52話 メイの手料理

〈もうすぐ着くよ!〉


 メイからメッセージが送られてきたのは十時過ぎだった。

 まだ雨が弱まる気配はない。


 僕はのろのろ起き上がって、ドアのカギを開けておいた。そんなに治安の悪い場所じゃない。数分くらい平気だろう。


 座布団に座って毛布にくるまる。


〈カギ開いてるから〉


 メイに連絡しておくと、インターホンが鳴ったあとに、

「お邪魔しまーす」

 と声が聞こえた。


「わっ、ユッキーの制服か」


 入り口でメイが驚いている。全部昨日のままだ。汚いところを見せてしまった。


「やっほー、お見舞いに来たよ」

「うん、ありがとう……」


 やってきたメイはキャップをかぶっていた。ブラウスにゆったりしたズボンという格好で、黒いマスクをしている。パッと見でメイだと見抜ける人はそういないだろう。


「黒マスクだ……」

「なんかの記念にもらったんだけど出番なくてさ。ちょうどいいやって」

「そのマスクに金髪だとギャル感増すね」

「ギャルで売ってますから」


 でも、中身はとてもピュアな女の子なのである。


「それよりユッキー、めちゃくちゃ調子悪そうじゃん! 寝て寝て」

「じゃあ、失礼……」


 マットレスに寝転んで毛布をかけた。

 メイは部屋のあちこちに視線を送っている。


「むう」


 そして、謎のうなり声を出した。


「部屋が綺麗すぎる。あたしがやることないじゃん」

「すぐ片づける主義だから」

「じゃあシンク洗おう――うぐっ、こっちもピカピカ……!」

「そこは母さんがいつも洗ってくれるんだ」

「うう、せっかくいいところ見せようと思ったのに」

「メイがいてくれるだけで元気出るよ」

「……そう?」

「一人暮らしで風邪なんて初めてだから、思ったより心細かったんだ。でもこうやって話せる相手がいるとすごく安心する」

「そっか。よかった」


 メイはキッチンに何か重たそうなものを置いた。


「スープ作るからちょっと待っててね」

「つ、作れるの……?」

「あっ、運動神経全振りで料理は下手とか思ってるでしょ。そんなことないよ。ちゃんとできるんだから」


 メイは意気込んで料理を始めた。

 壁に阻まれてキッチンは見えない。ただ、聞こえてくる包丁の音はとてもリズミカルだ。


「ユッキーのアパート、こんなにコインランドリーに近かったんだね」

「そうそう。だからいつもメイより早く着いてたんだ」

「あたしのアパートは通りの向こう側にあるんだ。そのうち教えるね」

「いいの? シークレット情報じゃない?」

「あたしだけ教えてもらってるのはフェアじゃないから」

「律儀だなあ」


 ぐつぐつとお湯の沸騰する音が聞こえてくる。


「途中でスーパー寄って具材も調達してきたんだよ。やるでしょ」

「さすがすぎる。メイがいなかったら僕はもうダメだった」

「風邪は怖いからね。ゆっくり休んでもらわなきゃ」


 思ったよりまともな返事をもらった。大げさだなあ、とか言いそうな気がしたのに。


 しばらくメイは黙り込んだ。

 オーブントースターが動いている音がする。母さんが社員割りで買ったらしいトースター。それを使うくらい気合いを入れているのか?


 僕はぼーっと天井を見つめて、スープが出来上がるのを待つ。


「どれどれ……よしっ」


 メイが火を止めて、小さい鍋をテーブルに持ってきた。マスクはしれっと外している。


「起こすの手伝うね」


 僕が起き上がろうとすると、メイが近づいて支えてくれた。熱のせいで脱力してしまっている。


「あたしの一番得意なオニオンスープなんだけど……食べられそう?」

「いけるよ。ありがとう」


 オニオンスープには切ったパンが入っていて、その上に薄くチーズが乗っている。散らしてあるのはパセリだろう。すごい……本格的だ。


「じゃ、食べさせてあげる。あーんして」


 お椀にスープを盛ると、メイはスプーンでさらって僕の口に寄せた。


「はい、あーん」

「い、いただきます」


 オニオンスープはサラサラしていて飲み込みやすかった。味覚が若干鈍っているのが本当に惜しい。


「どう? 家族以外に食べてもらったことないんだけど」

「おいしいよ。メイ、疑ってごめん」

「下手って思ってたのか」

「最高に染みる」

「よかったぁ。まずくてもっとひどくなったなんて最悪だからね」

「そんなこと百パーセント起こらないよ」

「ふふっ、じゃあもう一口いこっか。あーん」


 メイの好意に甘えて、僕はスープを食べさせてもらった。手が動かせないほど重症ではないのだが、彼女がやりたそうにしているので抵抗しないことにした。


 密着しているから僕の右肩にずーっとメイの胸が押しつけられているのだが、それは耐える。顔が熱いのは風邪のせいか、恥ずかしいせいか。答えは不明だ。


「パンは普段もっと大きめに切るんだけど、今日のユッキーには細かい方がいいかなって思って」

「助かるよ……」

「じゃあこちらもどーぞ」


 チーズが乗って、スープの味も染みたパンをいただく。


 ……なんて幸せなんだ。


 彼女にここまでしてもらえるなんて。メイの家庭的な面を見られて心が満たされている。


「吐き気とかない?」

「うん、大丈夫。メイ、こんなに料理上手だったんだね」

「得意料理あった方がいいよーってお母さんに仕込まれたから。役に立ったでしょ」

「最高だよ。これで元気出そうだ」


 メイは小さく笑った。

 それから、僕の首元に顔を当ててくる。


「早く治るといいね。元気なユッキーじゃないと心配だよ……」


 しゃべるたびに、首に息がかかる。今日もやっぱりメイの体は熱い。自分が熱っぽくてもそれを感じられる。


「メイのおかげで食事できて助かったよ。あとはちゃんと寝れば回復するはず」

「ホントに無理しちゃダメだよ?」

「わかってる。食休みしたら横になるよ」

「ん。眠るまで見守っててあげる」


 僕たちはしばらく、無言でくっついていた。

 メイはずっと、僕の背中を包むようにして抱きついている。

 体がかすかに動いてメイの呼吸が伝わってくる。

 他にあるのは雨音だけだった。


「……なんか、こういう時間って不思議だね。特別な感じする。あたしら何もしてないのに」

「雨の日で、風邪引いてて、薄暗い部屋に二人きりで……みたいな状況ってレアだから」

「そこ言語化しちゃうの、やっぱユッキーだなあ。ドキドキするけど、こういう経験は少ない方がいいのかも。ユッキーが具合悪そうにしてると見ててつらいの」

「そうだね。コインランドリーで普通に話せるのが一番いいよね」


 部屋に呼ぶのであれば、体調が万全の時に。

 次はそうでありたい。


「……ユッキー、そろそろ横になる?」

「そうしようかな」


 僕はマットレスに寝転がる。メイはすでに毛布を持って待機していた。


「はい、あったかくしてね」

「ありがとう」


 毛布をかけてもらい、仰向けになる。


「あとで汗拭いてあげるね」

「そ、そこまでしなくていいよ」

「気にしなーい。あたし、けっこう人の面倒見るの好きなんだよ? 彼氏なんだからいっぱい優しくしてあげたいの」

「……じゃあ、起きたらお願い」

「はーい!」


 どんどん経験が増えていく。

 もし彼女が風邪を引いたら、僕もしっかりお返ししよう。


 そんな決意を固めて目を閉じる。

 メイの横で、僕はゆっくり眠りに落ちていった。

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