに、思うところがあってか、彼女は亮の方に振り返って空いた手を差し伸べる。
「お兄ちゃんも手、繋ご?」
不意討ちを喰らって、思わず小さく口を開ける亮。
まるで、本日の主役であるみおに気遣われたことに意外とでも言いたげだ。
――こりゃあ、ピエロの名折れだ。
彼は内心でそう思いつつも、みおの誘いに向けてサムズアップと共に笑顔を送った。
「勿論、喜んでッ!」
「下郎、みお様に無粋な真似をしたら、分かっていますよね?」
「今日の
「もう~。お兄ちゃん、早くしてよぉ~」
はいはい、と小さな左手を掴む亮。握られて嬉しくなったみおは、両の手を軽く振り回してこう言い出す。
「えへへ、これで全員と一緒に繋がったねぇ~!」
姫と亮は顔を見合わせては小さく笑い出して「そうだね」と賛同する。
確かに、三人は手を繋がっているが、亮の車椅子を押している
そう、彼の車椅子を経由して
「……」
病院から程遠いと思っていた海の匂い。
小さな手の温もりを確かめるように、手にほんの僅かばかりの力を込める姫。すると、みおの方からもぎゅっと握り返されて、自然と微笑が漏れた。
緩い潮風にほんの少しだけ髪を揺らしながら、勝手に鼻腔に滑り込んだ潮の匂いで心が洗われる中、ふと姫はこう思った。
――いつまでもこの穏やかな時間が続きますように。
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