第45話 四国・淡路制圧そして北畠顕家の引き入れ工作

 さて、九州を制圧した俺達の次の目標は四国だ。


 九州の政務は中級貴族で実務能力に優れた中原一族が後醍醐天皇によって中原章房が暗殺され、中原章房の子の章兼とその弟の章信の仇討ちの矛先が自分に向くことを恐れた結果、名和に東市司の職を取り上げられた上に、九州に下向させられていたことも有って、彼らは実によく働いてくれた。


 長い事京の治安維持や法治に携わった彼らを地方に放り出すとは馬鹿な事をする。


 四国は島で足利尊氏により四国に派遣された細川は事実上孤立無援な状態だった。


 更には在地の伊予の土居・得能・河野、同じく伊予の西園寺、土佐の長宗我部や香宗我部、阿波の小笠原、讃岐の十河・神内・三谷等の植田一党などは細川に反発していた。


 阿波や讃岐は泉や紀伊とは海を挟んで隣り合う場所だから俺はそのあたりの土豪や海賊衆をすでに手懐けていたからな。


 まあ、源氏の名家なんだか知らないがいきなり逃走中の人間が偉そうに自分たちの配下に入れと言ってきたら、反発もするだろうさ。


 本来なら足利尊氏が九州の御家人たちをまとめてすぐ戻ってくる予定だったが、その尊氏が討ち取られてしまった今では分散して配置したのは完全に裏目に出たわけだ。


「まあ、細川はかわいそうだがさっさと潰させてもらおうか。

 西園寺はどうでるかな……まあ、従わないようならこっちも潰そう」


 細川氏は足利義康の四代目にあたる義季が、三河国額田郡細川に住んで細川を称したことに始まるれっきとした清和源氏足利流の名家だし、伊予西園寺氏は閑院流藤原氏で鎌倉幕府と手を結んで権勢を誇っていたあの西園寺氏の傍流だ。


 四国は平家の本拠地が有ったり平家に反発するものが出たりと、古くから商業活動も発展している地域で、鎌倉時代も讃岐と土佐は北条の直轄、故に、関東の御家人には支配しにくい場所だ。


 俺達は伊予の土居・得能・河野の水軍に手伝ってもらい、5000の兵を率いて四国の東伊予に上陸した。


 そしてまずは河野一族とともに西伊予の宇都宮宗泰を攻めて降伏させた。


 これにより河野一族は伊予守兼守護となった。


 承久の乱で河野通信が没落して以来の悲願であったお家再興がかなったわけだな。


 さらに長宗我部信能、香宗我部秀頼ら宗我部一族と挟撃して、西土佐の西園寺公良を自害させた。


「貴族の自尊心ってやつかね……

 まあ、俺の命令に従うくらいなら死ぬって言うなら仕方無いがな」


 これにより長宗我部が土佐守兼守護となった。


 これまでの戦いは地元の有力者とともに戦うことで地形や敵方の情報なども簡単にてに入ったのも大きいが、地方の国の半分を落とすならば兵が5000もあれば十分だということも在る。


 そして、阿波への攻撃を開始、。


「さて、小笠原と細川は共同して立ち向かってくるかな?」


 そんなことはなく、俺はまずようやっと3000の兵を揃えた細川を攻め滅ぼし、その後小笠原を降伏させた。


 後は讃岐だが讃岐には大きな勢力はないので土豪・国人たちは次々に俺たちに降伏していった。


 こうして四国が陥落するとそのついでとばかりに淡路の長沼氏を降伏させた。


 これによって九州、四国、紀伊半島を制海権を得ている海路でつなぐことにより西国の南半分は俺達の勢力下に入った。


 この時点で建武新政の影響が強いのは京のある山城とその北の近江、協力関係に在る比叡山の影響が大きい北陸の若狭、加賀、越前、越中、越後などと建武政権を支持している千葉のいる下総、小山のいる下野、後は奥羽鎮守府の北畠顕家だが……。


 その北畠顕家が後醍醐天皇に対して顕家諫奏文と呼ばれる文章を送ったようだ。


 鎌倉幕府では、奥州惣奉行、六波羅、長門、鎮西の各探題及び幕府の5つの組織を作り、これらの地方機関を通じて政令を下達していた。


 奥州がわずかに皇化されたのは、新政開始後すぐに親王を奉じて陸奥に下向し、諸機構を整備した効果の表れである。しかし、西国には全くそのような人物の派遣は行われなかった。


 鎮守府を置いて民を治めるのは、隋・唐以来の便宜的な方法である。


 現在、国は戦のため乱れており、民心は簡単には穏やかになりにくい。


 早急に有能な人材を選出し、九州及び東北へ派遣すること。


 もし、遅れれば、必ず、臍をかむ思いの後悔をするであろう。


 併せて、山陽・北陸などに藩鎮を置いて、その周辺を統治させ、反乱に備えるべきである。


 諸国の租税を免除し、専ら倹約を行うこと。


 三年の間は、宮殿・寺社等の造営を止め、贅沢は一切止めること。


 このように、宮殿を質素にし、国民を豊かにして、仁徳天皇の仁政の遺風に追従し、礼節を重んじ、世の中を正しくして、醍醐天皇の政道に帰れば、何もしなくても国内は治まるであろう。


 官爵の登用及び恩賞を慎重にすること。


 高い功績があれば、順序を超えた昇進を行うのは、わが国及び中国での通例である。


 しかし、功績があったとしても才徳の無い者に対しては、所領を与えるべきであって、官爵を与えてはならない。


ましてや、徳行も勲功も無い者が、どうして順序を無視して高位高官につくのか。


 恩賞は公平にすべきこと。貴族や僧侶には国衙領・荘園を与え、武士には地頭職を与えるべきである。


 天皇が再び京都を回復して内裏に行幸された後は、臨時の遊幸、長夜の宴会は、一切止め、きつくこれを禁じること。漢書に、前車の覆るは後車の戒めとあるが、このままだと、天皇の治世が失敗することは目に見えているので、速やかに改善し、後世の師となるべきである。


 おそらく、万人がこれを希望しているであろう。


 法令は厳粛にされるべきである。


 近頃、朝出された法令が夕方には改められるというように、法がすぐに変更されて、あてにならない状態となっている。


 即座に、大まかな取り決めをした簡単な法を定め、法の変更を無いようにすれば、王権はゆるぐことなく、民心は自ずから従うだろう。


 政治に有害無益な者を除くべきである。現在、貴族、女官及び僧侶の中に、重要な政務を私利私欲によりむしばんでいる者が多く、政治の混乱を招いている。


 速やかに官位の昇降の法を明確にし、監察のための官庁を設置するべきである。


 陛下が諌めに従わなければ、陛下の御代において泰平は望めないだろう。


 もし、陛下が諌めに従えば、清粛の日は期して待つべきである。


 もし、先に述べた不正を改めず、泰平の世をなすことが困難であれば、山林に入り隠遁したいと思う。


「なるほどね、どうやらだいぶ不満がたまってるようですな」


 俺は北畠具行にいった。


「うむ、いちど私から声をかけてみようか」


 苦笑しながら北畠具行は言った。


「そうしてもらえるとありがたい、

 がまあ無理してこちらに引き入れる必要もないがな。

 貴族中心の世の中に戻すつもりは俺はないし、つべこべ言わずに戦いで指示に従えと言われても従うつもりはないからな」


 俺ははっきりそういった。


 後醍醐天皇の側近の上級貴族がお前のような下賤の輩はつべこべ言わず我々に従っていればいいと言っていたように大塔宮のコネでオレに無理な指図をするようなやつが出てきても困る。


「まあ、わかっている。

 では船と供のものを用意しよう。

 準備ができ次第出立する」


「ああ、分かった。

 まあ、養育していた人間から言われれば心もぐらつくだろう。

 建武政権で戦うことが正しいか疑問を持たせられれば御の字だ」


 北畠具行が苦笑した。


「私としては可愛い息子のような存在ですから、ぜひとも連れて帰りたいとは思っていますがね」


 そういって北畠具行ははるばる奥羽鎮守府まで向かっていった。


「さて、中国は日干しにしてから攻めるぞ。

 民から米を通情の倍でどんどん買い上げろ。

 そうすれば喜んで皆売るはずだ」


 四国と違って中国に派遣された尊氏の部下は多い。


 兵を増やして力で押しつぶしていくのもできなくはないが、その前にこちらが勝ちやすい状況を作っておこう。

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