建武2年(1334年)

第40話 二条河原の落書と北条残党の反乱・中先代の乱

 こうして後醍醐天皇による建武の新政はごく一部除くと不満をもたらすものでしかなかった。


 それでも帝は親政を断行しようとした。


 新貨幣として乾坤通宝の発行を計画するが実行できる官僚がおらず断念。


 綾羅錦繍・金銀珠玉の服飾を停止する禁制を出す。


 中央8省の長官を全員交替させる人事を断行する。


 などだな。


 鎌倉将軍府を発足させ成良親王に足利直義をつけて向かわせることも行った。


 本来なら足利一族を向かわせたくはなかったのだろうが、細川に鎌倉から叩き出された新田を送るわけにもいかず、その他に送り込むにふさわしいだけの実務能力の在る公家や武士も見当たらなかったのであろうな。


 後醍醐天皇が目指していたのは法王や上皇などの皇室のものにも摂政関白のような藤原家などの外戚にも当然のことながら幕府のような武士にも干渉されない完全な天皇独裁政治だった。


 であればこそ、征夷大将軍という実質的な武士に権力を与えるものを尊氏に与えるわけにはいかなかったのだが……。


 しかし、足利尊氏に建武の新政で実質的な権力を与えなかったことが尊氏へは批判を向けられず武家の棟梁として期待を集める事になったのは皮肉といえるだろうな。


 俺は大塔宮を通して赤松円心と連絡を取っていたし、九州の菊池武時、備後の桜山慈俊、伊予の土井通増・得能通綱、村上水軍の村上義弘などとも小まめに連絡を取っていた。


 彼らは初期に鎌倉幕府打倒に立ち上がったし長門探題や鎮西探題の滅亡に大きく関わったにも関わらず、ろくな恩賞をもらえていなかった。


 これは帝ではなく大塔宮にしたがったものに対しての阿野廉子等による嫌がらせだな。


 足利尊氏は功績状を持っていたにも関わらず後醍醐天皇の恩賞から漏れた御家人の恩賞を自らの受領で引き受け受領から洩れるものには刀剣など自らが所有する物品を与えることで庇護を与え封建的な関係性を御家人達と結んでいった。


 俺はそれ大塔宮に伝え大塔宮は吉野金峰山寺にて令旨を与えたものにふたたび書面を送り、集まったものに自腹と俺の送った金銭で多額の金銭報酬を支払い、土地を与えられぬことに対して申し訳なく思うと伝えることにより、畿内や中国、四国、尾張、三河などの俺の勢力圏だった場所の土豪や悪党からの支持を取り付けていた。


 こうして盟主としての信頼性を尊氏と大塔宮は構築していたが帝への不満と反感は高まるばかりだった。


 このような中で建武政権の政庁である二条富小路近くの二条河原に落書が掲げられた。


 落書とは政治や社会などを批判した文、書いたのは当然それなりに教養のある建武政権に不満を持つ京都の僧か貴族だろう。


 しかしただ単に建武政権批判をしたわけではなく、成長してきた武士や民衆の台頭や彼らが生み出した新たな文化や風習の連歌・田楽・茶寄合などに対しても強い批判を示していることから、実際には必ずしも民衆の不満を代弁したわけではなく懐古主義の貴族の嘆きと見たほうが良いかも知れん。


 内容は

 此頃都ニハヤル物 夜強盗謀綸旨 召人早馬虚騒動 生頸還俗自由出家 俄大名迷者

 安堵恩賞虚軍 本領ハナルル訴訟人 文書入タル細葛 追従讒人禅律僧 

 下剋上スル成出者 器用ノ堪否沙汰モナク モルル人ナキ決断所

 キツケヌ冠上ノキヌ 持モナラハヌ杓持テ 内裏マシワリ珍シヤ

 賢者カホナル伝奏ハ 我モ我モトミユレトモ 巧ナリケル詐ハ

 ヲロカナルニヤヲトルラム 為中美物ニアキミチテ マナ板烏帽子ユカメツツ

 気色メキタル京侍 タソカレ時ニ成ヌレハ ウカレテアリク色好 

 イクソハクソヤ数不知 内裏ヲカミト名付タル

 人ノ妻鞆ノウカレメハ ヨソノミル目モ心地アシ 尾羽ヲレユカムエセ小鷹

 手コトニ誰モスエタレト 鳥トル事ハ更ニナシ 鉛作ノオホ刀 

 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サカリニソ指ホラス

 ハサラ扇ノ五骨 ヒロコシヤセ馬薄小袖 日銭ノ質ノ古具足 関東武士ノカコ出仕

 下衆上臈ノキハモナク 大口ニキル美精好 鎧直垂猶不捨 弓モ引ヱヌ犬追物

 落馬矢数ニマサリタリ 誰ヲ師匠トナケレトモ 遍ハヤル小笠懸 事新キ風情也

 京鎌倉ヲコキマセテ 一座ソロハヌエセ連歌 在々所々ノ歌連歌 

 点者ニナラヌ人ソナキ 譜第非成ノ差別ナク 自由狼藉ノ世界也 犬田楽ハ関東ノ

 ホロフル物ト云ナカラ 田楽ハナヲハヤル也 茶香十炷ノ寄合モ 鎌倉釣ニ有鹿ト

 都ハイトト倍増ス 町コトニ立篝屋ハ 荒涼五間板三枚 幕引マワス役所鞆 

 其数シラス満々リ 諸人ノ敷地不定 半作ノ家是多シ 去年火災ノ空地共

 クソ福ニコソナリニケレ 適ノコル家々ハ 点定セラレテ置去ヌ

 非職ノ兵仗ハヤリツツ 路次ノ礼儀辻々ハナシ

 花山桃林サヒシクテ 牛馬華洛ニ遍満ス 四夷ヲシツメシ鎌倉ノ 右大将家ノ掟ヨリ

 只品有シ武士モミナ ナメンタラニソ今ハナル 朝ニ牛馬ヲ飼ナカラ 

 夕ニ賞アル功臣ハ 左右ニオヨハヌ事ソカシ サセル忠功ナケレトモ 

 過分ノ昇進スルモアリ 定テ損ソアルラント 仰テ信ヲトルハカリ

 天下一統メズラシヤ 御代ニ生テサマザマノ 事ヲミキクゾ不思議ナル

 京童ノ口ズサミ 十分ノ一ヲモラスナリ

 というもの。


 要するに

 治安が悪化して強盗が増えるわ、帝の偽の命令書が乱れ飛ぶわ、緊急招集が頻繁にでて馬が走り回るわ、生首ももはや見慣れたものになるわ、昨日の僧がもう俗人になったかとおもったらまた僧になるわで。

 急に羽振りがよくなる奴が居たかと思ったら落ちぶれ路頭に迷うもたくさん。

 戦功でっち上げるやつで田舎者がたくさんうろついて嫌になる。

 おべんちゃらの才能だけはある奴や、コネを持ってる奴が実務能力なんかは確かめられずに、お役人として着たこともない正装で、持ったこともない笏を手に、御所に並んでいるサマは、似合わない上に場違いだ。

 いっぽうで、頼朝の頃の名家の武家は、今では落ちぶれて仕事もない。


 と言った感じだな。


 最後の文はもちろん足利高氏の事を示してるのだろうな。


 このようななか、北条の残党が各地で次々に反乱を起こした。


 豊前国では規矩高政が、筑後国では糸田貞義がそれぞれに挙兵し、北九州は古来から平氏の地盤であったため、彼らに味方する武士も決して少なくなかった。


 こいつらは少弐や大友、菊池などが鎮圧した。


 さらに相模にて本間・渋谷一党が挙兵した。


 これは足利氏に連なる渋川義季が鎮圧に向かい、極楽寺付近でこれを破った。


 紀伊国飯盛山城では佐々目僧正が挙兵した。


 飯盛山城には俺が手勢を率いて反乱を鎮圧した。


 そんな状況でかっての有力貴族であった西園寺公宗が謀反のかどで捕縛された。


 西園寺氏は承久の乱で幕府方につき、関東申次として公武の仲立ちを引き受け、鎌倉幕府治世下にあっては強力な権力を持つ一族で帝の中宮、西園寺禧子はその一族だったが、幕府が滅びてからは凋落する一方だった。


 そしてその背後には、北条氏が加担しており、その首魁は北条泰家だった。


 分倍河原で新田義貞と戦って負け、幕府滅亡後は、奥州に落ち延びて潜伏していたが、都の混乱を聞きつけると京都に戻り、公宗とともに北条氏再興の密議をめぐらしていた。


 西園寺公宗は、後醍醐天皇を京都の北山へ紅葉見物に誘い、自邸に新しい湯殿を作り風呂に入ったときを見計らって殺害しようとした、その後泰家の力を借りて後伏見院を奉じて持明院統政権を再起するつもりだった。


 ところがしかし、弟の西園寺公重の密告により計画はばれて、当日に訪ねてきたのは天皇ではなく逮捕の兵だった。


 逮捕された公宗は出雲へ配流を命じられ、道中で名和長年に斬首されてしまう。


 これは平治の乱以降久しぶりの現役公卿の処刑だった。


 公宗と公重は兄弟だったが、お互い西園寺家の主導権争いを行なっており、公重が後醍醐天皇に接近するために公宗を陥れたのだろう。


 謀反の計画は、大規模で、北条泰家が畿内で、北条時行が甲斐信濃で、名越時兼が北陸で再起の旗を揚げ、京都と鎌倉の奪回をはかるというものであったが、京都にいた主だったものは捕縛され処刑となり、それを免れた者が信濃の時行のところへ行ってそれを伝え、諏訪頼重・三浦時継らは北条時行を擁立して軍勢を集め、信濃に幕府再興の狼煙をあげ、北陸でも、名越時兼がこれに呼応して兵を挙げた。


 中先代軍は信濃では守護の小笠原貞宗を撃破すると、親政に不満を持つ武士勢力が合流し、万の数に至った中先代軍は、女影原に達し渋川義季率いる五百を蹴散らし、一千騎を率いて駆けつけてきた小山秀朝を武蔵国府にで破って自害させ、新田岩松四郎を上野国蕪河に蹴散らし、今川範満を小手指原に討ち取った。


 鎌倉府を指揮していた足利直義は手をこまねいているわけにはいかなくなり、鎌倉を進発すると井出の沢で北条軍を迎え撃ったが撃破され、鎌倉の放棄を決断、直義は成良親王を奉じて軍を三河矢作川まで後退し親王を天皇に送り返すと、援軍を求めた。


 さてこの政権発足以来の大規模反乱に対しての建武政権は北陸の反乱軍とともに信濃軍も東海道から京を目指すのでは無いかと言うことを前提に防衛線を京側に引き鎌倉将軍府への指示は無きに等しかった。


 そして鎌倉が北条時行に奪い返されたと聞いて大混乱を起こした。


 ともかく誰かを鎌倉に派遣して北条残党軍を倒さないといけないわけだ。


 この時、今まで建武政権の権力中枢から外されその成り行きを見守っていた足利尊氏は後醍醐天皇に申し出て討伐の勅命と総追捕使と征夷大将軍の役職を要請したが、後醍醐天皇はこれを拒否した。


 後醍醐天皇は尊氏を征夷大将軍にして鎌倉に行かせたら、そのまま鎌倉に居座って幕府を開くと考え、再三尊氏が頼むが断り続け、成良親王を征夷大将軍として鎌倉に行かせることにした。


 鎌倉府から送り出されたものをもう一度出そうとしたわけだ。


 更に北畠顕家を鎮守府大将軍にし、従三位以上の官位の公卿が鎮守府将軍に叙任された場合のみ征夷大将軍と同等の任免権がえることが出来るということにした。


 ここで大塔宮の名前が挙がらなかったのは僧籍に入っていることと阿野廉子の讒言のせいだな。


 しかし、この決定に尊氏は「天下のためであります」という届出をして勝手に鎌倉へ向かってしまった。


 朝廷は尊氏が勝手に鎌倉に向かったことに慌てたし腹を立てたが、止める力も持っていなかったのでそのままにさせざるをえず、京都を発ったときには僅か五百騎だった軍勢は尊氏によって所領を譲り受けられたり刀を賜った武家などが合流し、直義と合流するころには三万に達していたという。


 さて、今まで負け続きだったが次期将軍の呼び名高い尊氏を主将に迎えた建武政権軍は、意気高揚し、両軍は遠江国橋本に矛を交えた、尊氏が率いる建武政権軍は圧倒的強さで中先代軍を打ち破ったが後がない中先代軍は佐夜中山、江尻、高橋、箱根、相模川・片瀬・腰越・十間坂でしぶとく抵抗を続け最後には鎌倉が戦場となった。


 鎌倉での敗戦が決定的となると、北条遺臣たちは北条時行を逃がした上で勝長寿院に自刃した。


 一方、北陸方面の大将・名越時兼は三万の兵をもって京都を目指したが、越前と加賀の国境・大聖寺の合戦に敗れ、その軍勢は四散し中先代の乱は終わった。


 こうして鎌倉幕府を再興しようとした北条氏を討った尊氏を朝廷では慌てて尊氏を征東大将軍に任命した、なぜそのような措置を行ったのかというと任命もしていないものがかってに軍をあげて幕府をとしたということになっては、尊氏はもはや朝廷の下ではないことになってしまうからで、天皇に無断で立ち去られたのではなく、朝廷から派遣したということにしておいて朝廷の面目を保つためだった。


 これがもし負けたのであれば、その敗北の責任を尊氏に擦り付けて失脚させることもできたわけだが、そのときは京都も落ちてたんじゃないかとか考えないのかね。


 この結果として朝廷には反乱を収める力も政治を行う能力もなく、兵を集めてかってに行動しても追認して面目を保つ程度のことしかできない事を武士が理解してしまったわけだ。


 尊氏は鎌倉を占領すると戦いに功績の有った足利方の御家人に恩賞として与え始めた。


 天皇の言うことを聞いていたらいつまでも恩賞が与えられないことはわかっていたからな。


 だが朝廷は恩賞は天皇の任命したものが与えるものではなくてはならなかった。


 朝廷は尊氏に使者を出し恩賞は朝廷にて行うべきもので尊氏が与えた褒賞は一度白紙に戻し、京に戻るように伝えた。


 これに対して尊氏は天皇に本当に逆らうつもりはなくかしこまりました、急いで帰りますと返事をしてしまったが、これを止めたのが弟の直義や高師直で今京に帰ったら謀反の罪で殺されると引き止めた。


 このあたり弟の直義や高師直の方が政治感覚を持っていた。


 こうして尊氏は直義に説得され、京都に戻ることをやめた。


 ここに来て自己の権力欲を満たすことしか考えていない後醍醐天皇と個人的には後醍醐天皇に心酔はしていても武家の棟梁である足利家当主であり建武政権に不満を持つ武家を従えた立場で個人的感情では身動きできなくなった足利尊氏が対立することになるわけだな。


 因みに俺は飯盛山城の反乱鎮圧以外では畿内の領民の慰撫を行いつつ、交易で銭を稼ぎ、壱岐では火薬の調合や鉄砲や大砲の製造を密かに進めていた。

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