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フェール公爵令嬢マノン・ウルスは榛色の瞳に栗色の髪という、テルドール王国ではいたって普通の色の持ち主だ。
服装は華美でなく地味でなく、婚約者のジルベール王子にふさわしい落ち着いた淑女らしい格好を心がけている。
これまでのところ特に目立つような言動はそれほどしていないつもりだが、なぜか半年ほど前からマノンには『悪役令嬢』という異名が付いてしまった。
「お姉様がジンク伯爵家での茶話会でトネール伯爵令嬢を締め上げていたと聞いたのだけど」
フェール公爵の次女ソランジュ・ウルスは、マノンの部屋の居間で紅茶を飲んでいるリリアーヌの姿を珍妙な動物でも見るような目つきで見つめた。
「悪役令嬢になるためマノン様に弟子入りしましたリリアーヌ・オランドです! よろしくお願いいたします!」
椅子から立ち上がってリリアーヌが深々とお辞儀をする。
「お姉様。いつから弟子を取るほど悪役令嬢を極めるようになったの?」
「弟子にするって言わないと、弟子にしてくれるまでは離れないって泣いて縋ってくるから、断るとわたくしがいじめているように周囲に見られて困るんだもの」
こめかみを指で押さえながらマノンはため息をついた。
ジンク伯爵邸を去る際、そのままマノンはリリアーヌと別れようと思ったのだが、リリアーヌはフェール公爵邸まで付いてきたのだ。
意外にもリリアーヌは強引な一面があった。
「ふうん。つまりリリアーヌ様は、わたくしの美しくて賢くて慈愛に満ちた素晴らしいこの世にたったひとりのお姉様みたいになりたいってことね」
マノンのひとつ年下の妹ソランジュは、姉の良き理解者だ。
かなり姉に傾倒しており偏愛しているところはあるが。
「でも、お姉様のように似非見識人の殿方の鼻っ柱をぶった切る博識を披露したり、ちょっとジルベール殿下に色目を使った令嬢たちを氷のような視線で凍り付かせたり、殿下に『肉ばかり食べないで野菜も食べてはどうですか』と言えるようになるまで、十年はかかるわよ」
姉を敬愛するあまり、ソランジュはリリアーヌに対抗意識を燃やし出した。
どうやら最初の弟子は自分だと言いたいのだろう。
「はい! 頑張ります!」
ソランジュの皮肉はリリアーヌには効かなかった。
「ま、弟子とはいっても、目標はリリアーヌ様の婚約者ピエリック・フルミリエ殿をぎゃふんと言わせることなのだけどね」
「ぎゃふん?」
「ぎゃふん、よ」
姉の口から「ぎゃふん」という単語が発せられたことにソランジュは目を丸くした。
「ぎゃふんと言わせてどうするの?」
「リリアーヌ様はピエリック・フルミリエ殿と婚約を解消したいそうよ」
マノンが説明すると、リリアーヌが涙目になった。
「お師匠様! わたしのことはリリアーヌと呼び捨てにしてください! わたしはお師匠様の弟子なんですから!」
「あー、はいはい」
面倒臭そうにマノンが適当に返事をする。
「なんでこの子、泣くの?」
ソランジュが気圧された様子でマノンに尋ねる。
「感情が高ぶるとすぐ涙が出るみたいなのよね」
ジンク伯爵邸で泣きながら声をかけてきたリリアーヌにはマノンも驚いたが、どうやらリリアーヌは嬉しかろうが悲しかろうが感情の起伏によって自然と目に涙が溜まるものらしい。
常に怒ったような顔をしている、と言われるマノンとは正反対だ。
「なるほど。だから、婚約者の浮気相手から侮られるのね。すぐに泣いて悲劇の女主人公ぶってるとか、自分が可哀想って思って酔ってるんだとか言われてるものね」
「まぁ、面白いわね。一度で良いから、そんな風に言われてみたいわ」
ソランジュは社交界の噂話に詳しい。
マノンが知らないこともたくさん耳にしている。
「お姉様は無理よ」
「どうして?」
「まずは殿下の三歩後ろを歩くことから始めないと」
「殿下の隣を歩いてなにが悪いの?」
「いつもお姉様は殿下の前を歩いている自覚はないのね。殿下はいつもお姉様から三歩下がって歩いてるわよ」
「え? そんなことないわよ。隣を歩いているわよ」
マノンが首を傾げると、リリアーヌは話に加わってきた。
「あの、わたしが見ている限りでは、ジルベール殿下はいつもマノン様の三歩後を歩いていらっしゃいます。それで、マノン様が殿下に話しかけるとすっと隣に立たれます」
「よ、よく見てるわね……」
ソランジュが悔しそうにリリアーヌを睨む。
「わたし、どうやったらお師匠様のようになれるかいつもお師匠様を観察していましたから!」
胸を張ってリリアーヌが答える。
「……観察されていたとは、気づかなかったわ」
悪役令嬢と呼ばれるようになって以降、それなりに人の注目を集めていることには気づいていた。だからと言って、自ら悪役令嬢であることを否定して回るのはおかしいと思い、特に害はないからと放置していた。
それがまさか、悪役令嬢と呼ばれる自分を真似しようとリリアーヌに観察されていたとは、いくらマノンでも想定外だ。
「お師匠様のように常に人前で堂々と胸を張っていられるようになりたいんです。それで、なにか嫌味を言われてもすぐに言い返したり、受け流したりできるようになりたいんです。お師匠様のように悪役令嬢って言われても平然と相手を睨み返すくらいになるのが最終目標です」
「わたくし……睨んで、いた、かしら?」
これまでは完璧に無視していたつもりでいたマノンは、おそるおそるリリアーヌに尋ねた。
「はい! それはもう、しっかりと! 売られた喧嘩はどんな高値でも買ってやるって顔で!」
「……もうちょっと感情を顔に出さない訓練をするようにするわ」
顔に出ていたとは、とマノンは反省した。
「お姉様はいまのままで良いのよ。世間がお姉様についてこれていないから、お姉様を理解できない輩がお姉様のことを悪役令嬢だなんて悪評を流すのよ」
鼻息荒くソランジュが断言する。
「はい! わたしもそう思います!」
リリアーヌも大きく頷く。
「わたくしのことはともかく、リリアーヌさ……リリアーヌは、最終目標として婚約者との関係を解消したいってことに変わりはないのよね?」
「はい」
自分の話よりもまずはリリアーヌの話をしよう、とマノンは話題を変えた。
「いまわたくしと話をしているみたいに、婚約者と話をすることはできないの?」
目の前のリリアーヌは、気弱で泣いてばかりいる令嬢には見えない。
「それが……ピエリック様を前にすると緊張して声が出なくなって、涙が浮かんでくるし、そのうちピエリック様が苛立って『なにをぐずぐずしているんだ』って言われたりするともう完全に頭が真っ白になって……」
説明しているうちにまた感情が高ぶってきたのか、リリアーヌは目に涙を溜めながら弱々しく答えた。
「ピエリック様に対して言いたいことが喉の奥にひっかかったみたいになって言葉に詰まって、そのうちなにを言おうとしていたか言葉も忘れたみたいに喋れなくなってしまうんです……」
俯いたリリアーヌは目から大粒の涙をこぼした。
「ピエリック様を言い負かしたりできなくても良いんです。ただ、ちゃんと話ができるようになりたいんです。対等に物が言えなくても、それでも自分の言葉で喋れたら、泣いてばかりじゃなくて、ちゃんと言えたら、好きでもないわたしと婚約していないで他の人のところに行けばいいじゃないって言えたら……」
「じゃ、練習しましょ」
ぐすぐすと泣き出したリリアーヌの頭を軽く撫でたマノンは、ハンカチを差し出しながら告げた。
「え……?」
ハンカチを受け取ったリリアーヌはまだ泣きながらマノンを見つめる。
「わたくしの弟子になったんでしょ? なら、わたくしがあなたを指導してさしあげるわ。そして、立派な悪役令嬢として師匠のわたくしがかすむくらいになって、ピエリック・フルミリエ殿にぎゃふんと言わせてちょうだいな」
「な……なれる……でしょうか?」
鼻を啜りながらリリアーヌが尋ねる。
「なれるかどうかではなく、あなたは悪役令嬢になるの! 自分で悪役令嬢になると決めたのでしょう? なら、なれるまで努力して研鑽を積んで、とにかく頑張るのよ。いまは悪役令嬢になれるかどうかわからないなんて弱気なことを言っているときではないのよ」
ぽん、とマノンはリリアーヌの肩を叩く。
「さ、宣言しなさい。『わたくしは社交界一の悪役令嬢になる!』」
「わ、わたくしは社交界一の悪役令嬢に、な、る」
「声が小さいっ!」
ぴしゃりとマノンは駄目出しする。
「もっとお腹に力を入れて決意を込めて宣言するの」
「わ、わたくしは、社交界一の悪役令嬢に、なるっ!」
甲高い声でリリアーヌが叫ぶ。
「そうそう。その調子よ」
マノンとソランジュが満足げに拍手をした。
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