元弘3年・正慶2年(1333年)

第39話 建武の新政開始

 さて、六波羅、長門、鎮西の探題が壊滅し鎌倉も陥落した。


 幕府の大軍が千早城を包囲して4ヶ月。


この千早城を囲んでいる阿曽時治・大仏高直・長崎四郎左衛門尉ら率いる幕府軍の残党は、六波羅陥落の報を聞いて城の囲みを解いて、大和へ逃走し興福寺などに立て篭り、最終的には後醍醐天皇による武装解除に応じ足利高氏へ降伏した。


 俺にではなく高氏に降伏するというのは、武家の最高家格である足利に降伏するならまだ恥ではないという思惑も在るだろうし、今まで敵対していた俺に下れば皆首を斬られるかもしれないという思いもあったかもしれない。


 実際には俺達の方も大軍に対しての長期防衛と後方撹乱の連続で疲労困憊だったから一息つけてまあ、ありがたかった。


 5万という鎌倉幕府の最精鋭部隊と戦うのは口でいうほど楽じゃ無いんだ。


 まあ、奴らからすれば罠だの城へこもって落石だの、食料を奪うだの卑怯だと言うだろうが、数の応力で押しつぶそうとするのに対して、できることをやっただけなのだがな。


 そして高野山から降りてきた護良親王と沙羅に合流した。


 そして沙羅が俺に言った。


「お疲れのところもうしわけありませんが、今のうちに仏法を破壊する玄旨帰命壇げんしきみょうだんの円観を討ち果たしましょう」


「ああ、其れも俺たちがやらなければならないことだしな。

 円観の配流先は調べてあるからすぐに向かうとしよう」


 俺は後の手配を弟の正季や神宮寺などに一度任せ、馬にて奥羽に向かった。


 円観の玄旨帰命壇とは摩多羅神またらじん、こと摩羅。


つまりマーラを本尊としているわけだが、日本古来のミシャクジ神などのように男根崇拝と言うのは古い宗教では珍しくなくインドの後期密教ではシャクティ(性力)信仰の影響で、裸体で髑髏どくろなどを持つ女神荼枳尼が崇拝され真言密教立川流と対になる形で天台宗内部で勢力を広げている。


 そして奥羽から京へ向かい上ってきた円観を東山道の山の中で補足した。


「円観よ怪しげな呪術にて帝をたぶらかし、世を混乱に満ちびこうというそなたの野望この大塔宮がこの場にて打ち砕く!」


 大塔宮が円観に言った。


「ふふふ、大塔宮ごときが私を倒すですと?

 わざわざ殺されに来るとはまことにご苦労様でございます。

 今のうちにあなたを始末すれば、後顧の憂いが潰えるというもの。

 さあ、皆さん、やってしまいなさい」


 どうやら周りの武士たちは洗脳されているようだ。


 俺は童子切を抜いて、護良親王をかばう……そして沙羅が言う。


「今回も雑兵の相手は私におまかせください」


 沙羅は頷くと小さくマントラを唱えた。


「オン・ソラソバテイ・エイ・ソワカ」


 彼女の背後に弁財天の姿が現れ、一方的に武士は沙羅の弁財天により打ち倒された。


「ふむ、ならば、私も本気を出さねばいけませんね」


 円観がマントラを唱えると”ご立派様”なマーラが現れ、沙羅へ向かって体当たり攻撃を仕掛けた。


「沙羅、やばいぞ?!」


 しかし沙羅の弁財天はマーラをガシッとつかむとその亀頭をネヂ切ってしまった。


「ギャアアーーーッ」


「ギャアアーーーッ」


「ギャアアーーーッ」


 円観が股間を押さえて口から泡を吹くとぶっ倒れ、俺と大塔宮も思わず股間を押さえて叫んでしまった。


「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

 たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」


 沙羅は琵琶のバチで円観を木に吊し上げその吊るしている弦を爪弾きながら、平家物語の一説を歌っている。


 バチが弦を爪弾くたびに口から泡を吹きビクンビクンと痙攣していた円観だったが、やがて動かなくなった。


「悪僧円観、成敗いたしました」


 俺と大塔宮は目を合わせて小さく言い合った。


「沙羅とだけは戦いたくないな」


「ああ、全くだ」


 ともかく円観と其れに付き従っていた武士はすべて打ち倒した。


 これで真言と天台にはびこっていた邪教の中心となったものは倒れたと考えていいだろう。


 俺達は京へ向かって戻ったが、沙羅は高野へ報告すると途中で別れて先に高野へ戻った


 女人の一人旅は危険だが、彼女に襲いかかったほうが危険な目に合うだろうことは予想できたからあえて何も言わなかった。


 そして俺は京へ戻りつつ大塔宮と話した


「大塔宮、あなたにとっては不本意かもしれないが。帝より僧籍に戻り南都を治めよと言われたら一旦は従ってほしい」


「ふむ、なぜだ?」


「帝やその側近の目を欺き、あなたの勢力基盤として、南都及び大和周辺を善政を持って収めていただきたいのですよ」


「帝の目を欺くとな?」


「あなたが足利高氏なり阿野廉子の子供の親王なりと争うつもりはないと見せかけて彼らと距離を今は置くべきです。

 いずれ彼らは自滅します」


「なぜそのようなことがわかるのだ?」


「四天王寺に封じられた聖徳太子の預言書未来記を閲覧しましてね」


「なんとそのようなものが有ったとは……」


 いやまあ、嘘だけどな。


 俺がこの先を知っているのは大塔宮や沙羅と違いこの先からやってきたからだ。


 さて足利高氏の挙兵により六波羅探題が陥落したことを聞いた後醍醐天皇は赤松や名和や千種らを従えて陣取っていた船上山から京へと帰還を果たした。


 そしてまず自分の復権のために後醍醐天皇は光厳天皇の即位と正慶の元号を廃止、自らの重祚<天皇への復位>を否定して文保2年から継続しての在位を主張、光厳が署名した詔書や光厳が与えた官位の無効を宣言、さらに関白の鷹司冬教を解任、光厳天皇の即位をなかったことにし、天皇の座に返り咲いた。


 これは鎌倉に謀反を起こしてやめさせられたが、その鎌倉幕府が勝手に立てた天皇は無効ということにしたかったからだな。


 復位と言う形を取ると両統迭立を廃止する為に鎌倉幕府を滅亡させた後醍醐天皇自身が両統迭立を暗に認めたことになったしまい、それでは鎌倉幕府を滅ぼした意義が無くなってしまうわけだ。


 だから、当然鎌倉幕府によって推し進められた、両統迭立なんか認めるはずもなく、光厳天皇の皇太子であった大覚寺統で邦良親王の子供の康仁親王を排斥して自分の子供をであり阿野廉子の子供である成良親王を皇太子に付けた。


 そして光厳天皇は扱いとしては上皇とし、持明院統や大覚寺統の自分以外の皇族の荘園領土などを安堵した。


 当然既に滅ぼされている鎌倉幕府に擁立された光厳天皇の意志が介在できる余地はなく、どのような条件だとしても飲まざるを得なかった。


もし争って最悪自決することになったら六波羅探題の者がどうなったかを考えればできなかっただろう。


 光厳天皇はかなりまともな人だったがそれ故に地獄を見ることになったのはなんとも皮肉なことだ。


 とは言え後白河と崇徳の争いをみても配流になったりする例のほうが、多かったから、後醍醐天皇の光厳上皇に対する措置はかなり甘かった。


 しかし、一度、隠岐に配流され生のイカにまみれてようやく島を脱出した後醍醐天皇にとって流罪というのは相当ひどいものと認識されたのだろう。


 帝が影響を受けた宋学により目指した政治体制は秦の始皇帝などのように天皇に実権を集中させた絶対王政の中央集権。


まあ要するに秦、漢、唐などの中国の成功したと言われる帝国の政体だった。


 基本的にトップはシンボル的なもので合議制での政治を長年行ってきた日本ではなじまないし、平安末期の院政や鎌倉時代末期の得宗北条の独裁によって世が乱れたことを考えればうまくいくとは思えないわけだが……。


 そして帝は年号を自らが憧れた漢の光武帝にあやかって年号を「建武」とした。


 これは、古代中国の漢の劉秀こと光武帝が、王莽おうもうによって乗っ取られて滅亡した漢王朝を復興させたときに使われた年号だ。


 だが、ここで公家や寺社より早速苦情が入った。


 せっかく武家を倒したのに”建武”とするのは縁起が悪いのではないかと。


 しかし、権力の絶頂に有った帝はこれを無視してこの年号を強行した。


 ”朕の新儀は、未来の先例なり”


 と、宣言したわけだ。


 これがみずからの武によって勝ち取ったものだったら良かったんだろうけどな。 


 さて、後醍醐天皇が京に入る前、後醍醐天皇もおらず六波羅探題は消滅し、幕府側の光厳天皇らは北条と共に逃亡・捕縛されており事実上の統治するものが居ない状態の京だったが、その状態に対処するために足利尊氏は臨時行政機関を設置して、足利高氏名義で功績状を発行していた。


 これは要するに六波羅攻撃に参加したものが自分の活躍や手柄を公に認めてもらうための書類で高氏に従って戦った武士にとっては自らの命と名誉に等しいものだった。


 とはいっても足利尊氏は帝に正式に権限を受けて行ったわけではないから書状も公式なものではなかった。


 とはいえこの時点で武家の最有力者たる足利高氏が発行している代物であるためにそれなりの効力は有った。


 そしてその後、後醍醐天皇が一番最初に行った政務はやはり恩賞を与えることで、誰もがこの恩賞を望んで鎌倉幕府に逆らって決起しを滅ぼした訳だ。


 この恩賞沙汰で最も足を引っ張ったのが元弘の変の勝利の為に利得で武士を釣るために用いた天皇の綸旨と護良親王の令旨、京都での足利高氏や関東の新田や細川の功績状だった。


 帝と親王の綸旨と令旨は無節操にばらまかれており、中には綸旨と令旨の2通を所持する武士もいた。


 そして綸旨と令旨に必ずと認められていた共通の文言があったわけだ。


 ”私に味方して功績を上げたものにはどのような恩賞も与える”


 とな。


 とは言え大した功績を上げていないものよりも功績を上げたものの恩賞が少なくては、不満が出るとそれそれの武士の功績を調べる訴訟機関として雑訴決断所が設置され、全ての恩賞の確認は綸旨によるものとしたため、混乱した。


 公家ではまず帝の側近の二条道平を最高位の従一位左大臣、吉田定房が正二位内大臣、万里小路宣房は正二位大納言、坊門清忠ぼうもんきよただは従二位信濃権守・大蔵卿、雑訴決断所の二番衆、北畠顕家は従三位陸奥守などになった。


 武家では論功第一位は足利高氏で功第一級とされ、従四位下鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守の官位と武蔵・上総の両守護職、29ヶ所の地頭職にくわえ、後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を受け賜り高氏は「尊氏」となった。


 尊氏の弟である直義も左馬頭に任官され、14ヶ所の地頭職を得た。


 武士としても破格なものだといえるな。


 当人はこれに至極喜んでいたようだが麾下の武士は不満だった。


 其れは武家の棟梁として征夷大将軍に任命されなかったからだな。


 武士達は北条氏の鎌倉幕府が滅ぶことで後醍醐天皇が新しい征夷大将軍に足利尊氏を任命し、高氏が公正な政治をすることを期待したわけで、後醍醐天皇による公家に権力が戻ることを望んでなかった。


 要は今までと変わらない体制だが腐敗した北条の中央権力が取り除かれて、自分たちの生活環境が豊かになることを望んだわけだ。


 鎌倉攻略の総大将の新田義貞は従四位上の越後守、上野・播磨の介、近衛中将、武者所頭人とされた。


 高氏いやもう尊氏か……に比べれば劣るとされるが、今まで無位無官の新田がもらうには十分な恩賞で新田義貞本人も満足していたようだ。


 さて、俺だが京への帰参の遅れを咎められ、河内守護を任じられ、河内の復興を早急に行うように言われただけだ。


 ついでに以前幕府からもらっていた海賊討伐の許可状と関の無料の通行許可証はもらったが、これは大塔宮の推薦があればこそだったし、朝廷としても懐が痛むわけでないので、問題ないと考えたようだな。


 伊賀兼光は若狭守護と国司を兼任し、更に図書頭兼土佐守、大蔵少輔、雑訴決断所の五畿内担当、窪所、記録所、恩賞方を兼任とされた。


 結城親光は従五位上左衛門佐・大夫判官・恩賞方の一番局に任用され、


 名和長年は従四位下伯耆守として帆掛け船の家紋を与えられ京都の左京の市司である東市正を与えられた。


 千種忠顕は従三位参議や雑訴決断所寄人となり、佐渡国など3ヶ国の国司職と北条氏の旧領10ヶ所を拝領した。


 赤松円心は恩賞に播磨守護職を任じられたが播磨介に新田義貞が任じられたおかげで、実質的には討幕に参加したメリットは皆無だった。


 大塔宮は吉野の金峰山寺に入った。


 金峰山寺は大塔宮に協力したことで寺領を増やしていたが、大塔宮は比叡山で行ったような綱紀粛正と僧兵の心身鍛錬を積極的に行い、飢えたものには施しを与え、病にかかったものはその治療に務めることで金峰山寺の名声を高めた。


 俺も同じように主に河内で以前のように開墾に努め、田植えや収穫の時には祭りをおこない領民に米を振るまうなどを行った。


 そして千種忠顕や名和長年らは、連日のどんちゃん騒ぎで酒池肉林の生活をおくり、着飾って京を練り歩いていたらしい。


 さて、その後だが残った北条の旧領は天皇・帝の皇族・承久の乱で上皇型についた公家・僧等が分け取ってしまった。


 中でも北条一族の大仏家領は後醍醐天皇の寵妃阿野廉子に与えられた。


 これについて北畠親房は


「鎌倉幕府が滅び王政復古が成功したのは帝の天運と神の意思によるもので何も武士共の力ではない。

 率直に言えば彼らは代々朝敵である。

 家を亡ぼさずに済んだ事に感謝して忠功を励まねばならんのに不平を云うとは怪しからぬ。

 もし恩賞を望むのであれば、これからも朝廷に仕えるべきであり、神の意思によって成り得た天皇の政治を武士らの功と思うなどずうずうしいにも程がある!」


 と武士を目下に見ていたんだがな……。


 北畠親房は足利高氏などの武家の者達に身分を越えた位階を与え、公家の権威を下げることを批判した。


 承久の乱でなんで負けたのか全くわかってなかったわけだな。


 しかし、北畠親房は今こそ武士による支配という積年の弊を一掃する好機だったのに、それどころか、足利などに本所の領地でさえを勲功のあった者に与え、由緒ある公家の名家がほとんど名ぱかりになってしまい、勲功を鼻にかけた者たちが京都でいばっていると嘆いている。


 こんな中で、足利尊氏は陸奥の鎮守府将軍に任命されたが親房の子の北畠顕家が陸奥守鎮守大将軍に任命され、後醍醐天皇の皇子である義良親王を陸奥太守として推戴して陸奥国国府の多賀城へ出立した。


 北畠親房は尊氏が陸奥で力をつける事を阻止しようとしたわけだ。


 こうして聞くと北畠親房ってのは馬鹿なのか頭がいいのか正直わからん……。


 まあこうして自分の先祖の行いは棚に上げ、治承・寿永の乱と承久の乱で朝廷に反逆し土地を奪ったと武士から全て領地を取り戻すべきという公家からも、頑張れば恩賞を与えると言ったのにろくに恩賞も与えられず政治権力を奪われた武士はどちらも不満を持ったわけだ。


 さて、そんな皇族や公家たちでも後醍醐天皇に直接係る者達は厚遇されたが、そうでないものは官職をは奪われ不遇をかこつことになった。


 上級貴族にとっては後醍醐天皇が彼らが持っていた既存の既得権益を破壊して、悪党や下級貴族などを優遇し新しい親衛隊的階級を作ろうとしているのにはいい気分でなかった。


 このせいで一番最初に戦死するのが後醍醐天皇に優遇された悪党や下級貴族たちだったわけだ。


 さて、後醍醐天皇は親政開始後、比較的早い段階で大内裏の再建を命じてさらに、全国の荘園領主にお金を出させ、武士達に収入の20分の1を納めるよう命令。


 庶民にも減税を通知した後、増税を行い、貴族への徳政令を行った。


 さらに御家人の名を廃止したり、国司の権限を強化したりした。


 これにより今まで帝を支持していた商人、武士、地頭は帝を見限った。


 そもそも独裁制には強力な官僚組織が必要なのだが、日野資朝などの実務を行える下級貴族は帝が見捨てて刑死させているし、ノウハウを持った足利尊氏を全面的に使えば組織を乗っ取られる。


 というわけで後醍醐天皇は公家でも武家でもない人材の積極的な登用に走ったが数は揃わなかった。


 結局土地問題の訴訟をさばく責任者は、阿野廉子や貴族、僧侶たちだったが、そいつらは平気で賄賂をとって訴訟を恣意的に判断し所有権を詐欺師に売り渡す例も続発した。


 鎌倉幕府の長崎円喜と変わらんわけだ。


 で、大内裏の再建など馬鹿らしくて武士の不満はどんどん高まっていた。


 その様子を見て諫言を行ったのは万里小路藤房だった。


 彼は


 為政者は愁訴を聞き、諫言を奉るべきであるのに、それを怠っている。


 恩賞目当てに官軍に属した武士が未だ恩賞に与っていない。


 今はそのような場合ではないのに大内裏造営のために、諸国の地頭に二十分の一税を課した。


 諸国で守護の権威が失墜し、国司・在庁官人らが勢力を振るっていること。


 源頼朝以来の伝統がある御家人の称号を廃止したこと。


 倒幕に軍功があった諸将のうち、赤松円心のみ不当に恩賞が少ないこと。


 などを諌めたが入れられず彼は北畠具行、大塔宮に近く比較的公正な判断をこなったゆえに煙たがれた四条隆資とともに出奔し、俺のもとへ来た。


 建武の新政の崩壊は間近だった。

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