62話 初めてのキスをしよう

 久しぶりに外食する気分になった僕は、北峰女子からの帰りに寄り道をした。

 初めて一人で喫茶店・マスターキーに入り、ビーフシチューを食べながらのんびり時間を過ごす。


 焦ることはない。密会は夜の八時からだ。


 アパートに帰ってシャワーを浴びて、あらためて髪の毛をセットし直した。やっぱり自分でやっても、久保敷さんのように上手くは作れない。それでも何もしないよりはマシだろう。


 今日は持て余した時間を勉強に使うことができなかった。

 ひたすら時間が流れていくのを待ち、ようやく七時五十分になると部屋を出た。


 まっさらピュアには空っぽのバッグを持っていく。

 メイと話すためだけに手ぶらで行くことがあったけど、あれは他のお客さんが見たとき不自然に思われるだろう。


 中に入ると、サラリーマンが一人いてドキッとした。

 しかしタイミングがよかった。ちょうど洗濯が終わったらしく、服を回収して出ていった。


「危ない……」


 メイがゆっくり来るタイプでよかったな。


 そんなことを思っていると、自動ドアが開いた。

 長袖シャツに半ズボン姿のメイがやってきた。


「やあ、お疲れ様」

「ユッキー、抱きしめて」

「え?」


 不意打ちのお願いに、僕は戸惑ってしまう。


「ど、どうして急に?」


 メイは胸の前で両手を合わせ、指をこすった。少し顔が赤い。


「みんなの前で泣いたの、死ぬほど恥ずかしくってさ……。あんな風になるなんて思ってなかったんだよ。でもすごい拍手聞いてるうちに、勝手に出てきて、止まらなくて」


 うつむきながら、メイはぽつぽつと話してくれる。


「恥ずかしかったんだ」

「うん……」

「じゃあ、これでいいかな?」


 僕はメイに近づき、優しく抱きしめる。自分の方に引き寄せると、メイの高い平熱が服越しに伝わってくる。


「ありがと。……ごめんね、いきなりめんどくさい感じになってて」

「いいんだ。ダンス、本当にすごかった。まさか学校のバンドと組むなんて想像もしてなかったよ」

「あたしも、提案された時は迷ったよ。でも、もう二度とチャンスないかもって思って合わせてみた」

「メインのダンスも完璧だった。動画の完成されたやつよりさらに迫力が上がってたと思う」

「そうかな?」

「うん。目が離せないってああいうことを言うんだなって感じたくらい」

「出た、大げさなユッキー」

「そんなことないって。メイは本当に最高だったよ。じゃなかったらあんなに拍手は起きなかっただろうし、それに感動したから涙だってあふれてきたんじゃないのかな」


 メイはしばらく黙った。

 勢いづいて話しすぎてしまったかも。僕は反省した。


 メイを抱きしめたまま、背中をポンポンと軽く叩いてみる。反応はない。

 僕はただ、シャンプーの爽やかな香りと、香水のかすかに甘い香り、メイの呼吸だけを感じている。


「みんながどう思ったかはわからないけど」


 メイを不安にさせたくはない。僕は話し続けることにした。


「僕はメイの涙をすごく綺麗だと思ったよ。やりきったから感情があふれたんだよね。そういうのを、僕は尊いと思う」

「……そこまで言ってくれるの?」


 まだ、メイの声は小さい。


「言うよ。彼女がステージを完璧にやりきって見せたのに落ち込んでいるんだから。僕はメイに誇ってほしいんだ」

「だって、人前で泣くなんてさ……」

「みんな励ましてたよ。「頑張れ」とか「すごかったよ」って。聞こえた?」

「うん……。あたしが思ってるほど、みんな気にしてないのかな」

「そうそう。達成感で泣く人を馬鹿にする奴なんて、あの場には絶対にいなかった」


 メイはまた少し黙ってから、ようやく僕の胸の中で「ふふっ」と小さく笑った。


「その言葉選び、ユッキーらしいね。ありがと。やっといい気分になれそう」

「落ち着いた?」

「ん。月詩にさ、同じようにネガティブなこと言いまくっちゃったんだよ。悪いことしたな」

「でも、なんとなくわかる。メイにとってステージは初めてだし、どういうリアクションされるか予想つかなかったからね。メンタルが不安定になるのも仕方ないよ」

「でも、ユッキーに励ましてもらっちゃった。やっぱ今日誘ってもらえてよかったよ~」


 少し体を離すと、メイは僕の顔を見てニコッと笑った。目はちょっと充血している。


「メイ、洗濯物は?」

「今日はないの。密会のためだけに来たから」

「そっか。感想は今のでだいぶ伝えたつもりだけど……」

「そーね。あたしもこんなテンションじゃなかったらな……。もっと気楽にユッキーの話とか聞けたんだろうけど」


 不安は人の行動まで変えてしまうからね。


「せっかく言ってもらえたけど、しばらく引きずるかも……。あたしって元気系キャラで売ってるつもりなのよ。なのにあれはなんか……あたし的には違うんだよね。どうしても納得できん~」


 メイは頭を押さえてうなっている。


 僕は――理想と現実に悩む彼女の姿も、やはり愛しく感じていた。

 ただ目標に向かって突っ走るだけじゃない。

 立ち止まって苦悩することもある。

 他の人が気にしないようなことでも、引っかかって振り払えないこともある。

 メイは僕にたくさんの顔を見せてくれた。

 今日もそこに新たなページが加わる。


 だからこそ今、僕の方からも一歩進みたい。

 彼女に、覚悟を見てもらいたい。


「他のことをやっていれば忘れられるかもしれないよ」


 僕は言った。


「他のこと? 何やるの?」


「その……キス」


「え……」


 驚くメイの目をまっすぐに見つめる。恥じることは何もない。行け、自分。


「ステージで輝いてるメイを見ていたら、キスしたくなっちゃったんだ」


「ユッキー……」

「ダメ、かな?」


 メイはすぐに、首を横に振った。顔が赤くなっている。


「あたしも、したい。ユッキーの方からしてほしかった。ついに勇気出してくれたんだね」

「ああ」


 僕らは再び顔を近づけた。

 メイは少し緊張した様子で、目を閉じた。かすかに開いた唇が震えている。


 慌てちゃいけない。

 僕はメイの肩を優しく押さえて、そっと顔を寄せる。


 そして――メイの唇に、自分の唇を重ねた。


「んっ」


 ――と、メイが小さく声を上げた。

 柔らかくてしっとりしていて、熱を帯びている唇。

 それが僕の感覚を心地よく痺れさせた。


 メイが強く抱きついてくる。僕の唇は、彼女の唇に沈み込んでいく。


 永遠のようでほんのわずかな時間だった。


 僕がゆっくり顔を離すと、メイの潤んだ瞳と視線が重なる。


「ファーストキスだ」

「僕もだよ」


 メイは笑って、右手で唇を撫でた。


「相手がユッキーでよかった。今、すっごく幸せな気持ち」

「こんなに幸せでいいのかなってくらいだね」

「ね! キスってすごい」


 僕たちは顔を見合わせ、微笑みを交わした。

 圧倒的な充足感で心がいっぱいだ。


「ステージ成功して、キスもしてもらえて……最高の一日になったよ。ユッキー、ホントにありがとう」


 メイはとびっきりの笑顔を僕に向けてくれた。


「こちらこそ。メイのおかげだよ」


 今日という一日はこの先もずっと、特別な日として記憶に残り続けるだろう。


「ユッキー」

「なんだい?」

「もう一回、してほしいな」

「……わかった」


 彼女のリクエストには全力で応えよう。

 僕はあらためてメイを抱きしめ、二度目のキスをした。さっきより長く。……。

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