第8話

 そして、いよいよ待ちに待った日がやってきた。普段の淡白な病人服から脱却し、三人は私服姿で海に到着。

 無論、普通の車椅子だと砂浜の上で漕げないから、彼が暴れ出すよりも先に雅代まさよが彼を確保し、現場で砂浜用車椅子を借りて乗り換える。

 しかし一人の力だけでは彼を抑えるには到底叶わず、姫とみおも彼女を手伝った。乗り換えることに成功して、一緒に閑散とした浜辺を歩く。


「すごぉーい。海なのに静かだね、お姉ちゃん」


「……もう秋だからね」


「冬になったらどうなるの?」


「……更に人が来ないんじゃない? それこそ、夏でもない限りは」


「へえー、そうなんだぁ~」


 みおは姫と繋いだ手を軽く振り回しつつ、感心する。

 実際に海に来たことがあるのなら、このような質問をしないはず。だとすれば、今回はみおにとって初めての海になるだろう。けれど、こんな人気のない海がみおの初めてになるのは少し不憫だと、姫は感じた。


――もし季節が夏で、服も私服ではなく水着だったら、もうちょっと雰囲気あるのに。

 姫は静かに揺れる波間に目を向けて、小さく息をついた。

 『万が一があったらすぐに病院に戻る』という条件で外出した以上、できればこれ以上のリスクを冒したくない。だから、このような形に落ち着いたけれど、やはりどこか物足りなさを感じてしまう。

 しんみりとなった姫の背中に気付いたや否や、亮は一際明るい声で静けさを破る。


「ヨシ! 追いかけっこをしようか、みおちゃん!」


「下郎貴様、ただワタシにリベンジしたいだけなのでは」


「ピンポンピンポ~ン! だーいせいかぁーい! さすが雅代まさよさん、今日も冴えてますなぁ~。いてッ」


 雅代まさよにぺちっと頭を叩かれ、反動で前のめりになった亮。少し大袈裟っぽく演出するように、彼は後頭部を押さえつつ座り直す。

 亮が言った『リベンジ』というのは、彼を確保した際に『姫とみお』という彼にとって効き目があり過ぎる防衛ラインを雅代まさよが張ったとのこと。

 当時、彼を逃すまいと二人は両腕を伸ばした。そして、見事に術中に嵌った亮は「参りましタ!」と降参したおかげで、あっさりと彼を捕獲ならぬ、確保できたというわけだ。その腹いせに雅代まさよに復讐したくなるのにも頷ける。


「全く、このワタシを辱めたいという魂胆が丸見えでございますね。全力で断っていただきます」


「ええ~、マイターお姉ちゃんも一緒に遊ぼうよぉ~」


「僭越ながら、全力でお相手させていただきます、みお様」


 雅代まさよから手のひら返しをされて気持ちを切り替えるように、亮はコホンと咳払い一つ。


「では、これより第一回――『姫の尻を頂く選手権』、スタートゥ!」


「……ちょ、ちょっと! どうしていきなり――」


 何故か謎の選手権が開催され、しかも自分の身体の部位が賭けられたことに焦り出す姫。しかし、その言葉は某メイドには効果抜群で、聞いた瞬間に彼女の両目がいつになく鋭くなった。


「なにッ?! お嬢様のお美御尻は誰にも渡さん! とぅ!」


「って、雅代まさよさああぁぁーん! お忘れ物しましたよぉぉぉ! 私を忘れましたよおおぉぉぉぉー!」


 見事なスタートを切って自分を置いてけぼりにした雅代まさよの背中に手を伸ばしても、空虚を掴むだけ。姫は雅代まさよの姿を見て笑いながらも走り出すみおの小さな背を見送り、立ち尽くす。

 例え場所が違っても、この四人と居れば落ち込む暇なんてない。間近特等席で散々見てきたのに、ついつい昔の癖に戻ってしまう。

 思い悩むのもバカバカしくなって、姫は唇だけで失笑して彼の隣を追い越す。


「……自分のものは自分で守らないといけないから、お先ね」


「そんなッ!? 姫にまで見捨てられ?! ハッ、もしやこれはいわゆるあの有名な放置プレー的なアレか?! 即ち、これはごほぉぉービッ! うひょぉー、ありがとうございます、神様ぁ~!」


 その場で変なことを連発する亮を尻目に、姫は今度こそ声に出して笑った。いつの間にか彼女の心を占めている暗いものが晴れ、自分が“生きている”ことにより強く実感できる。

 潮の匂いで胸がいっぱいになり、心地良い風に頬を撫でられる中で、彼女は内心で「ありがとう」と言う。


 勝負は結局雅代まさよの勝ちで終わったが、姫が嫌がるから話自体が無効になった。けれど、一方的に無効させられても勝者本人があまりに気にしていないのは、今まで散々美味しい思いをしてきたからだろう。

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