第3話太陽
月から来たよ、かぐや彦
太陽
恋とは巨大な矛盾であります。それなくしては生きられず、しかもそれによって傷つく。
亀井勝一郎
「織姫様、文が届いております」
「ありがとう」
文を受け取った織姫はすぐにそれを読み、そして燃やした。
夜彦の弟の神楽の婚約者でもある織姫は、天の川を渡った場所から嫁いできた。
色鮮やかな着物を身に纏い、光の角度によって輝きを増す羽衣は、織姫の美しさを際立たせる。
長いまつ毛に長い黒耀の髪の毛。
数年前、いきなり両親から告げられた婚約の話。
戸惑って当たり前なのだが、織姫は「わかりました」と言っただけだった。
初めて神楽にあったのは、祭典が開かれる一カ月ほど前。
その時、神楽に兄がいるなんてことも知らされていなかった。
祭典までの間、部屋に籠っていることも出来ず、社の廊下を歩いていた。
外の空気も吸えるからか、とても気持ち良かったものだ。
そんなとき、がさがさっと音がした。
もしや獣か何かが出たのかと、身構えた。
しかし、緑豊かな森から姿を見せたのは、世にも珍しい色の髪をした男だった。
服装からして、盗賊などではないと判断できた織姫だが、あまりに驚いて声が出なかった。
「もしかして、神楽の嫁さん?」
「え?あ、はい」
「あいつと一緒じゃねーの?式に出るのに準備するって言ってなかったか?」
何の植物かは知らないが、木の実を口にいれながら喋っているその男。
「式に必要なものは、一式持ってきているので、大丈夫かと」
「ふーん。で、なんで一人でこんなとこいんだ?変な男に絡まれるぞ」
「もう絡まれていますけど」
織姫がそう言うと、男は一瞬きょとんとした顔をし、その後ハハハ、と笑っていた。
その男はすぐにまた木登りを始めてしまったため、それ以上話すことは出来なかった。
後から聞いた話によると、その男は神楽の実の兄で、かぐや彦というようだ。
だが、大体はみな彦様と呼んでいた。
なぜ自分がかぐや彦ではなく神楽となのか、という事情も聞いた。
「・・・悪い人には見えませんでしたけど」
そう言うと、神楽はこう返してきた。
「いるだけで鬱陶しいんだよ」
なんだか、冷たい人だな、という印象を受けた。
翌日もうろうろとしていると、また木登りをしていたらしく、高い木の上に寝ているかぐや彦を見つけた。
一方のかぐや彦は織姫に気付いていないようで、両手を枕代わりにして昼寝をしていた。
織姫は、しばらくじーっと見ていた。
だが、全く起きる気配のないかぐや彦。
そこで、織姫は自ら木にのぼることを決意した。
誰かに見つかってしまえば、すぐにでも連れ戻されてしまうだろう。
しかし、木のぼりなんて初めてだ。
最初にどこに足をひっかければ良いのかも分からない。
目の前にある太い枝を掴み、力を込めて全体重をかけようとしたら、簡単に折れてしまった。
「きゃっ!」
その反動で前のめりになってしまった織姫だったが、そのお陰でかぐや彦は起きたようだ。
「何してんだ?」
「いえ、ちょっと・・・」
木のぼりをしようとしていたことを正直に話せば、かぐや彦は織姫に背中を向けた。
何だろうと思っていると、そのまましゃがんだ。
「乗れ」
「え?」
「どうせその格好じゃ汚れちまうし、怪我されても困るしな」
小さく謝ると、かぐや彦の背中にしがみついた。
「ちゃんと掴んでろよ。落ちんじゃねーぞ」
「はい」
ひょいひょいっと、どんどん高くなっていく足元に、織姫は思わず目を瞑る。
こんなことをしたとバレたら、きっと怒られてしまうだろう。
自分だけでなく、主にかぐや彦が。
だが、そんなことを考えているうちに、木のてんっぺんに着いてしまったようだ。
「いつまで目ぇ閉じてんだよ。着いたぞ」
ゆっくりと目を開ければ、そこにはこの星が一望できるほどの高さにいた。
綺麗な建物が並び、自然と調和、共存している風景が心に沁みる。
初めて見る景色に、織姫は感動していた。
「わあ、綺麗」
「だろ?まあ、俺達が知らない景色ってもんが、もっとあるんだろうけどな」
「知らない景色?」
「ああ」
隣にいるかぐや彦は、この星なんて見ていない、もっと遠くの世界を見ているようだ。
目を輝かせ、その目線も真っ直ぐだ。
聞いたことがあるような気がする、どこかにある青い星の話だった。
そこには季節というものがあって、季節によって見える景色が異なるそうだ。
春になるとピンク色の花が咲き乱れ、夏になると虫や鳥が騒ぎ出す。
秋には赤やオレンジの葉があり、冬になると一面が真っ白になってしまうとか。
その話は、かぐや彦の祖父から聞いたものらしい。
とても嬉しそうに話していた。
「それはさぞかし、美しいんでしょうね」
見たこともない景色に心奪われているかぐや彦の表情は、素直に素敵だと感じた。
「いつか私も、見てみたいです」
そう言って隣のかぐや彦を見れば、目を細めて微笑んでいた。
その日、織姫が社に戻ると、探していたのに見つからなかった、何処に行っていたのだと質問攻めにされた。
全部、秘密だが。
それから、頻繁にかぐや彦に木のぼりに連れて行ってもらった。
今思えば、負担だったことだろう。
女とはいえ、何重もの着物を着こんだ女を、傷付けないようにおぶるのだから。
それでも、かぐや彦は文句も何も言わず、連れて行ってくれた。
祭典後のあの隕石の事故から、すでに数か月が経っていた。
かぐや彦は死んだと、この星を守ったのだとみなは言っている。
だが、織姫はそうは思えなかった。
「旦那様」
「どうした、織姫」
「少し、星に帰ってきてもよろしいですか?久しぶりに母の顔も見たいので」
「ああ、いいよ。お共も連れて行くんだろ?」
「いえ、今回は一人で帰ろうと思っています。たまにはいいでしょう?」
一人で、という言葉に神楽は渋った顔をしたが、なんとか了承してくれた。
「お腹の子にも、注意していっておいで」
四角いボックスのような乗り物に乗りこむと、機械に行き先を告げる。
身篭ったお腹を摩りながら、織姫は向かった。
「・・・はあ。今日は確かに粗大ゴミの日だけど、こんなデカイの誰だよ捨てたの」
文句を言っているのは、歩だ。
以前にも見た光景から、デジャブかとも思ったが。
だが、プシュー、と音がしてボックスの扉が開くと、その奥では女が一人寝ていた。
額に手を当て、歩はブツブツ言いながらも女を横抱きにして家まで運ぶのだった。
「歩!なんで朝飯の用意がねーんだよ!」
「・・・朝から騒がしい奴だ」
「てか何?女を拾ってきた・・・」
歩の腕の中にいる女の顔を覚えているのか、夜彦は口を開けたままだ。
まじまじと見ると、うんうん頷いた。
「俺の知り合いだ。良く面倒みてやってくれ」
「ちょっと待て」
くるりと踵を返して部屋の鍵を閉めようとした夜彦の頭を、長いその足で歩が蹴った。
仕方なく夜彦は自分の布団に女を寝かせる。
すると、興味本位に狸と狐が見に来る。
「こりゃまた別嬪さんじゃねーの」
「疲れて寝てるみたいですね。おかゆでも作っておきましょうかね」
まるで母親のように動く狐とは逆に、狸は平然と女の寝ている布団に潜り込もうとしていた。
すぐに夜彦につままれたが。
夜に近づくと、女は目を覚ました。
「お。姉ちゃんが起きたぜ」
「良かった良かった。お腹空いてます?」
上半身をゆっくりと起こすと、女は狸と狐を見て目をぱちくりさせる。
ぽかんとしていると、その奥で胡坐をかいている見知った男を見つけた。
「彦様!御無事で!」
「彦様ぁ!?」
なぜか狸が怒った。
女は夜彦のもとに行こうとするが、くらっと眩暈を起こす。
「無茶すんな。ゆっくり休んどけ」
女を連れてきた責任で、歩もなぜかその場にいた。
「おいおいてめぇ、彦様ってなんだよ。なんだか妙に気位の高い感じじゃねぇか?」
「お前は馬鹿か狸。呼ばれたのは俺じゃなくて夜彦のほうだ」
夜彦には似合わない呼ばれ方だったからか、狸はてっきり歩かと思ったようだ。
女を横にしようとする狐が、呆れたように狸たちを見ていた。
「どういうこった。この姉ちゃんは誰でェ?」
面倒くさいと説明をしたがらなかった夜彦だが、女が口を開いた。
「彦様は私の義理の兄です。私は織姫と申します」
夜彦の過去のことを話すのはどうかと思ったのか、織姫は自分と夜彦の簡単な接点だけを話した。
「なんで長男の夜彦じゃないんだ?」
「それは・・・」
その理由を自分から言うのは、と悩んでいた織姫だったが、ここでようやく夜彦自らが説明をした。
きっと歩も狸も狐も、なんでそんな理由で、とは思うのだろうが、当人たちにとっては重要なことだ。
乗り物に行き先として告げたのは、「彦様のいる場所」だった。
「実は、報せがあったんです」
「報せ?」
「はい。私は、あの日、どうしても彦様が死んだとは思えなくて、彦様が生きているか調べて欲しいと、自分の星に文を出していました。もちろん、そのことが周りに知られてしまうわけにはいかなかったので、内密に」
そして、生きていると文が届いたから、夜彦を探しにきたという。
「なんで俺を探しに来た?」
「それは・・・」
織姫は、無意識にお腹を触っていた。
「彦様、星に戻ってきてはくれませぬか?」
「あ?」
何があるというのか、織姫は唇と目をぎゅっと強く紡いだ。
かちゃ、と小さく音を立て、紅茶のカップを皿に乗せると、歩が口を開く。
「邪魔者扱いしておいて、戻ってこいなんて、よっぽどの理由でもあるのか?」
棘棘しい歩の言葉だが、決して間違ってはいないため、織姫も苦しそうに表情を歪ませる。
「姉ちゃんは悪かぁねぇだろ。そんなに責めるんじゃあねぇよ」
重たい沈黙を終わらせたのは、いつもの口調の狸だ。
何も食べていないのに、爪楊枝をしーしーといじくっている。
夜彦は、頬杖をついて織姫を見ているだけ。
「彦様の父上様も病弱になり、旦那様は以前のような笑顔はなく、暴君となっています」
「もとからだろ。あいつは外面が良いだけだ」
「このお腹には、旦那様とのお子が宿っています。私は、旦那様がこの子に手をかけるのではないかと、恐ろしく感じます!!!」
狐が織姫の背中を摩りながら落ち着かせようとしている。
「姉ちゃん、どういうことでェ?」
のっそりと身体を起こし、織姫を見据えている狸。
「旦那様は、彦様もご存じのように、力を欲しています。もしもこの子が生まれ、一定の年齢に達せば、この子に王位を譲らねばなりません。この子を身篭ってからというもの、旦那様の殺意に満ちた目が、お腹に注がれています。それが恐ろしく、安心して眠ることもできませぬ」
嗚咽交じりに泣きだしてしまった織姫。
「そういう弟なのか?」
歩が聞くと、夜彦ははあ、と大きなため息を吐いた。
「大好きよ、あいつ。勝ちにこだわるし、そのくせ努力は嫌いだし、権力だの名誉だの、こだわるよなー」
「人事じゃねぇだろ。帰ってやりゃぁいいじゃねぇか」
泣いている織姫の膝に勝手に頭を乗せ、膝枕してもらっている狸。
お腹を触りながら「俺の子か?」なんて冗談も言っている始末だ。
「俺が帰って何が出来ると思ってんだよ。望まれてない上に死んだと思われてるなら、帰る必要なんてねーよ」
ぷいっと拗ねたように横を向いてしまった夜彦に、織姫の涙は止まらない。
いつの間にか、織姫の為のおかゆも狸が食べている。
コポポポ、とポットにお湯を入れている歩はもう我関せず。
誰もが織姫は諦めて帰ってしまうと思っていたのだが・・・。
「彦様」
「もう彦様でもねーし」
「彦様」
「王位譲るのが嫌なら、就いてれば良いじゃねーか。それに関して規則はねーんだから」
「彦様っ」
「実際子供が生まれりゃ、あいつだって考えが変わるかもしれねーし」
「彦っ様・・・」
「俺はもうあの星とは関係ねーし」
「彦様っッ!!!」
「!!!おい・・・」
次の瞬間、織姫は布団から出て、床に頭をつけていた。
所謂、土下座をしていたのだ。
「おい、ちょっと・・・」
「お願いいたします!!!綺麗だった木々も次々枯れてゆき、花も咲かず、鳥も鳴かぬ日々が続いています!星の人々も生気を失い、旦那様の御機嫌取りだけの毎日!気に入らぬ者は簡単に斬り捨て、誰もが憔悴しきっております!」
「織姫、待てって・・・」
「以前のような星に戻すには、彦様のお力が必要です!どうか、どうかお願い申しあげます!!!!!」
思ってもいなかった織姫の言動に、夜彦は困ったように頭をかいた。
すると、最初に口を開いたのは歩だった。
「女がここまでしてるんだ。男なら腹括れ」
「おっ。珍しいな」
ニヤニヤとしている狸を睨みつけると、歩は紅茶を飲み干した。
「おま、何勝手に」
「どうせここにいるのはならず者達だ」
意外も意外な歩に、夜彦は口をあんぐりあけている。
その様子を見て、狸はカッカッカと豪快に笑いだし、狐は口に手を添えて笑っていた。
織姫はボロボロの顔を夜彦に向ける。
拗ねた子供のような顔で織姫を見ていた夜彦だったが、ふと、表情を緩ませる。
「ま、そうだな。どうせ暇だしな」
ニカッと、昔のように自分に笑ってくれた夜彦に、織姫は感謝を述べるしか出来なかった。
「お前等も行くだろ?」
そう言って、夜彦が狸と狐の方を見れば、二人はポン、と胸を叩く。
「あったぼーよ。おめぇさんには借りがあるしな」
「ぜひとも、連れて行ってくださいな」
ということで、五人が乗れる大きな虚舟を借りることにした。
「それにしても、まさか月の人間だったとはなー」
「変な星にいるお前らに言われたかねーよ」
虚舟の中では、なぜかチクチクと歩からの地味な攻撃を受けていた。
狸は織姫にべったりしており、すりすりとまるで変態のようだ。
そんな狸を嫌がることもなく、織姫は狸の肌触りが気に入ったのか、さっきからずっと撫でている。
狐は自動で動く乗り物に感激し、どこからか起動説明書を見つけてそれを読んでいた。
「歩も自分のこと話さねーじゃん。お互い様だろーが」
「お前のことに興味はないからな」
「余計話す必要ねーだろ、それ」
足を伸ばしてクロスさせ、両手を頭の後ろに持っていき枕代わりにして寝ようとし夜彦を見て、織姫が微かに笑った。
それに気付いたのは、ニマニマと織姫を見ていた狸だけ。
「姉ちゃん、どうした?」
「え?ああ、ちょっと、初めて彦様に会った時のことを思い出してしまって」
「奴のことだから、ちっとも変っちゃいねぇんだろうな」
「ええ」
にこりと微笑んだ織姫は、あどけなさがあった。
木のぼりをしたこと、景色を見たこと、織姫が怒られそうになったときには、自分が強引に連れ出したと庇ってくれたこと。
「あの時は、本当に申し訳なくて」
織姫の話によると、夜彦に頼んでいつものように木のぼりをしてもらおうとした時、突如雨が降り出してしまった。
すぐに夜彦が織姫を連れて社に戻ったのだが、着物が少し汚れてしまったようだ。
その汚れに気付いた織姫の付き人は、何があったのかと織姫を問いつめた。
正直に、木のぼりをしようとしたと言えば、初めてというくらいに怒られた。
しかし、通りかかった夜彦が、自分が織姫を連れ出したのだと言い張った。
織姫が否定するも、それは無意味に近かった。
「粋じゃあねぇか」
ケケケ、と笑う狸は足をバタバタとさせる。
そうこうしていると、月が見えてきた。
「私は先に下りています」
そう言うと、織姫は狸をそっと膝から下ろし、社から少し離れた場所で一人下りた。
「さて、俺達はのんびりと行くか」
「ただいま戻りました」
「おかえり、織姫」
にっこりと笑いながら近づいてきた神楽は、両手を大きく広げて織姫を抱きしめる。
織姫の首筋に唇を寄せたかと思うと、すっと離れて行く。
「疲れただろう。ゆっくり休むと良い」
「ええ、そうさせてもらうわ」
瞳の奥が笑っていない、神楽のあの笑みが気になる。
部屋に戻ろうとした織姫の足を止めたのは、誰であろう、神楽だった。
「兄さんの匂いなんてつけて、どこへ行っていたのかな?」
「え?」
にこりと、笑う。
そこでようやく、織姫はわかった。
さっき自分を抱きしめたのは、待ち遠しかったからでも、愛おしかったからでもない。
嘘をついていないかの確認だったのだ。
神楽は織姫に限ってだが、匂いの判別が動物並だ。
もともと好きでつけていた香水の匂いは、以前の織姫の星の匂いがするとかで、別の香水にしろと言われた。
まるで首輪をつけられた犬のようだ。
「何を仰っているのか」
「俺を騙す心算?兄貴の匂いがするよ。ねえ、もうこの近くにいるんだろ?」
「そんなこと・・・」
コツ、コツ、と二人との距離を縮めてくる一つの影。
織姫からはもうその姿は見えているのだが、神楽はそんな織姫の表情を見て楽しそうに顔を歪ませる。
「兄さん、生きてたんだ」
「・・・・・・」
ゆっくりと振り向くと、そこには死んだとされたはずの夜彦の姿があった。
優雅に余裕そうに歩いているその姿に、神楽は心の中で舌打ちをする。
―だから嫌いなんだよ。
自分の兄と対面すると、ふと、急に背後に別の気配を感じた。
「?」
首だけ後ろに向けて見ると、そこには見たことの無い男がいた。
しかも織姫を引っ張って、自分の後ろに隠した。
「誰だ、お前」
「名乗るほどの者じゃあない」
「そこは名乗れよ」
自分と同じような黒い髪の毛を持ったその男は、ぴくりとも表情を動かさない。
「平岡歩」
「兄さんの知り合いかな?なら、これは俺達の問題だから、関係ないよな?」
「俺と話してていいのか?」
「ああ。余裕だ」
「!!!」
いきなり夜彦が神楽に飛びかかり、神楽を殴ろうとした。
だが、神楽はそれを簡単に避ける。
「俺は兄さんと違って、暴力は苦手なんだよね」
次の瞬間、神楽は持っていたナイフで夜彦の身体を斬った。
「!彦様!!!」
床に倒れた夜彦からは、赤い血がドクドクと溢れ出ていた。
苦しんでいる夜彦のもとに向かうと、神楽は夜彦の傷口に足を乗せる。
最初はちょんちょん、と触れるだけだったが、そのうち思いっきり蹴りだした。
蹲るだけの夜彦を見て、神楽は鼻で笑う。
「てめぇー!!!何しやがる!!!」
「!?」
夜彦の傷口抉りに夢中になっていた神楽は、背後からの衝撃になんとか耐えた。
純白に穢れのなかった着物は黒ずみ、掌にも多少の擦り傷を負ってしまった。
「次から次へと・・・!」
ギリッと歯を食いしばって睨みつけると、そこには茶色の丸い生物がいた。
倒れている夜彦に駆け寄って、呼びかけている。
「てめぇだけは許さねぇぞ!!!」
「なんだその無様な姿は。お前のような生き物など、さっさと始末してやる」
「狸、落ち着け」
今にも神楽に飛びかかりそうな狸に、歩は制止の声をかける。
だが狸のところへ行けないのは、織姫も夜彦に駆け寄ってしまいそうなため。
すでに動かない夜彦は、しゅううう、と煙を出す。
「?なんだ?」
「あれは・・・」
力の限り歩を振り切ろうとしていた織姫は、動きを止めた。
「なんだ、こいつは」
「俺の相棒だ!」
自分の兄だと思っていたのは、黄色の変な生き物だったため、神楽は眉間にシワを寄せた。
「しっかりしろ!狐!」
何度も何度も揺すってみるが、狐は動かなかった。
ふるふると悔しさを殺す狸を、神楽は無表情に蹴り飛ばした。
屋根を支える柱の一本に激突すると、そのまま狸は倒れてしまった。
織姫がすぐに狸を抱えに行くと、気絶はしていなかった。
だが、それをみてさらに機嫌を悪くした男がいた。
「嫌いな兄さんの知り合いは、みんなきらだ。ここは俺と織姫だけいればいいんだ。そこのお前、この役立たずな動物共を連れて、さっさと消えろ」
床ですでに息絶えていた狐を蹴飛ばす。
社の外に落ちそうになったため、歩が助けようとしたが、あとちょっと、届かなかった。
「狐・・・」
織姫の腕の中で、狸が呟いた。
そんな狸を優しく撫でていると、それも気に食わなかった神楽は、狸に近づく。
だが、ピタリと足を止めた。
「やあ兄さん。今度こそ、本物かな?」
「!!!」
「彦様」
「遅ェよ!」
いつも夜彦が木のぼりをしていた場所。
手には血だらけの狐を抱きかかえていた。
神楽の額には苛立ちからか、うっすらと血管が浮かび上がっていた。
狸がバッと織姫の腕から抜けだし、狐んおもとに走った。
「馬鹿野郎が・・・」
幾ら文句を言っても目を開けない狐。
「兄さん、そいつら連れて俺と勝負でもしに来たわけ?もしかして、今更王位に未練でもあるのかな?」
「・・・・・・」
夜彦は狐の額を優しく撫でると、そこに息を吹きかけた。
一度だけ、まるで狐にそよ風が吹いたかのように。
小さな光が狐を覆うと、狐が目を覚ました。
「な、な、なにごとでェ!?」
一番良いリアクションをしたのは間近で見ていた狸だった。
死んだはずの狐が、起きたのだ。
それも、斬られたのが嘘のようにぴんぴんとしていた。
歩にも神楽にも、何が起きたのかわからない。
「どういうことだ?」
唖然とした歩に、織姫が話し出す。
「私も、話で聞いたことがあるだけなんですけど・・・」
「え?」
織姫の祖父と夜彦たちの祖父は仲が良く、しょっちゅう一緒に飲んでいたらしい。
その時、夜彦の祖父が織姫の祖父に話したことを、織姫が聞いたようだ。
夜彦の祖父はすでに亡くなってしまったが、織姫の祖父はまだ健在だそうで。
織姫が神楽と婚約を交わす時、その話をしたそうだ。
「彦様たちの御爺様は、二人をとても心配していたそうなんです。懸念していたことは、旦那様の性格です」
神楽が生まれるときにはまだ生きていた祖父は、神楽が生まれてすぐにその助長を感じていたようだ。
赤子にも関わらず、部屋に入ってきた仔リスや小鳥も、草木も花も、躊躇なく殺していたのだから。
神楽の歩いた道には雑草さえ生えないというのは、確かめようがないのだが。
一方で、夜彦は生命を司る力があった。
木登りが好きだった夜彦は、生まれたばかりの雛を見つけた。
他の動物にやられたのか、それとも親が育児放棄したのかはわからないが、弱っていた。
泣きながらその雛を祖父のところに抱えて行くが、祖父にもどうしようもなかった。
息を引き取った雛の頭を撫でながら、夜彦がその頭に唇をつけると、雛は息を吹き返したことがあった。
その後も、枯れた草木が色付きだしたり、枯れた泉に水が蘇ったり。
二人は兄弟にして、真逆の力を手に入れた。
「初めて祖父から聞いたときは、正直、嘘だと思っていましたけど」
きっと夜彦の見せてくれた景色は、夜彦が作った景色だったのだろう。
破滅と再生の相反する能力は、祖父以外知らないという。
「狐!!!おめぇ、良かった良かった!」
「なんです?まったくもう」
ポンポン、と抱きついてくる狸の背中を、赤子を泣き止ますように摩る狐。
「・・・聞いてねーよ」
ボソッと言った神楽の言葉は、歩にだけ聞こえた。
そして、徐々に増していく殺気さえ。
「クソが」
普段の神楽からは想像できないほど、豪快に夜彦を殴りにかかる。
なんとか避ける夜彦だが、自分から攻撃することはなかった。
喧嘩っ早そうに見える夜彦だが、狸や狐と遊ぶ時でさえあまり力に頼ることはしない。
逃げているだけの夜彦に、神楽はさらに顔を険しくする。
「平和主義者の心算?受けてるだけじゃ、俺には勝てないよ」
「別に喧嘩しにきたわけじゃねーんだよ」
「そんなこと言って、王位を奪いにきたんじゃないの!?」
強くなる語尾を同時に、また拳がくる。
顔をスレスレで避けると、夜彦は大きくため息を吐く。
「俺は興味ねーっつの」
何度目かの攻防をしているとき、夜彦が狐の出した血で足元を滑らせてしまった。
その瞬間を、神楽が見逃すわけがなく、神楽の攻撃が夜彦の心臓を貫いた。
倒れてしまった夜彦に、神楽は止めをさそうとする。
すると、織姫が夜彦の身体を守る様に覆いかぶさった。
「・・・織姫、何をしている。邪魔だ。そこをどけ」
「どきませぬ!!!」
「ちっ。まあいい。なら、お前もろとも殺したっていいんだが」
少しの、期待があった。
もしかしたら、自分が止めたら考え直してくれるのではないかと。
だが、そんな織姫の想いも虚しく、神楽はナイフを振りかざした。
「てめぇ!女に向かって何しやがる!!」
狸が、神楽の腕にしがみ付いた。
狐も一緒になって、神楽の反対の腕を噛んで何とか止めようとしている。
「お前等、兄さんに何を吹きこまれたんだ?」
「何も吹きこまれちゃいねぇってんだ!ただ、こいつぁ、俺達の相手をしてくれる良い奴だ!」
「馬鹿馬鹿しい」
狸たちの抵抗もなんのその、神楽は強引に腕を振り下ろした。
だが、なぜか織姫にも夜彦にも刺さることはなかった。
「なんだ?なにが起きた?」
「はあ。まったく。本当に世話のかかる奴らだ」
手に持っていたはずのナイフが粉砕されていた。
そして、どうやらその原因は歩にあるようだった。
「お前、普通の人間じゃねーのか?」
「普通の人間だったら、あんな星にいねーっつの」
神楽の腕から下りた狸と狐も、歩の方を見て首を傾げる。
「お前、何者?」
神楽が殺意を露わにしたまま歩に攻撃をするが、なぜか全て空振りに終わってしまう。
いや、当たっているような気はするのだが、歩は平然としているのだ。
何度か繰り返したあと、神楽は痺れを切らしたのか、標的を夜彦に戻した。
夜彦の腕を折ろうと、織姫を無理矢理引きはがし、放り投げた。
夜彦の右腕を持ちあげ、右肩には自分の足を乗せた。
乗せている足と持っている腕を、まるで同じ極同士の磁石のように反対方向へと動かす。
だが、そこへ狸が飛びかかった。
「わずらわしい」
低い声でそう言うと、神楽は狸を思いっきり床に叩きつけた。
歩が狸を助けに行こうとしたとき、神楽の足を掴む姿があった。
「ごほっ」
「彦様!」
そして、掴んだ神楽の足を、これでもかというほどに強く強く力を入れた。
さすがに痛くなったのか、神楽も表情を歪める。
抵抗しようとした神楽よりも先に、夜彦が立ち上がったため、神楽はバランスを崩して倒れてしまった。
足から手を離すと、今度は神楽の頭を鷲掴みした。
「俺を殺す気?」
「・・・相変わらずだな」
強い光が神楽を包むと、神楽は気絶してしまった。
「旦那様!」
意識が無くなった神楽に織姫は駆け寄り、何度か身体を摩る。
気を失っているだけだと分かると、織姫は安堵の顔を浮かべる。
夜彦が神楽を部屋まで連れて行き、ベッドに寝かせた。
そして、変わり果てた景色を見て、息吹を吹きかけるような仕草をする。
風と共に徐々に景色は色がつき始め、木々も青々しく戻る。
「それにしても、歩の力はなんだったんだ?」
「あれは粉砕というか、無にする力だ」
いかなる強い攻撃であっても、無いことにしてしまう力のようだ。
あまり力のことを話したがらないのも、使わないのも、きっと自分の星から追い出されたと言うトラウマがあるからだろうか。
そのことに関しては、誰も触れないが。
一人を除いては。
「そんな力があるのに、かまいたちに斬られるなんて、お前ドジなんだな」
「あれは向こうが速すぎて」
「はいはい。わかったよ」
「あのな、だからあれは」
「分かって言ってんだろ」
「分かってないから説明しようとしてるんだ」
「やれやれだな」
「ほんとですね」
神楽のことが公になり、みな大騒ぎした。
部屋で寝ている神楽の世話をしている織姫の耳にも聞こえてきた。
確かに、神楽がしてきたことは許されることではない。
だが、きっと神楽も分かっていたのだ。
夜彦にはどうやったって敵わないことも。
自分とは違って、全てのものを愛し、大切にする夜彦が、羨ましかったということも。
精一杯の強がりだったのだ。
神楽が気を失ってから数日経った頃。
「帰ってしまわれるのですか?」
「あ?そりゃあ帰るよ」
夜彦が、虚星に帰ると言って、準備をしていたのだ。
「ですが、旦那様がこんなことになって、王位は彦様に・・・」
「あん?そんなの、俺には似合わねーっつの」
「ですが、旦那様はもう・・・」
きっと王位など、取り消されてしまうだろう。
織姫が俯いてしまうと、夜彦は頭をかいた。
「神楽の記憶を書き変えた。だから、もう大丈夫だ」
「え?」
「多分もうちっと経てば目も覚めるだろうよ。そしたら、また始めればいーじゃねーか」
そう言って、織姫の頭を軽くくしゃっと撫でた。
「新しく、よ」
笑った夜彦は、月のように綺麗だった。
結局、夜彦たちが月を去ってしまったことは、神楽が起きてからみな知った。
夜彦が言っていたように、神楽の記憶は変わっていた。
以前のような酷い言動も見られず、織姫も安心して子を産んだ。
子を抱き上げた神楽の表情は、忘れられない。
「織姫織姫!また泣いてる!!!」
「きっとお腹が空いているんです」
小さな身体を抱くと、その温もりに思わず頬が緩んでしまう。
今でも色鮮やかに揺れる空は、芽吹き始めた命を照らす。
「なんでェ。最後くらい、姉ちゃんと一緒に・・・」
「まぁたそんなこと言ってェ」
「おい、いい加減俺の部屋から出て行け」
「腹減ったなー。何処かに親切な綺麗な姉ちゃんいねーかなー」
わいわい賑やかに歩の部屋に寛ぐ三人。
狸はゴミ箱から拾ってきたという、いかがわしい表紙の雑誌の中身を丁寧に切り取っていた。
その横で、何かの映画を見ている狐は、ハンカチを手にしていた。
住人は呆れて、紅茶を淹れ直す。
ふと、夜彦の姿が見当たらないことに気付いた。
夜彦は一人、勝手に歩のロフトに足を運んでおり、そこにある窓を開けた。
静かなその場所で、空に浮かぶ月を眺める。
月灯りに照らされながら、夜彦はフッと笑った。
「今夜も月が綺麗じゃねーか」
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