元弘2年、元徳4年、正慶元年(1332年)
第37話 後醍醐天皇の隠岐脱出と各探題の滅亡
さて、年は移ったが、相変わらず俺は千早城にこもって、時には幕府軍の後方に回って戦い続け、鎌倉直属軍の主力の大軍を河内・大和の山中にくぎ付けにすることに成功していた。
陣中での疫病の流行や度重なる関東よりの長距離の出兵と俺の兵糧輸送部隊への攻撃などもあり、新田義貞などのように仮病、もしくは本当に病により戦線離脱する者も出てきていた。
さらに中国の山陽や四国の瀬戸内海側にては大内氏や厚東氏が鎌倉幕府を裏切って長門探題北条時直を攻撃し、もともと長門探題と戦っていた備後の桜山慈俊、伊予の土井通増・得能通綱、村上水軍の村上義弘らとともに長門探題を陥落させ、彼らはそのまま九州の鎮西探題に攻撃を仕掛けた。
九州方面では菊池武時が阿蘇大宮司の阿蘇是直、大友氏、少弐氏らと共に鎮西探題北条英時を攻めた。
本来であれば大友氏、少弐氏が菊池を裏切って菊池軍は壊滅するのだが、村上水軍を含めた四国中国の軍も鎮西探題を攻撃している状況では北条に味方して菊池を裏切る必要性を感じなかったのだろう。
彼らも九州探題には反発していたのだから。
さらに播磨・摂津では赤松円心が挙兵し、幕府側の駐留軍や六波羅の遠征部隊を撃破し、京を伺う様子を見せた。
一昨年の後醍醐天皇の行き当たりばったり挙兵とは違って、連携した大規模な叛乱により西国は反幕府軍が優勢な状況だった。
さて、そんな状況の中、隠岐で倒幕の祈祷をひたすら行っていた後醍醐天皇だが、監視役である佐々木義綱が脱走の手引きを買って出ることで、壱岐からの脱出を図った。
佐々木義綱は出雲国の守護であり、同族である佐々木高貞のもとに説得に行くのだが、その後佐々木義綱との連絡が取れなくなった。
とは言え監視役が居なくなったのをこれ幸いと自力での隠岐脱出を後醍醐天皇は図った。
阿野廉子が懐妊しの御産の穢れのためにと嘘をついて、監視下の屋敷を脱出して、隠岐のイカ釣り漁師の船で隠岐島を出港した。
だが当然天皇の脱走は直ぐにばれ、追手がかかり後醍醐天皇の乗ったその船も調べられた。
この時、後醍醐天皇は漁師が釣り上げたイカの下に体を隠した。
もちろん完全に隠してしまっては息ができないから、顔は出していたわけだが調べた人間も烏賊に埋もれて顔だけだしている人間を天皇だと思いたくなかったのだろう。
結局、誰もいないと調べたものが報告し、イカ釣り漁船の船頭の怪しげな船が出雲に向かうのを見たと言う証言にしたがって、その船を離れたことで天皇は幕府の追手をやり過ごした。
流罪に有って島を脱出するために釣ったばかりの生の烏賊の下に隠れるなどということを行った天皇は後醍醐天皇以外に居ないと思う。
彼がなぜそこまでして権力に執着するのか謎だがな……。
こうして隠岐脱出に成功した後醍醐天皇は漁師に命じて千種忠顕、阿野廉子などを島より呼び寄せた。
しかし、佐々木義綱との連絡が取れないため、地元の有力者の悪党であり、海運を行っている名和長年を頼り、彼は喜んで後醍醐天皇の一行を保護した。
これに対して佐々木清高は3000の兵を動員して、後醍醐天皇の捕縛と追従勢力の撃破に向かい、これを迎え撃つ名和軍は150が船上山で待ち受けた。
立て篭もった150の名和軍は逆茂木で守りを固めて、多数の旗に近国の武士の紋を描いて、大軍がいるように見せかけた。
幕府軍は船上山を囲んだが、旗を見て敵を思いもよらぬ大軍だと思い攻撃を躊躇していた。
そんなところに幕府軍の指揮官の一人である佐々木昌綱は流れ矢で戦死し、昌綱の部下500は怖気づいて離散してしまった。
さらに其れを見た佐々木定宗は800を率いて降伏してしまった。
そんなてんでバラバラな状況で攻撃をしていた幕府軍だが日暮れに激しい雨が振ってきたため、木陰に身を避けた。
だが、これを好機と名和長年は総攻撃をかけて幕府軍を攻撃し谷底に叩き落として幕府軍を退け、さらに名和軍はその余勢をかって幕府に通ずる周辺のものを討った。
この名和軍の勝利を皮切りに遅まきながら山陰地方の御家人も討幕派に加わることになる。
さて、これで中国の反鎌倉勢力が揃って東に進むのだが、幕府の大軍に囲まれている俺は当然今も動けない。
赤松円心は京へ向けて進撃したが、平野での戦いではやはり武士が強く京へ迫る赤松軍を六波羅は撃破。
そこへ後醍醐天皇のもとに集まった山陰の御家人や悪党などを集めた千種忠顕が同じく京を目指すが、赤松軍に連絡も入れずに勝手に突撃し六波羅にに敗退し兵は四散する。
さらに後醍醐天皇に騙されたことを理由に一度討幕戦線を離脱していた比叡山の僧兵たちも六波羅探題を攻撃する、もちろんこれも赤松軍と連絡なしで、大方結果は見えてると思うがやはり平野で武士と戦って勝てるわけもなく敗北。
こうして後の南朝でも見られた、誰に指揮権が在るかわからず、お互いに連絡も取らず、勝手に戦って各個に撃破されるという状況が見られたわけだ。
皆自分に功績を集めたいと言うのと、赤松円心の身分が千種忠顕や比叡山の坊主より下と見られたのが原因だな。
こうして倒幕軍側は京への攻撃を行うも敗退し続けたが、幕府にとっては状況はどんどん悪化していった、何しろ西国の殆どは幕府に反旗を翻したわけだからな。
そして幕府は既に自力で捻出できる東国の主力部隊を西国に出していた。
蝦夷大乱が起こった事も考えてこれ以上鎌倉の守りが薄くなることは危険であることも承知していたが、それ故に東国でも反乱が起きないうちに西国の反乱軍を叩き潰してしまう必要があった。
ここで幕府側は最終戦力を京に送ることに決定した。
それは足利高氏と名越高家だ。
しかし、足利高氏は出陣の3ヶ月前に父がなくなっており、服喪のため出陣を拒んだが北条高時は拒むことは許されないとして無理やり出陣させた。
しかし、これが結果として六波羅を滅亡させることになる。
足利高氏の先祖は足利義康は源義家の四子の義国の三男であり、源頼朝の源氏宗家が三代で滅んだ後は武家の中でも最も家格の高い家だ。
本来であれば新田義貞の方が本当は嫡流と言われてもおかしくない血筋で新田義重は源義国の長男だったが、新田義重は治承・寿永の乱の時に源頼朝の旗揚げに協力せず日和見を決め込んだために頼朝から疎んじられ。後に帰参したものの鎌倉幕府内ではなんの力もなくこの時代の新田家は宗家の新田義貞が無位無官と完全に凋落していた。
一方の足利義康は源頼朝の呼び掛けに早々に応じて旗揚げに力を貸し頼朝の信頼を得た。
そのため、権力が北条家に移って以降も武士の名門として丁重に扱われ、しかも鎌倉幕府最後の執権である赤橋守時から登子を正室に迎えており、官位も従五位下 治部大輔だった。
であれば北条宗家との関係は良好と見られていたのだが、そもそもの家格が上の足利が下の北条に仕えるということは高氏本人はともかくその周りのものなどには気に食わなかったらしい。
また霜月騒動のような幕府内の内紛に巻き込まれ足利家の当主が自害することなどもあったりと、表面上はともかく内面では面白くない感情を持っていたらしいが、どっちかというと弟や執事である高師直にせっつかれたというのが実情ではないかという気もする。
足利高氏は同じ幕府の創設者であるが、高い官位をもらった直後に平治の乱に参加したために敗北して伊豆に流され、延々と監視下で育っていつ殺されらるかもわからない生活だった頼朝や子供の頃は今川義元の人質、桶狭間で義元が討たれた後に独立しても周辺国が強敵で、織田や豊臣に使い潰されそうになった家康と違って割と安穏と過ごしてきた良家の御曹司だから良く言えば温厚で物分りがよく寛大で金に執着せず配下の者にやさしい人物、しかしそれゆえに上昇志向皆無であきらめが速く、度々引きこもっては出家しますなどといって弟や家臣を困らせた人物だ。
野心家とは正反対で政敵を滅ぼせない性格が権威の低下に拍車をかけ南北朝、室町、戦国と続く混乱の時代を作ることになったと俺は思っている。
足利尊氏を無理やり西国へ出兵させるにあたり幕府側は高氏が裏切らないよう北条高時が接待しつつ「源氏の白旗」という頼朝が使用したとされるものを直々に与えたりしつつ、妻子はきっちり人質にとり十分な対処をした上で高氏を送り出したが、正妻とその息子は正妻の兄である執権から脱出の手引きを受けて逃げ出した。
まあもう一人の息子は逃げ遅れて処刑されたが。
このような状況で足利高氏7600人に名越高家5000人の総勢12600の大軍が京に入った。
其れにより六波羅探題は胸を撫で下ろした。
大軍を率いてきた足利高氏が動けば諸国の源氏も味方すると思っていたわけだ。
しかし、その時高氏は後醍醐天皇から討幕の宣旨を佐々木道誉を介して受けていたので迷っていた。
結局高氏は宮方にも幕府方にも組みせず兵を率いるとのんびりと進軍、桂川の西岸で陣を敷いて酒宴を催して様子見をしていた。
名越高家が討幕軍を蹴散らせばそのまま幕府につき、名越高家が敗れるようなことがあれば宮方につく、そんな感じであったようだ。
もう一方の大将である名越高家は高氏が早速出陣したことを聴くと、遅れてはならんと自ら兵を率いて千種忠顕、赤松円心の軍に襲いかかった。
流石に日頃から訓練し武装も統一された名越高家の武士の攻撃に、散々に打ち崩され軍が瓦解しそうになった時、強弓の使い手である佐用範家と言う赤松円心の一族の者が金ピカの鎧を着てめちゃくちゃ目立っていた名越高家を狙撃して彼を打ち取ると、高家の一軍は大将を討ち取られて瓦解した。
足利高氏は名越高家がうちとられたことで丹波の篠村八幡宮に向かい討幕の願文を認めて奉納し、討幕を宣言、各地の武士に檄文を発した。
「敵は六波羅探題にあり!」
これにより近くの源氏の5000が馳せ集まり、さらに京に向かう途中も悪党や賊などが馳せ集まって軍は膨張していった。
そして千種忠顕、赤松円心の軍をまとめてそのまま京に攻め入った。
もちろん高氏謀反の報はすぐに六波羅に届き、六波羅探題も迎え撃つ準備は怠らなかった。
六波羅探題に城郭を築いて城と為し、後伏見院、花園院、光厳天皇らを押し込めて皇居とした。
さてその頃、千早城では相変わらず俺は鎌倉の先遣隊を食い止めていた。
正直に言えばこちらも鎌倉の兵もお互いにかなり疲弊していた。
しかし疲弊の度合いでは鎌倉軍のほうが大きい状態だった。
そんなところに鎌倉軍に足利高氏が裏切って六波羅を攻めようとしている、情報が伝わり、俺も其れを忍びを使って広めた。
しかし鎌倉軍は目の前の千早城を攻囲をやめなかった。
千早城の攻撃を諦めて全軍撤退したら後ろから追撃するつもりだったんだがな。
とは言え鎌倉の主力を山の中に全部おいておくこともなかったろう。
20000も京へ向かわせればだいぶ違ったと思うんだがな。
しかし、京への援軍はなく源氏の有力武将である足利高氏が後醍醐天皇側に寝返ったことで、それまで日和見を決め込んでいた、反北条系の武士達も六波羅から足利軍に次々と寝返った。
北条系の武士は奮戦はするも20000近い倒幕軍により追い込まれ、六波羅探題の北方北条仲時は南方の北条時益とともに、北条一族や郎党、光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇を伴って東国へ落ち延びることにしたが、近江にて挙兵した地元の悪党に襲撃を受け、北条時益は矢を受けて戦死。
光厳天皇も負傷という今上天皇があわや命を落としかけるという前代未聞自体に陥った。
さらに、佐々木道誉に進路を妨害され、さらに悪党の再度の襲撃を受けることで、佐々木時信が尊氏に降伏。
もはやこれまでと北条仲時は部下を集め、自分は自害するが、部下は自害した自分の首を持って投降すれば助かるはずだと部下に言い、国の最高責任者は自分であると一緒に自害しようとした光厳天皇をさとして、天皇の自害を止め北条仲時は自害した。
しかし、北条仲時に最後まで付いてきた部下達は北条仲時だけを死なせるわけにはいかぬと次々自害、もしくはお互いに刺し違えて自ら命を絶ちし降伏しようとするものは居なかったそうで、その数は400名を越えたとか。
で、その後光厳天皇、後伏見上皇、花園上皇らは佐々木道誉に保護された。
長門探題や鎮西探題でも探題が自害すると300名近くの一族や部下達が共に自害したらしい。
こうして六波羅探題、長門探題、鎮西探題は滅亡した。
鎌倉幕府の滅亡はすぐ目の前に迫っていた。
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