第36話 正成と大塔宮挙兵・吉野と千早の戦い
薩摩硫黄島にて文観を討ち果たした俺達は、壱岐に渡って一息ついた。
「正成殿この後はいかがいたすつもりでしょうや?」
沙羅がそう聞いてきた。
「西国の反鎌倉的なものに声をかけつつ、河内にて挙兵を行おうと思う。
笠木を落とした幕府の軍はそれぞれの領地に戻ったでしょうが、すぐさまもう一度西国へ向かうとなれば兵糧の徴収や兵の移動で疲労するでしょう。
幕府の軍は強大だがそこにつけ込む隙があるはずですからな」
「そうですか。
ならば私は高野山に戻り、文観を討ったことを報告いたしましょう」
沙羅の答えに大塔宮が聞いた。
「我らの挙兵に加わり共に戦ってはくれぬのか?」
沙羅は静かに首を横に振った。
「天台の衆徒と違い、真言の衆徒は表立って、世の争いに加わるつもりはございませぬゆえ」
確かに、高野山は延暦寺や興福寺などと違って強訴を仕掛けたことはないし、朝廷や武家と戦ったこともなかったようだ
とは言え他の寺社に対して僧兵が攻撃を仕掛けたことはあるんだがな。
まあ、尼さんが先陣切って武士をなぎ倒しても外聞が悪いだろうししかたないな。
「わかった、また阿野廉子や玄旨壇灌頂の円観を討つときには助力を願いたい」
沙羅は俺の言葉に頷いた。
「外法の輩を誅伐するは私の役目ならば無論そのときは合力致します。
大塔宮様が高野へ来られるのであらば助力するものを集めるよう伝えおきましょう」
大塔宮は沙羅のその言葉に嬉しそうに頷いた。
「うむ、其れはありがたい」
俺は沙羅を一足先に高野山に戻らせ、俺は大陸で硫黄を食料と交換した後、あちらこちらに立ち寄りながら河内へと向かった。
1330年には元徳の飢饉が起こったが、今年もまだその影響から抜け出していなかったから、俺は九州の菊池武時、備後の桜山慈俊、伊予の土井通増・得能通綱、村上水軍の村上義弘らに食糧援助をしつつ、大塔宮護良親王の令旨を手渡し、俺が蜂起したら遅れて蜂起をするように伝えた。
これ等の氏族は承久の乱で上皇についたり、源平合戦の際に平家方についた者たちの末裔で鎌倉幕府に圧迫されていたから、喜んで受け入れてくれた。
そして、俺は河内に向かうと大塔宮と別れ挙兵の準備を行った。
赤坂村の女子供や老人は観心寺に向かわせ保護してもらうことにした。
その間に上赤坂城と千早城の築城を開始した。
それぞれに防備に使うためのそれなりの大きさの石を兵に運ばせるとともに、水を貯めるための桶や弓矢、敵兵へ落とすためもしくは燃料として使うための丸太や薪、食料としての米なども運ばせた。
また、城内の建物の軒に割った竹で雨どいを取り付けてそれをつなぎ、雨水を樽に貯めさせるようにもした。
一方の大塔宮は還俗して護良親王となり、高野山や野迫川で兵を集め、さらに熊野でも兵を募ったがこちらでは得るものがなく、その後吉野に向かった。
そして、金峰山寺に砦を築いて城とした。
そして各国に親王の命令書である令旨を方々に送った。
この際には相手の名をきちんと書きしたためておくことで、相手が親王に頼りにされていると思うようにさせておいた。
これは石橋山の戦いの前に源頼朝が頼みとするものを一人ずつ呼び寄せて、お前だけが頼りだといって付き従わせたやり方に近い。
俺は以前に討伐した、八尾の別当顕幸、湯浅や越智などに共に幕府と戦うように伝えた。
彼らとしても北条の政治に従うつもりはなかったから、俺とともに戦うことに異存はなかったようだ。
そして俺は幕府を討つために挙兵を宣言した。
当然俺が挙兵を宣言したら、六波羅探題も手をこまねいているわけではない。
俺は城が完成するまでは六波羅の目をそちらから逸らすために、まず、千早・赤坂城の後背にある幕府側の拠点を襲撃・陥落させ、さらに河内・摂津方面に侵攻して迎撃準備が整っていない幕府側の拠点を夜討ち朝駆けや疑似退却による釣り野伏などで撃ち破り、堺に駐留していた部隊を撃破、四天王寺周辺に張られた防衛線を半日で撃破し、その後送られた増援部隊を撃破した。
こうして河内国、和泉国、摂津国で六波羅の軍を電撃機動での各個撃破に成功した俺は奪い取った物資を尽く千早城に運び込んだ。
この頃吉野の諸豪族の協力を得た護良親王は各地の情報の伝達係として高野聖の協力を得ていた。
俺は護良親王や高野聖、吉野の土豪衆と連絡して千早城後方の金剛輪寺に喜捨として金銭や兵糧を送った。
このころ六波羅探題は度重なる敗戦に幕府の直轄軍の出兵を求めた。
鎌倉幕府も六波羅の敗戦は沽券に関わると後醍醐天皇が笠置で兵を上げた時よりも多くの軍団を編成し、こちらへ向けて送ってきた。
天皇が笠置で兵を挙げた時はある意味其れだけであった。
しかし、今回は大和・河内・和泉・摂津・紀伊にて反幕府の軍が軍事行動を行っていた。
そのために送られた数は5万人。
そしてこの5万人の軍というのは鎌倉幕府が東国から動員でき得る精鋭のほぼすべてに近いものだった。
幕府軍は大兵力を用いて少数である俺達の兵を各個撃破で叩き潰しに来たわけだ。
大軍を用いて少数を叩き潰すと言うのは用兵としてはもちろん間違えではなかった。
だが、一昨年の飢饉による食料が不足している状況で何度も関東から畿内まで兵を出さされる方は堪ったものではない。
こういうときにかかる経費は全て御家人が自腹で持つものだからな。
そして、畿内の領民も酷税に苦しんでいたから、鎌倉幕府に味方するものは居なかった。
こういった状況で森林の多い地域に大軍を投入するというのは、戦線の膠着を招き兵糧や士気の維持が難しくなる。
元がインドや東南アジアなどで次ぎ次ぎに敗北したり、ナポレオンのスペイン侵攻やヒットラーのソ連攻撃、ベトナム戦争のアメリカ軍の失敗などをみればわかるだろう。
さらに、この時点で俺たち以外に行動を起こした者が居た。
備後の桜山慈俊、伊予の土井通増・得能通綱、村上水軍の村上義弘らが長門探題の長門探題北条時直や大内氏は長門の厚東氏などと戦い始めたのだ。
しかし赤松円心はまだ動いていなかった。
というかやつは六波羅の役人だから俺達と戦うように見せかけて損害が大きくならないうちに引いていった。
「赤松はまだ幕府軍有利と見ているのか……まあ、わからんでもないがな」
関東から畿内に到着した鎌倉の直轄軍はまず護良親王が金峰山寺に築いた吉野城に狙いを付け、5万の中の2万を吉野に向けて攻撃を開始した。
対する護良親王の軍は大和の諸豪族や僧兵をくわえた混成軍で1000人程度だった。
20倍以上の敵と戦うわけだから明らかに無謀と見えただろう。
吉野城では数日の間は鎌倉軍を撃退したが、前吉野執行だった岩菊丸と言う僧が幕府の大軍に勝てるわけがないと護良親王を差し出して降伏しようと吉野執行で吉野山の指揮を取っていた宗信という僧に進言したが逆に怒りを買い追放された。
岩菊丸はこれを恨んで降伏しようとする僧とともに幕府軍に降伏して、間道から山を登ると金峰山寺を焼き討ちにした。
護良親王はもはやこれまでと家臣を集めて別れの酒宴を行なって自害を計った。
だが前線で戦っていた勇将の村上義光が戻ってくるとその様子を見て、護良親王を叱りつけ親王が身につけていた鎧を奪い取って前線に出ることで身代わりとなって親王を逃亡させた。
親王は間道を抜けて脱出し高野山へ逃亡した。
親王の吉野軍は崩壊したが幕府は高野山への追及の手を緩めなかった。
しかし、高野山は護良親王を隠した。
鎌倉の軍は高野山に向かい兵を動かしたが、素手で坂東武者をネヂり殺し、矢を持っては百発百中の尼を先頭にした高野山の僧兵の奮戦と、その後に流行った陣中の疫病により仏罰を恐れた事により、高野への攻撃と護良親王の確保は諦め千早城攻撃に兵を向けた。
吉野で護良親王が苦戦している最中だが、俺も幕府の大軍に囲まれていた。
平野将監が守る下赤坂城、と弟の正季が守る上赤坂城はさっさと放棄させ、千早城に全ての物資と兵糧を集め城に続く街道に罠を数多く仕掛けた。
糞を塗りつけた竹槍を仕込んだ落とし穴、縄を踏むと糞を塗りつけた棘の生えた丸太が落ちてくる仕掛け、竹や枝をしならせておいて縄を踏むと糞を塗りつけた竹槍が飛び出す仕掛け、踏んだ人間を釣り上げて、ぶつかる場所の木の幹に糞を塗った棘を用意しておくなどまあいわゆる猟師罠やブービートラップのたぐいを多量に設置しておいた。
無論味方が引っ駆らないように目印をつけておいてだ。
鎌倉の大軍は躊躇すること無く突き進んできて、多数の兵が罠により負傷した。
さらに破傷風などで死ぬものが現れ、疫病が鎌倉軍の陣地で大流行した。
そうして混乱したところに奇襲をかけたりもしたが流石に数が多く、鎌倉の軍による城攻めが開始された。
もちろん俺は崖をよじ登ってくる兵士たちに糞を塗った棘を刺した丸太や、人間の頭の大きさの石、まだホカホカのクソや小便などを落とし矢を射かけることで、幕府軍に大打撃を与えた。
こうして鎌倉の兵がまともに戦うことなく全兵力の一割にあたる5000人ほどの被害を出したことで、彼らは兵糧攻めに攻撃方法を切り替えた。
俺はその様子を見て、間道を用いて、兵糧を運ぶ小荷駄隊を襲撃しその食料を千早城へ引き上げた。
さらに食料が不足になり始めたときは千早城後方の金剛輪寺に喜捨として金銭や兵糧を送ったものを分けてもらった。
さらに鎌倉側は城兵が渓流の水を汲んで補給していると考え、水を断つことで俺たちを干上がらせようとした。
鎌倉は名超軍3千に千早城北東の谷川の水源地を見張らせ、名越勢は水辺に陣を構え、城から人が下りて来ると思われる道に逆茂木をしつらえて俺たちの兵が来るのを待ち構えた。
しかし、千早城はそもそも湧き水がある上にや雨水も溜め込むことで水を確保していたので、この作戦は全く意味がなかった。
が、そうとは知らない名越勢の兵士らは、城中から人が下りて来るのを連日待っていた。
最初の数日こそ真面目に待っていたが、四~五日もするとだんだん、俺達はこの水を汲みに来ないのではと思い始めた。
実際汲みに行っていないのだから無駄なのは間違いがないのだがな。
この様子を忍びを遣わして、様子を見た俺は朝方に襲撃することを決めた。
そして俺たち楠木軍は、水辺の敵をおおよそ2000ほど討ち取り、残りを散り散りに離散させ鎌倉軍にさらなる打撃を与えることに成功した。
それでも鎌倉にはまだ4万以上の兵が残っている。
だが、鎌倉軍には焦りが見えた。
「そろそろ菊池武時や赤松円心が動く頃かな」
西国の火の手はすでに赤く燃え上がっていたのだ。
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