第3話 罠にかかった少年を見つけました。

 ユキノがトウガに出会ったのは十年近く前、春も間近の雪解けの頃だった。


 その日、ユキノはカヒラと一緒に御館みたちの裏山に入っていた。ナラキ川の源流に近い湿地には、毎年この時期にフキノトウが顔を出す。


 汁物や粥に入れて食べるものだが、ユキノは苦くてあまり好きではなかった。しかし、たくさん採って領民におす、、分け、、をすると、喜ばれることを知っていた。


 この山は国守の所有なので、領民が立ち入ることは禁じられている。その分、荒らされることはなく、季節ごとに採れる山菜や木の実は、他のどの山よりも豊富だ。いたるところに仕掛けた罠には、時々クマやイノシシの大物もかかったりする。


 ユキノとカヒラの二人で食べきれない分は、保存用に一部を残し、あとは働くことのできない病人や身重の女性の家を中心に配る。そうして家々を回りながら、カヒラは気さくに領民たちに声をかけ、話を聞くきっかけを作っているのだ。


 カヒラは『領民思いの国守様』と皆に慕われていて、そんな父の姿を見るために、ユキノもカヒラにくっついて、よく国の中を巡っていた。


 だから、その日もユキノはフキノトウをたくさん採る気満々だったのだが――


 山に入って五十歩も進まないところで、ユキノは奇妙の音を耳にした。


 左前方、十じょう(三十メートル)ほど離れたところから、かすかに乱れた獣の呼吸が聞こえてくる。


 その辺りには獣用のくくり罠が仕掛けてあるので、この時期ならシカやカモシカがかかってもおかしくない。実際聞こえてくる呼吸は、大きさといい深さといいい、カモシカによく似ている。


 でも、変なの。


 乱れた呼吸の部分だけ、まるで人間のもののように聞こえるのだ。


 ユキノの頭にぱっと浮かんだのは、カモシカ頭の人間――化け物だった。


 こ、これは大発見なんじゃないの!? 生け捕りにして都に連れて行けば、高く売れるかもしれないわ!


 これはフキノトウのおすそ分けより、領民が喜ぶものだ。


「父様――」


 ユキノは少し前を歩くカヒラに教えようとして――やめた。


 罠用の縄には引板ひきいた鳴子なるこ)が仕掛けてあるので、獲物がかかるとすぐにわかる。この距離なら、御館からでも間違いなくユキノの耳に届くというのに、その音が聞こえてこなかった。


 もちろん引板が壊れている可能性もあるが、化け物が罠にかかっていないということも考えられる。


 ここはあたしが一人でコッソリ見に行った方がいいわ。逃げられちゃうかもしれないし。


「どうした、ユキノ?」と、カヒラが振り返る。


「あ、ええと、かわやに行きたくなっちゃって。すぐに追いかけるから、父様は先に行ってて」


「いいよ、ここで待ってるから、そこでやっといで」

「恥ずかしいから待たないで!」

「わかった、わかった。ユキノもそういうことを気にする歳になったんだなぁ」


 カヒラは笑いながらきびすを返して、ゆっくりと山を登って行った。


 父様ってば、今さら何を言うの? もう何年もから厠へは一人で行ってるわよ!


 ユキノはぷうっとふくれながら、道をそれて木立の間に入った。


 だいぶ雪解けが進んではいるが、一度も足を踏み入れたことのない道は、まだまだ厚く雪が積もっている。音を立てないようにしたいところだが、かんじきでサクサクと雪を踏みしめる音までは消せなかった。


 それでも、化け物がユキノに気づいて動く気配はない。


 罠用の縄がくくられた場所から一番近い木の陰からこっそり覗くと、隣の木の根元に座り込んでいる少年がいた。


 歳はユキノより二つ、三つ上。色白のきれいな顔立ちをしているが、頭の高い位置にくくられた黒髪は、お世辞にも整えられているとは言えない。着ている毛皮はふわふわと毛足が長く、見るからにやわらかそうで、ユキノの着ているクマの毛皮より上等そうだ。


 革の長靴をはいた左の足首には罠の縄がくくられ、その両腕には音が出ないように引板が抱えられていた。


 その少年のぱっちりした黒い瞳が、まっすぐにとらえているのはユキノだった。その顔はどこか泣きそうにも怒っているようにも見える。


 ええー。化け物じゃなかったの?


 ユキノはがっかりしながら罠にかかった少年を見返していた。


 ……ていうか、どこの子?


 領内くにうちの子供の顔は全員知っているが、この少年は見たことがなかった。


 領民でないとなると、考えられるのはぞくくらいなものだが、このような子供が一人で、というのも奇妙だ。耳をすませてみても、この山の中にカヒラ以外の人間の存在は感じられない。


 そもそも罠といってもただの縄でしかない。少年の腰に差したものが短刀であるのなら、切って逃げればいいだけの話だ。にもかかわらず冷たい雪の上に座ったまま動いていない。


「こんなところで何してるの? 寒くない?」


「お前ひとりか?」と、逆に問い返された。


 その声は幼い少年のものだったが、話し方はどこか大人びて聞こえた。


「父様が少し離れたところにいるけど」


 少年は「そうか」とつぶやくと、おもむろに引板を雪の上に置いた。吊るされた竹の管がカランとかすかな音を立てる。四半里しはんり(一キロメートル)ほど離れたところにいるカヒラが、その音に気づいた様子はなかった。


 それから少年は腰の短刀を抜くと、足をつないでいる縄を切り始めた。クマをも繋ぎ止める縄なので、そう簡単に切れるものではない。


 時間がかかりそうなので、ユキノはそれを眺めながらしゃがんだ。


「ねえ、もしかして、あたしに見つからないようにじっとしてたの?」


 今度の問いには、少年はギラリとした視線を向けてきた。


 どうやら図星だったらしい。


「父様に見つかると、もっと困るの? 答えてくれないと、大声出すよ」


 少年は苛立たし気にチッと舌打ちしてから口を開いた。


「俺を見たことは誰にも言うな」


 相変わらずユキノの質問には答えてくれる気はないらしい。


「どうして?」

「俺たちはたみの前に姿を現さない。それがおきてだからだ」


 ようやく少年が質問に答えてくれたので、ユキノはうれしくなった。


「『地の民』って? あなたは違うの?」


「俺たちはかぜたみだ。お前たちのように国も住処すみかも持たない」


「初めて聞いた。父様なら知ってるのかな」

「大人はたいてい知ってる」


「じゃあ、あたしも大人になったら父様から教えてもらえるんだ。でも、あなたに会ったことは言っちゃいけないんだよね?」


「そうだ」と、少年は縄を斬りながらうなずいた。


「もしも誰かに言ったらどうなるの?」

「お前も聞いた相手も殺す」

「今は殺さないの?」


 もうすぐ切れそうな縄を見ながらユキノは聞いた。


 少年が自由になれば、その手にしている短刀でユキノの首くらいすぐに斬り落とせるだろう。逃げるのなら、今しかない。


「黙っているなら殺さない」


 ユキノはほっと息を吐きながらにこっと笑った。


「わかった。誰にも言わないよ」


 ぶつりと音を立てて、最後の数本のわらが切れた。


「約束だからな」


 少年は硬い表情を崩すことなく短刀を腰に収めると、さっと立ち上がって軽やかに木の枝に飛びついた。


 わあ、サルみたい……!


 驚きに目を丸くするユキノの前で、少年の姿は瞬く間に消えてしまった。その気配もじきにユキノの耳でもとらえられなくなっていた。

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