文保2年(1318年)

第19話 後醍醐天皇の即位と万里小路藤房との対面

 さて、時は流れ文保2年(1318年)になり、後醍醐天皇が即位した。


 実際の執政は父の後宇多法皇が院政を行ったためまだ実権はなかったが。


 平安時代の白河院以降、藤原摂関家の影響を弱めるための院政が定着し、即位した幼い天皇を出家した皇族の元天皇である家督者が補佐するとの名義で実権を本来天皇がもつ、皇位継承者を指名するようになった。


 院政とは自己の血統こそが正統な皇族でありであると言う事を主張する行為であって皇族の家督者の地位を周りに求めさせるための行為であった。


 そしてこれが元で白河・鳥羽・崇徳・後白河の間で権力争いが起こり、その結果として保元の乱や平治の乱・治承・寿永の乱がおこり武家の棟梁として平清盛や源頼朝ら武士階級の台頭を許すことになった。


 そして承久の乱で上皇側が鎌倉幕府側に敗北した以後は、皇位の継承に関しては鎌倉幕府の承認が必要とされるのがその後の慣例となっていた。


 さて、鎌倉の末期は、天皇の即位は嫡流が二分しており、後嵯峨天皇の皇子である後深草天皇の子孫の持明院統と亀山天皇の子孫の大覚寺統が両統迭立りょうとうてつりつというそれぞれの嫡流の交代での即位と言う流れになっていた。


 亀山院系を大覚寺統というのは大覚寺を御所としていたためで後深草院系を持明院統というのは後深草院が持明院に住んでいたためだ。


 両統迭立の起こりは後嵯峨天皇に始まる。


 仁治3年(1242年)の四条天皇の死去に際し、幕府の執権北条泰時は有力候補であった忠成王の即位を拒絶し、四条天皇が崩御したため、順徳天皇の皇子・忠成王が新たな天皇として擁立されようとしていたが、泰時は父の順徳天皇がかつて承久の乱を主導した首謀者の一人であることからこれに強く反対し、忠成王の即位が実現するならば退位を強行させるという態度を取り、貴族達の不満と反対を押し切って後嵯峨天皇を推戴、新たな天皇として即位させた。


 このために後嵯峨天皇以後は皇位継承に際しても幕府の内諾を得てから決定することになる。


 さて、後嵯峨天皇は、寛元4年(1246年)、皇子久仁親王(後深草天皇)に譲位した後、後嵯峨天皇が院政を敷いた。


 これは承久の乱で、父の土御門天皇が自ら望んで土佐に配流された為に土御門系の血統が没落し、権力や財力を大きく失ったことへの恐怖感によるものだったんじゃないかとは思うが実際はわからない。


 そして後深草天皇はわずか4歳で即位したが、直接政務に携わる機会もないままおこり恐らくマラリアを患い後嵯峨法皇の要請により17歳で退位、亀山天皇へ譲位することになった。


 そして後嵯峨院の要請によって立太子には亀山天皇の子供である僅か1歳の世仁親王が指名された。


 これが気に入らなかったのは後深草院だな、一度は天皇となった後深草院は自分の息子こそが正統であると主張した。


 結局のところ後嵯峨上皇はその意向を明確に書面にすることなく死去した。


 遺勅には「六勝寺ならびに鳥羽殿のこと治天下によりその沙汰あるべし」と、先の後嵯峨天皇が皇位継承を鎌倉幕府に横槍を入れられたことも有ったため、鎌倉幕府に意向を確認し、幕府の執権北条時宗は、後嵯峨の真意を後深草と亀山の母である大宮院に確認したのち、大宮院の指名により亀山の親政が決まり、文永11年(1274年)亀山は皇太子世仁(後宇多天皇)に譲位し院政を開始した。


 しかし、これに不満を抱いた後深草上皇が翌年の建治元年(1275年)に関東申次西園寺実兼と執権北条時宗との折衝を行い、後深草の皇子熈仁親王(伏見天皇)が同年中に亀山の猶子となり親王宣下を受けて、立太子し、続く弘安9年(1286年)には後宇多皇子邦治王(後二条天皇)が親王宣下された。これは伏見が亀山の院政下に即位し、その後を後二条が継ぐことを念頭に置いた措置であったと推定されているが、同10年(1287年)伏見の即位に伴い、治天の地位が後深草に移動、後深草院政が開始された。


 こうして皇統の二系統が交互に治天の君を継ぐことが事実上決まった。


 幕府が天皇家の嫡出が二系統あると言う事を公認したわけだな。


 北条時宗としては苦肉の策の妥協案であったろうが、当時としては特にどちらにも落ち度はないのでそうするしかなかったのだろう。


 これが後に南北朝という体勢ができてしまう理由の一つだ。


 こうして後深草天皇の子孫の持明院統と亀山天皇の子孫の大覚寺統が皇位を争うことになり、結果としてこれが後醍醐天皇にに鎌倉幕府を滅ぼさせようとした原因となったんだな。


 せっかく天皇になっても皇位の指名権は幕府に握られたままで何も思うどおりに出来なかったから当然といえば当然ではあるな。


 そして徳治3年(1308年)に後二条天皇が崩御し花園天皇が即位して、伏見法王の院政が復活した。


 ここで皇太子にたてられたのが、大覚寺統の後二条の弟・尊治親王後の後醍醐天皇だった。


 天皇よりも9歳年上の皇太子という異例の措置だが、邦良親王は尊治親王の次の皇太子とする意思を明確にし、文保元年(1317年)に伏見法王が崩御すると文保の和談と言われる話し合いの席が設けられた。


 鎌倉幕府は幕府は、以後の皇位継承に一定の基準を定めることを目的に、


 花園が皇太子尊治親王に譲位すること

 今後、在位年数を十年として両統交替すること

 次の皇太子は邦良親王とし、その次を後伏見皇子の量仁親王(光厳天皇)とすること


 と提案した。


 しかし皇太子と次代の皇太子については決定に至らなかったらしい。


 実際には、後宇多の申し入れにより翌文保2年(1318年)、後宇多院政の下、後醍醐が即位する。


そして邦良親王、その急逝後は量仁親王が立太子した。


結果的には上記提案どおりであったが、両統迭立の約束自体が極めて不確実な状態のまま大覚寺統傍系の後醍醐が即位したことは、後醍醐が父後宇多の遺志に従わずに自分の子孫に皇位を継承させようとしたこともあり、南北朝時代の両統並立に繋がっていった。


 後醍醐天皇はあくまでも一時的な中継ぎとされた。


 父である後宇多院は尊治親王立太子の際に後宇多院が家宰権を持っていた広大な荘園を与えたが、荘園の譲り状にこうしるしていた。


「尊治親王が死んだ後はすべての荘園は邦良親王に譲り、皇位は邦良親王の子孫に伝えるべきだ。

 尊治親王の子孫は賢者の器があれば親王として君を助けるべきで、よほどの天下の人望があればその時は皇祖の冥鑒に任せるべきである」


 こういった諸々の事情が後醍醐天皇を倒幕に走らせたわけだ。


 そして後醍醐天皇はそのための行動を開始していた。


 側近の文観、花山院師賢、四条隆資、洞院実世、日野資朝、日野俊基、北畠親房、万里小路藤房等に密命を与え、諸国を巡らせ、天皇の味方になりそうな者を豪族を探し出そうとしていた。


 建武の新政の失敗で政治音痴と思われている後醍醐天皇だが、それなりに政治センスはあり、彼は実力主義で身分の低い貴族でも登用している。


 六波羅探題の藤原北家秀郷流の出自と言われる伊賀兼光いがかねみつが鎌倉を裏切って後醍醐天皇の間者として情報を流すようになったのは、文観の仲介によるものらしい。


 もともとは鎌倉時代初期の藤原朝光ふじわらのあさみつが伊賀守に任じられて伊賀守朝光以降、伊賀をなることになり、鎌倉幕府の第二代執権・北条義時(北条政子の弟)の死去に伴い、伊賀光宗とその妹で義時の後妻・伊賀の方が伊賀の方の実子・政村の執権就任と、娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した。


 これが伊賀の乱だ。


 だが尼将軍・北条政子は伊賀氏の不穏な動きを察し、伊賀氏が組もうとした三浦義村に泰時への支持を確約させ、伊賀氏の政変を未然に防ぐ事に成功し、義時の長男であった北条泰時を執権に就任させる。


 この政変未遂により伊賀の方・光宗・実雅は流罪となり、伊賀氏は一時かなり没落した。


 それもあって伊賀氏は北条を恨んでいたわけだ。


 村上源氏である北畠親房は赤松円心と名和長年という村上源氏の庶流を配下にした。


 そして俺の仏道の師である龍覚は鎌倉幕府の侍所の初代別当の和田義盛の子孫で、和田氏は和田合戦で主家が滅んでいる。


 そして龍覚のところへやってきたのが後の南朝の忠臣であり太平記では後醍醐天皇の見た夢を解釈し俺に勅使として直々に呼び出しに行くよう命じられる万里小路藤房までのこうじふじふさだ。


 ここらへんは俺が朝廷に付届けを行う際に繋がった縁でもある。


 俺は観心寺で彼と対面していた。


「お初にお目にかかる、私は万里小路藤房と申します」


「俺は楠木正成だ、こんな山奥にわざわざご苦労なことだな」


「いやいや、このくらいはどうということもありませんな」


 話をしてみれば彼は貴族には珍しく気持ちのいい男だった。


 彼の祖父の資通は閑職にあったため父の宣房も若いうちは官職に恵まれなかったため、任官が遅めで困窮した生活を送っていたようだ。


 其れにより彼は民衆の声を聞くことができる貴族として育ったのだろう。


「今の幕府の有り様にはいかが思われるか?」


 彼の質問に俺は答えた。


「もはや幕府には恩賞を与える余地はない。

 新たな土地は生まれず、元寇は御家人を疲弊させている。

 裁判は公平ではなく、不満はくすぶっている。

 だが、其れにより帝の政治を民や武士が望んでいるわけではないよ。

 もともと武士が力をつけたのは朝廷が重い税を課したからだからな」


 彼は鼻白んだ。


「では、鎌倉幕府をこのまま認めるということですかな」


 俺は肩をすくめた。


「そうは言っていない。

 幕府は商人と商売をそして金貸しを目の敵にしてるからな。

 そういうやり方はもう時代遅れだ。

 だから、時代に有ったやり方の政治や統治を行う存在は必要とされるだろうな」


 彼は身を乗り出してきた。


「では、そういった政治を目指す者が行動を起こすとなればどう動くつもりですかな?」


 俺は淡々と言葉を続ける。


「状況と主張次第ってとこだな。

 無駄に命を捨てるつもりは無いし、捨て石にされるつもりもないんでね」


 彼は少し気落ちしたようだ


「左様ですか」


「商人や悪党なんて言うのはそんなもんだ。

 利もないのに動くやつは居ない、権威なんて言うものは通用しないさ」


「すなわち利益があると思えば動くということでもありますな」


「ああ、ついでに言えばこの日の本という国では大体のやつは横のやつと同じことをしようとする。

 だから最初に動くやつはよほどの理由が必要だろうな」


「なるほど、そうでございますな」


 彼との対話には色々と考えさせられるところがあった。


 まあしかし、この先の行動を性急に決めることもないだろう。


 まだ時間はたくさんあるのだから。

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