元弘元年・元徳3年(1331年)
第34話 元弘の乱と笠置山の戦い
年が明けて元弘元年・元徳3年(1331年)になった。
朝廷では
彼の父の吉田経長は亀山上皇、後宇多上皇に仕え権大納言までのぼったし、その子の定房も後宇多上皇の院政のもとで重用され、その評定衆の一人に加えられ、皇位継承問題などでしばしば鎌倉に赴き、朝廷と幕府の連絡役をつとめ、尊治親王、のちの後醍醐天皇を幼少時から預かる「
吉田定房は貴族としては至極まっとうな感覚の持ち主で、元亨元年(1321)に後宇多上皇が院政を停止し後醍醐天皇による天皇親政に移行したときに、この意向を幕府に伝えるために鎌倉に向かい、その後に京に帰還したあと、十ヶ条の奏上と呼ばれる諫言の文を提出している。
その内容はおおよそこんなものだ。
「王者は仁愛の心をもって政治をすべきで武力にたよるべきではありません。
故に王者は民を苦しめる大工事をしてはならなりませんし、王者は民の命を大切にしなければならないです。
天の時は地の利にしかず、地の利は人の和にしかず、現在、天下の百のうち九十は、幕府の手中にありますし、東国武士は一騎当千の強者ぞろいです。
そして鎌倉の幕府の権力は絶大で衰退の兆しも見えません。
王朝の交代がある他国ならばともかく、日本では王朝の交代はありませんから衰退した朝廷を再び繁栄させる事は今はほぼ無理です。
天皇も皇太子も、大臣も将軍も、幕府が決めているということをもう一度考え直してください。
そして、倒幕は明らかに時期尚早で、現時点では勝ち目が見えません。
それで、天皇家がここで滅んでしまっても良いのですか。
今は時期を待つべきです」
と、要するに後醍醐が武力を用いて幕府を倒そうと計画しているのを必死になって諫めたわけだ。
其れも複数回に渡って。
しかし、後がない後醍醐天皇は其れを無視した。
そのうちに正中の変が起こり、日野資朝一人が流罪になっただけでその時は幕府は非常に寛大だった。
後醍醐天皇の謝罪文は北条高時が斎藤利行に読むように命じたが読み始めたところ、突然、口から血を吐き、地面に倒れてしまったという。
「このような事が起こるのは真っ当に政治をしない上に
皇室に口をはさむ幕府が悪い、絶対に悪い、全面的に悪い」
などというどこが謝罪だと言う文面だったわけだが。
さて、元徳3年元弘元年(1331年)4月、またも討幕計画が幕府に露見した。
討幕計画を幕府に密告したのは吉田定房で『鎌倉年代記』に「主上(後醍醐)が世を乱そうとしている。俊基朝臣が中心となってやっていることだ。定房卿が内々に伝えてきた」とはっきりと書かれているので間違いない。
この密告により、日野俊基、平成輔、文観、円観、忠円らが捕らえられ彼らは鎌倉へ送られた。
その道中は誠に悲惨なもので、一人の供も許されず、関東の荒武者に引き立てられ、縄で縛られながら粗末な伝馬に乗せられて、東海道を下って行った。
僧侶である文観は薩摩硫黄島へ、円観は奥州へ、忠円は越後へ流刑となったが、日野俊基と平成輔は斬刑、あわせて、佐渡に流された日野資朝をも佐渡で斬首とされ、関わったものはそれぞれ流罪とされた。
なぜ忠臣であり養父でも在る定房が密告をしたのかということだが、後醍醐天皇の回りにいる悪い友達を密告で処分すれば後醍醐天皇もおとなしくなるのかもしれないと考えた可能性もある。
日野俊基が捕縛を逃れようと内裏に駆け込んだときにも、彼をかばうわけでもなく後醍醐天皇は仮病を使い病のために動けないと一切顔を出さなかったそうだ。
定房の密告は後醍醐の意思であるか、そうでなくても吉田定房と事前に打ち合わせをしていた可能性が高く、恐らく側近は処罰するが天皇には何もしないという内々の約束を伊賀兼光あたりを通じて取り付けていたのだろう。
証拠になるものはないが中原章房は暗殺されたのに対して、吉田定房は建武の新政においても後醍醐天皇に重用されている事を考えるとあらずとも遠からずという所だろう。
ちなみに北畠具行は昨年から河内に滞在しているので無事だ。
前年の中原章房などとともにこの時に実務に有能で世情をよく知っている中級貴族を失ったのは、建武の新政の時に実務能力を持つ直属の家臣の欠乏という大きな痛手となる。
彼らが生きていれば足利高氏の部下や北条一族の生き残りを実務に従事させる人数は少なくて済んだだろうな。
鎌倉の厳しい取調べで文観らは計画が後醍醐天皇の意向である事を自白した、それを聞いた持明院系は幕府に後醍醐天皇の退位を迫った。
さて、天皇の側近が次々に処分される中で当の天皇は鎌倉の追及がこないことをいい事に普段通りの生活をそのまま三カ月ほど送り続けていたが、幕府はこの間に大覚寺統、持明院統の双方と話し合って後醍醐天皇の廃位を進めていた、流石に今回は看過できないし、幕府としては両統迭立を守らせたかったようだ。
やがて幕府は天皇を捕らえて退位させ流罪にしようと、鎌倉から3000の兵が京へ向かい上洛した。
比叡山の大塔宮よりこれを聞いた後醍醐天皇は3種の神器を手に取ると、女官の服を着て女装し、花山院師賢ら数名のみを従えて女房車に乗って御所を脱出しようとしたこの。
この時門前で六波羅の兵の検問にあったが、中宮祥子が父を訪問しに行くところだと答えてなんとか脱出には成功した。
六波羅といえども後宮の女性が乗る牛車の中を見ることは流石にできないからな。
そして三条河原で
天皇は囮として花山院師賢を天皇に変装させ比叡山に向かわせ、自分は粗末な輿に乗り換え、奈良参詣に行く女房とそのお供衆を装って東大寺に向かった。
こうして後醍醐天皇は自分自身の身の危険が迫ったことによって京から逃げ出して、自ら挙兵するわけだが、近習の処罰だけで済むと思っていた天皇には寺社や悪党、反鎌倉の武士や土豪らとの連絡が全くとれていない状況であった。
そして恐らく自分が逃げるための時間稼ぎのために”後醍醐天皇比叡山にて挙兵”との情報を意図的に流した。
敵を騙すにはまず味方からとは言うが、その騙す味方に対しての強固な信頼関係などというのがないのがまずかったな。
叡山で僧兵達と苦労を共にし、帝を待ちわびている大塔ノ宮の立場も考えればいいのだが、そんなことを全く考えないのが後醍醐という人物だ。
迎えに出た大塔宮は心中では大きく落胆しただろう。
帝が比叡山を頼ってきたということで僧兵達は勇み立ち、幕府の大兵を相手によく戦った。
六波羅側と鎌倉より赴いた武士は直ちに比叡山に攻撃をしたが、準備不足によりまさかの敗北を喫した。
この攻防戦において護良親王が自ら陣頭指揮にあたって六波羅を撃退したのは良いことでは在るな。
一方の後醍醐天皇はまず東大寺に身を寄せようとしたが、この東大寺の責任者が実は北条家出身であり受け入れに難色を示しだし、さらに興福寺も不穏な動きを見せ始めた。
つまりこのまま後醍醐天皇が東大寺もしくは興福寺のどちらかで挙兵すれば、その反対が敵に回る可能性が高かった。
結局、寺社同士での内紛を避けるためにと言うか内紛に巻き込まれたくなかった後醍醐天皇は、鷲峰山金胎寺に一度移るが、すぐに笠置山の笠置寺、ここは流罪にされた文観の相弟子の聖尋が管理する寺だが、に身を寄せて挙兵をすることになる。
笠置山は四方を山や崖に囲まれた険峻な地形の難攻不落の拠点だったが、比叡山や東大寺、興福寺に比べれば寺格が低く、僧兵もほとんど居なかった。
さらに笠置山で天皇が挙兵したことを知ると、後醍醐天皇のために戦った比叡山の僧兵がこちらへ来たのは天皇ではないのを知ってしまい、騙された比叡山の僧兵は怒り狂った。
大塔宮と花山院師賢を六波羅に突き出して合戦の詫にしようと言い出すものもいたから、大塔宮と花山院師賢はほうほうの体で比叡山から逃げ出すことになり、貴重な戦力である比叡山の僧兵は倒幕戦線から離脱することとなる。
しかし、其れで収まらない六波羅探題は比叡山を再度攻撃し反乱を鎮圧し、鎌倉幕府の直轄軍が笠置を囲んだ。
鎌倉の兵力は2万人対する笠置山は500人程度、戦力差によってすぐに陥落するかと思われた笠置山だったが、足助次郎重範らの活躍もあって中々陥落せず幕府軍は苦戦を強いられていた。
後醍醐天皇は討幕の綸旨が発せられていたが、其れにしたがって集まってくるものはほとんど居なかった。
集まったのは伊賀や三河から集った源氏系の武士と僅かな僧兵其れが笠木の兵力だった。
俺は後醍醐天皇との直接の縁は持ちたくなかったから、もちろん参加しない。
本来俺とともに挙兵した備後の桜山慈俊も挙兵しなかった。
やがて幕府軍は笠置山の断崖絶壁を登り夜間に寺院を焼き払う奇襲に出た。
長期の籠城戦による疲れと連日の勝利に油断してところで火計に晒された笠置山は陥落し、足助重範は囚われ後醍醐天皇は万里小路藤房、季房の兄弟と共に逃亡したが逃亡中に囚われた。
囚われ人となった後醍醐天皇が京に辿り着くと六波羅に厳重に閉じ込められ三種の神器も奪われた。
光厳天皇は三種の神器を取り返したことで正式な即位式を行い、後醍醐天皇は退位させられた。
しかし、幕府は天皇の皇太子に関しては邦良親王の子、康仁親王に立太子させると花園院と光厳天皇に両統迭立に戻すように宣言した。
当然、花園院も光厳天皇も大覚寺統によって世は乱れたのだから持明院統に一統にすべきと幕府に訴えたが、幕府は意見を取り上げず両統迭立を堅守しようとした。
そして後醍醐天皇は後鳥羽上皇の前例をとって隠岐に配流され、幕府に逆らった親王や公卿、逆らっていない親王も後醍醐天皇に纏わる者の殆どが配流となった。
後醍醐天皇は世話係の女官に内侍の三位である阿野廉子、大納言君、小宰相。
添役に一条行房、千種忠顕を伴って網代輿に詰め込まれた。
その途中で脱走を企て、それが露見し佐々木道誉の監視と護衛のもとで隠岐へ向かう事になるのだが、その間にも近くの寺で討幕の参拝をして自筆の手紙を残したりしたが其れも無駄なあがきと考えられていた。
こうして後醍醐天皇の謀反は失敗してまた北条の天下となろうかとしていた。
だが、其れを良しとしないものが河内と大和の境の山に集っていた。
「笠木は落ちた、だが幕府の軍も意外に攻めあぐねたな」
大塔宮護良親王が告げた。
「ええ、東国武士は平野での騎射戦闘では無類の強さを発揮します。
其れこそ高麗と元の侵略を力で打ち払ったように。
しかし、彼らは馬を降り山を登って戦うことに慣れていません。
そこに付け入る隙があるかとおもいます」
俺は大塔宮に答えた。
「とは言え、その前に君側の奸を打つのが先でしょう。
薩摩硫黄島の文観、陸奥の国の円観、そして隠岐の阿野廉子。
この者たちを討ちましょう」
「うむ、この者たちにより国が乱れると、大暗黒天も言っている。
それとこの者も連れてゆくことにするぞ」
大塔宮が一人の人物を紹介する。
「慈空阿闍梨より供を仰せつかりました沙羅ともうします」
そう言って尼僧が頭を下げた。
「沙羅なるほど弁才天たるサラスヴァティの加護をお持ちかな」
尼僧が頷いた。
「はい、我が身は非力なれどどうぞよろしくお願いいたします」
こうして俺達はいつものように交易に出ると見せかけて瀬戸内海を西に向かった。
目指すは薩摩硫黄島だ。
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