第38話 鎌倉幕府の滅亡
さて、足利高氏を総指揮官とした軍が六波羅探題を討ち滅した時、関東でも鎌倉幕府を倒さんと兵を挙げたものが居た。
新田義貞が生品神社で新田氏族を集めて兵を挙げたのだ。
新田義貞が鎌倉に対しての倒幕の兵をおこしたのは千早城攻防戦での負担に耐えきれずに帰国した新田義貞に対して鎌倉幕府が多額の矢銭を吹っかけたことにから始まる。
これは京都方面へ軍を差し向けるために必要であり、新田庄世良田が長楽寺の門前町として賑わっており、富裕な商人が多かったためとされる。
そして5日以内に6万貫……だいたい現代の大雑把に一貫2万だとして金銭だと12億円くらいか?を、5日以内に納めさせようとし、取り立て役として、出雲介親連と黒沼彦四郎入道の2人を送った。
実際は六千貫と言う話もあるが事実はよくわからない。
どちらにせよ両者は過酷な税の徴収を行った為に義貞の館の門前には泣訴してくるものもあり、特に黒沼彦四郎は得宗の権威を傘に着て、居丈高な姿勢をとることが多かったらしい。
そのため遂に義貞は憤激し、親連を幽閉し、彦四郎を斬り殺し、彦四郎の首は世良田の宿に晒された。
親連は新田義貞の執事船田義昌の縁者であったため助命されたようだ。
そしてここですぐに挙兵するかというと、義貞はここで一度様子見をしている。
金もなく京へ兵を送るので手がいっぱいな幕府がわざわざこんな片田舎に兵を送るはずがないと思っていたようだが、得宗の北条高時は義貞に近い江田行義の所領であった新田荘平塚郷を長楽寺に寄進する文書を発給し新田義貞討伐の軍が早々に編制され出陣にいたった。
落ちぶれたとは言え源氏の名門新田氏が表立って鎌倉幕府に反抗することは北条にとっては無視できなかったわけだ。
新田にも間もなく幕府が新田討伐へ軍勢を差し向けるという情報が入り、義貞は一門、郎党を集め評定を行い、最初は防戦を方針とした消極的な戦略が練られていたが、義貞の弟の脇屋義助が一同を奮励し、積極的な戦略へと方針を転換し、義貞はついに挙兵した。
この時点で集まったのはわずか150騎と伝えられるが、これが騎馬武者のみを考慮した数でならば10倍の1500名と言ったところだろう。
その日のうちに、義貞はまず長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所に攻め入ってこれを壊滅させ、そこに利根川を越えて越後国や信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族2000が合流し、さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、鎌倉を脱出してきた足利高氏の嫡男・千寿王(後の足利義詮)と久米川で付近で合流した。
千寿王の手勢は僅かに200であったが、足利高氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、各地から兵士が集まり軍勢は1万に膨れ上がった。
この時すでに丹波篠村で反乱を起こした足利高氏はすぐにも全国に御教書を送って全国の武士に旗揚げを促しており新田義貞はそれに従って旗揚げしたと思われたのが新田義貞の不幸なところだ。
当初の兵数は幕府軍の方が勝っていたが、同様に幕府へ不満を募らせていた河越氏ら武蔵の御家人の援護を得て新田軍は次第に有利となっていった。
しかし、北条泰家を大将とする新手の軍勢が加わり、本陣が崩れかかる程の危機に瀕した。
しかし、その日の晩に三浦氏一族の大多和義勝が河村・土肥・渋谷、本間ら相模国の氏族を統率した軍勢6000騎で義貞に加勢した。
義勝の協力を得た義貞は、更に幕府を油断させる為、忍びの者を使って大多和義勝が幕府軍に加勢に来るという流言蜚語を飛ばし、義勝を先鋒として義貞は分倍河原に押し寄せ、虚報を鵜呑みにして緊張が緩んだ幕府軍に奇襲を仕掛け大勝し、北条泰家以下は敗走した。
この分倍河原の戦いは高時の同母弟である北条泰家が率いており、得宗の弟が鎌倉の主力軍を率いて戦っていたことは、鎌倉幕府はもう後がないことをわかっており、鎌倉幕府はこの分倍河原で新田義貞率いる足利軍を打ち破って状況を引っくり返さねばならなかったのだが、破れたことでほぼ鎌倉幕府の運命は決した。
足利高氏や後醍醐天皇の予定よりも新田義貞は速く、挙兵してからは予想以上の戦果を上げ、かなり早い段階から後醍醐天皇と通じていた結城宗広が行動を起こす前にほぼ勝敗は決してしまっていた。
多摩川を渡った義貞の軍勢は、幕府の関所である霞ノ関にて幕府軍の北条泰家と戦い新田軍が大勝利を収め一気に鎌倉まで攻め上がった。
圧倒的な大軍で攻撃してくる新田義貞率いる討幕軍に対して、もはや北条・長崎・安達などの一族のみとなった鎌倉方は鎌倉に通じる小径を防衛することに切り替え、金沢貞将を化粧坂に、大仏貞直を極楽寺坂切通しに、北条守時を巨福呂坂切通しにそれぞれを配置した。
義貞は、部隊を三隊に分割し攻撃したが、天険に守られた鎌倉の守備は盤石で、部隊を三つに分けての攻撃は、いずれも失敗し、一つの部隊も突破することができなかった。
極楽寺坂切通しを攻撃していた大舘宗氏は波打ち際を突破して鎌倉への進路を打開しようとし、少数で切りこんで突破は成功はしたものの、大仏貞直の迎撃によって討死した。
宗氏の戦死によって極楽寺坂方面での指揮系統が失われ義貞は化粧坂攻撃の指揮を弟・脇屋義助に委任し、本陣を極楽寺坂西北の聖服寺の谷に移し、指揮を取った
義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付けた。
幕府側の防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていた。
さらに大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に成功したことで、再度の侵入を防ぐためにさらにその防備は厳重となっていたが、義貞率いる軍勢は稲村ヶ崎の突破に成功した。
鎌倉時代は多くの地震が起こっており、この時たまたま突発的に地殻変動による地面の隆起が、起こったらしい。
鎌倉幕府はもはや自然現象にすら見放されたわけだ。
稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜においての最後の激戦で、長崎高重、大仏貞直、金沢貞将らの軍を撃ち破り北条高時や内執権である長崎高資、その他の北条一門や幕府の重役は東勝寺や戦場にて自害、その数は九百名にも及び、ここに鎌倉幕府は滅亡した。
これは新田義貞の挙兵から実に半月という迅速さだった。
さて、鎌倉陥落時の総大将という栄光の勝利を得た新田義貞だったが鎌倉を占拠しても、それを統御する機構を作ることが出来なかった。
本来ならば六波羅を落とした足利高氏のように鎌倉の治安を保ち協力した武士に恩賞を与える作業をやらねばならないが、新田直属の部下を含め新田庄での統治の経験しかなく、実際に自らの部隊の食糧さえ調達に事欠く有様で、悲しいことに零細御家人でしかなかった新田義貞はあくまでも足利高氏の代理の総大将であり足利氏一軍の将としてしか認められなかった。
多くの豪族達は新田義貞ではなく、千寿王のもとに勝利の祝いを述べに行ったらしい。
そして、しばらくすると鎌倉陥落の知らせが京に届く前に足利高氏の代官として細川和氏が鎌倉に送り込まれ、細川和氏は元々義詮の代わりに鎌倉攻めを指揮するために送り込まれたのだが、既に鎌倉が陥落していることを知るとそのまま義詮を補佐して足利と関係の深い役人を集めて奉行として居座った。
足利は北条と関係が深かったので離散した足利と関係のある鎌倉の役人を集め事務を行うことは手馴れていたし、鎌倉幕府内でも名のしれた足利方の細川を信用するのは当然のことではあるんだがな。
その為鎌倉の差配権をめぐって義貞は細川と一触即発状態になったが、悲しいかな知名度と政治力の圧倒的な差で不利な状況に陥り、少しも悪く無いのにもかかわらず弁明書を書かされ、戦勝報告を兼ね鎌倉での惨状を後醍醐天皇に訴えるため上京せざるを得なかった。
要するに鎌倉から追い出されたのだ。
こうしていよいよ後醍醐天皇が待ち望んだ天皇親政、いわゆる「建武の親政」を迎えることとなる。
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