第7話

 それから五日後。

 姫が「偶に本を読んでもいいじゃない?」という提案の元で、一同は図書室にやってきた。普段は数独をやるために図書室に訪れていたため、『図書室は本を読むためにある場所』という常識を亮はすっかり忘れていたようだ。

 彼が本選びに悩んでいる際に、みおは一冊を抱えてとことこと姫の元へ。


「お姉ちゃん、これを読んで読んでぇ~」


 姫が渡された本に目を落とすと、碧眼に微笑を浮かばせた。どんな本なのか気になって、亮は姫の肩越しに覗いては「お、いいね」と漏らす。

 二人の表情から、青い海と広がる夏の空が描かれた表紙が、二人の心にほんのりと懐かしさを呼び起こしたと見受けられる。


「是非とも、姫の美声で読んでいただきたい!」


「……はいはい」


 姫が苦笑交じりに言う。さり気なく亮も聞くことになったが、彼女は無粋なツッコミをせず、絵本の読み聞かせを始めた。

 一通り読み終えた頃、みおは頭を上げてこう尋ねる。


「ねえねえ、海ってどんな感じなのぉ~?」


 どうやって説明しようと悩んでいる姫の代わりに、亮はパッと両腕を広げた。


「水がいっっっぱいあるところで、一言では表せないような素敵な場所デスヨ!」


「……それだと、ほぼ説明になってないのでは」


「ええ~! じゃあ、海はすっごく大きいところなのぉ~?」


「イエス☆」


「すごぉぉぉい!」


 目を輝かせるみおとは対照的に、まさかあんな抽象的な説明だけで伝わったと露程思わず、姫は苦笑い。けれど、次にその口から零れ出たのは、小さなため息だった。


「みおも海、行きたいなぁ~」


 ポツリと落とされたささやかな願いを叶えてあげたい。姫はちらっと亮の方を見ると、丁度目が合った。

 きっと彼も同じことを考えている。

 そう確信した彼女はみおにバレないように、彼と小さく頷き合った。











 その日、二人はみおと別れてから、行動に移した。

 運転とその他諸々は雅代まさよに任せることになったとしても、肝心の外出許可が下りなければ何の意味も成さない。そのために、姫は看護師長室に足を運んだ。


「……失礼します。あの、外出届が欲しい……ですけど」


 予想外の来訪に、看護師長はビックリ。

 この7年間、姫からこちらに出向いたことは一切なかった。その上に、自分の人生を投げ出したと思っていた患者がいきなり外出届が欲しいと言ってきたもんだ。

 驚かないわけがない。彼女の成長を見ることができて嬉しい一方、自分が彼女の成長過程に傍にいられなかったことに悲しみすら覚えた。


 一般の患者なら医師の許可が必要だが、残念ながら現在の彼女には医師が付いていない。そのため、その許可は担当看護師である看護師長に一任されることになった。

 だから彼女は、本人さえ申請すれば許可を出すつもりでいた。あっさりと外出届をもらえて少し拍子抜けた姫の様子を見て、安堵の笑みが零れた。

 だけど悟られないように、すぐにいつもの仏頂面に戻る。記入された外出届をざっと目を通して、看護師長はこくり。


「はい、これで終わりです。もう戻っても結構ですよ」


 彼女の素っ気ない態度に姫は微妙な緊張感を抱きつつも礼を言い、部屋を後にする。謎の安堵感に包まれる中、ドアノブに手を伸ばし扉を閉める。

 それが完全に閉まろうとした時、


「気を付けて行ってらっしゃい」


「……え」

 

 聞いたこともないような優しい声音に反応するもドアの存在が返事の妨げになってしまい。完全にタイミングを逃した姫はそのまま談話室に戻っていった。


 







 同時にその頃、スタッフステーションで外出届を記入している亮の傍らに、木村きむらさんが事情を聞き出すことになった。


「そっか。みおちゃんのため、か……」


 一通り事情を聞いた後、彼女はどこか感慨深げに呟き、目を細める。

 当初の頃、亮がスタッフステーションを通る度に必ず冗談を交えて挨拶するため、多くの看護師に嫌われていた。

 しかし、最近になってそれが緩和されたのは、実は彼が案外いい人だということに気付いた看護師が多数いるからだ。その中には木村きむらさんが含まれているのは、言わずもがなのこと。



 最初は亮のことをただの頭おかしな患者だと思っていたが、彼と共に過ごして、徐々に彼の人となりをある程度知ることができた。

 そして今回、彼が実際に他人のために行動している姿を目の当たりにすると、彼に対する印象がより一層好転したことにも納得がいく。

 そう。亮の人柄を知っていたからこそ、今こうして目前でウキウキしながら記入する彼の姿を見ると、言いづらいこともある。


「だけど、みおちゃん担当の先生が、許可しないかもしれないよ?」


「ええー。そんなの、聞いてみないと分からないものじゃあありませんカ!」


「そりゃまあ、そうだけど……」


 木村きむらさんが歯切れ悪く答えてから、二人の間には短い沈黙が訪れた。


「……もし、外出できるのは鶴喜クンと姫さんだけだとしたら?」


「その時はその時さ」


 はい、と共に外出届が手渡され、目を落とす。

 彼女自身も気付かぬうちに表情が沈んでいた。しかし、マイナス思考の螺旋に陥るよりも前に彼の「でも」が聞こえて、すぐに頭の片隅に追いやった。


「ハッ、そうか! ひ、姫と二人きりでででで、デートゥができるのカ! ぐっふっふっふ、やはり綾乃あやのさんはやらしいぅ~発想の天才ですなぁ~」


「うん。とりあえず鶴喜クンの中で、アタシがどんな印象なのかがよぉーく分かったよっ」


「はいたたた、はいたたたたたっ。いひなりだなんで、わはっでまふねぇ」


 木村きむらさんが亮の頬をつねると、笑いが起こって慌てて手を引っ込めた。だけど、その笑いは冷やかすものではなく、和やかなものだと知るには数分間かかる。

 そして、彼女自身もまた、この小さくて温かな輪に助けられていたのだと気付くには、更なる時間が必要だった。

 

「……そうね。早く彼女を連れてってあげないとね」


 そう言った時の木村きむらさんの表情は、紛れもなく笑顔だ。だけど、その微笑にはほんのりと切なさそうな影がさしているように見えなくもなかった。

 その後、亮は彼女にみおの担当者に関する情報を教えてもらい、みおの代わりに掛け合った。だけど木村きむらさんの予想とは裏腹に、翌日になってみおの許可が意外にもあっさりと下りた。

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