第44話 鎮西太宰府政権誕生と九州統一
さて、多々良浜の戦いで足利、少弐、千葉、宇都宮などの御家人を中核とする軍勢を打ち破った俺達は太宰府と鎮西探題の施設を接収した。
これにより残っていた官司を俺たちは使えるようになったわけだ。
国司の給金をちゃんと払うようにしたら彼らは頑張って働くようになったし、九州に下向していた中級・下級貴族たちもこぞって大宰府に出仕するようになった。
また、豪族や商人などでも能力が在るものは使うようにした。
まあ、はっきり言えば人手不足だったわけだ。
建武政権では上級貴族に嫌われた手法だが、もともと商業が盛んであり京都と違って貴族の少ない大宰府ではさほど問題は起きなかった。
同時に建武式目を発表した。
建武式目の内容
政庁を太宰府に置くこと
政道の規範を延喜・天暦の聖代求めこれをまもること
倹約の励行
賄賂の排除
礼節・信義の強調
女性・僧侶の政治介入の禁止
治安回復
土倉など、金融・商業の円滑な運用
其れに伴い諸法度をまとめた。
侍所を各国おきその権限においておいて非違巡検を行うものとし村に駐在所を設けるものとする。
火消所を各国に置き火消し集は火消しの方法を各村々に伝えて回るものとする。
各村において火消し桶を用意すること。
各家において火消しの水と砂を桶一杯ずつ用意すること。
施薬院と療病院を太宰府に作り病人を診察するものとする。
施薬院及び療病院の利用にはそれ相応の対価を必要とする。
悲田院を太宰府に作り貧しい人や孤児を養育するものとする。
年貢の率は四公六民とする。
検地は5年に一度とする。
検地の年に隠田が見つかった場合には、再度の調査により本来納めるべき数量を取り立てる。
謀反を起こしその後捕らえられたものは一族すべて石打にて死罪とする。
賊行為、強盗、計画的に家屋や田畑に火付けを行い捕らえられたものは一族すべて石打にて死罪とする。
意図的に領内に賊行為、強盗、火付けを行ったものを庇い立て滞在させたものは場合は同罪とする。
地位や財産を奪うために親族を殺害した場合そのものと加担したものを斬首とする。
酒の席もしくは口論が発展してのち相手を殺害した場合などはその者を斬首とする。
年貢を納めず横領した場合そのものは斬首とする。
ただし、天災飢饉などの収められない正当な理由がある場合減免する。
代官が罪を犯した場合、任命した者場も同罪とする。
公の場で暴力をふるい他人へ傷害を負わせ訴えられたたものは財産を没収する。
財産がない場合は額に”傷害”の文字の刺青を入れたうえで剃髪とする。
文書・花押・印などを偽作成したものは額に”偽造”の刺青を入れたうえで剃髪とする。
他人に頼まれて作った者も同罪とする。
嘘の訴えをおこしそれによって田畑を得たものはその者の田畑を没収する。
道路上で女子供を拉致したものは額に”拉致”と刺青を入れたうえで剃髪とする。
道路上で女を犯したものは額に”女犯”と刺青を入れたうえで剃髪とする。
道路上で男を犯したものは額に”男犯”と刺青を入れたうえで剃髪とする。
道路上で元服、裳着に至らぬ男女を犯したものは額に”子犯”と刺青を入れたうえで剃髪とする。
理由もなく他人の領地をうばい年貢や財産をとることを禁ずる。
奪ったものは奪われたものに返納し、行った者の財産を没収する。
裁判時において暴言、暴力行為に及んだものは敗訴とする
裁判に負けたものが不正判決と不服を訴えることを禁ずる。
ただし、賄賂などで実際に偏った判決を行っていた場合裁判官は斬首とする。
などだ。
そして、多々良浜の戦いの勝利の恩賞を大塔宮が差配することになった。
菊池一族は肥後守兼肥後守護に、阿蘇一族には阿蘇大宮司、肥後国国上使、秋月一族は筑後守兼守護となり、俺は尊氏を討ち取った功績として豊前、筑前、肥前、壱岐、対馬の守護となった。
更には大塔宮の親衛隊長として従四位下左兵衛権佐となった。
現代の軍隊で言う佐官相当だからこれはかなりの出世だな。
実際の所は少弐や宇都宮、千葉などの配下に居た地頭・豪族・国人をまとめる役目や農地の整備・博多などの港湾整備をおおせつかったわけだがな……。
「全く面倒なことを押し付けてくれますな」
俺は大塔宮へぼやいてみせた。
「ははは、そなたなら出来ようと思ったからこその任命だ。
政務に励むようにいたせよ」
大塔宮はいい笑顔でそう答えた。
まあ、実際の政務は万里小路藤房、北畠具行、四条隆資などが大塔宮を補佐していたしうまく回ってるとおもう。
で、まあ、仕方ない。
あたえられた役目を果たすべく俺は与えられた国々を走り回った。
以前にこちらに来た時に俺が銭を寄付して軍備を整えられたことを覚えてる連中や、壱岐対馬に戻る手助けを知っている連中が居たことも手伝って、俺の評判は悪くなかったのが救いだ。
建武政権から任じられた国司たちも協力的なものはそのまま政務に付かせ、非協力的なものは追放した。
まあ、正式な皇族でも政庁でもない俺たちだからあくまでも俺達の勢力下でだけ認められたものでは在るが。
大塔宮の建武政権に対する挙兵と足利尊氏の敗死の情報はまたたく間に全国に広まって混乱を起こした。
まず、武士だが事実上の武家の棟梁である足利尊氏とその弟直義の死は其れに従っていたもの、従おうとしていたものに取ってとてつもない衝撃であった。
そして源氏の伝統である内輪もめが足利、新田の一族で起こった。
吉良氏、斯波氏、畠山氏、細川氏、一色氏、今川氏などの各地に散った足利氏や山名氏、里見氏などの新田系の有力御家人は我こそが源氏の棟梁を継ぐものと争い始めた。
斯波家長は足利義詮の執事を努めており、尊氏の嫡男足利義詮こそ正当な後継者であるとして武士をまとめようとしたが、佐竹義敦は東勝寺で喝食であった足利直冬を還俗させて其れに対抗した。
このように元御家人がお互いにお互いの領地を奪い合うようになったところに加わったのが、建武の徳政令でまたもや損をした金貸しなどの武装商人の悪党で、悪党によって西国の零細御家人や地頭、寺社などの荘園はどんどん奪われていった。
俺は武装商船を瀬戸内と日本海に派遣して制海権を確保しつつ悪党の行動を支援していたさ。
厚東・大友の持つ水軍は艦載砲を持つ俺の水軍により駆逐されていたし、熊野、村上、河野はこちらの味方だ。
こうして建武政権が北条氏から奪った西国の荘園などはどんどん悪党の手に落ちていった。
海上の輸送手段も奪われた建武政権はこうして兵糧攻め状態となったわけだ。
まあ、陸奥や出羽などの北方の税は陸路経由で運べないわけではないが、馬借などの物流を抑えてるのは俺だから京に収められる税などは相当少なくなった。
こうして建武政権はどんどん困窮していくことになる。
物資の流通ってのは大事なんだぜ。
尊氏に院宣を与えた光厳上皇にとってもショックが大きかった。
尊氏は当然院宣を得たことを表明しており、その尊氏が敗れたことで、怒った後醍醐天皇は光厳上皇などの持明院統の皇族は各地に流罪となった。
光厳上皇は佐渡へと送られその他のものも陸奥や伊豆などに送られた。
こうして持明院統の皇族は完全に政権から遠ざけられることになったわけだ。
もちろん建武政権の後醍醐天皇やその側近は驚愕した後激怒した。
特に息子である大塔宮が謀反した帝、同族に名指しで批判された北畠親房などはすぐにでも兵を送り込もうとしようとしたようだが肝心の軍は新田義貞が腰痛で寝込んでおり北畠顕信の奥羽軍は国元に戻したばっかりだった。
帝は洞院実世に出陣を命じたが、播磨の赤松円心に阻まれて立ち往生したところを正季に背後から攻撃され散り散りになって逃げ出したようだ。
さて九州では残存の御家人勢力として豊後国の大友、薩摩、大隅、日向の島津が居たが大友、島津は同格の御家人であって決して仲が良いわけではなかった。
が、足利という共通の主君を通じて協力しようとした矢先に尊氏などが討ち取られるという出来事が起きた上に、大友氏は家督相続で大友貞順がこちら方について本家の千代松丸と対立、島津氏は薩摩の谷山氏や大隅の肝付氏、日向の土持氏など在庁官人との対立が激しくなっており国内がまとまっていなかった。
俺達はまず大友貞順を大将として、5000の兵で豊後に攻め込み、大友の宗家を討ち取り大友貞順を豊後守兼豊後守護としてまず勢力下においた。
そして、反島津の諸勢力を糾合し10000の兵で薩摩を攻撃して島津一族を降伏させた。
島津の官職はとかれ弱小な在地勢力となり薩摩は谷山氏、大隅は肝付氏、日向は土持氏がそれぞれ守護兼国守となった
こうして九州は島々も含めてすべて俺達の勢力下となった。
一方の他の無秩序な状態になった地域では騒乱状態になっていた。
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