嘉元2年(1304年)

第2話 まずは状況確認

 さて、俺の置かれている状況を確認してみよう。


 今は嘉元2年(1304年)らしい。


 後に俺が仕えることになる後醍醐天皇ごだいごてんのうは正応元年(1288年)11月2日に誕生し、正安4年(1302年)6月16日に親王宣下を受けている。


 そして今の状況を一言でいえば鎌倉幕府は崩壊寸前だが、幕府の武力を恐れて誰も、幕府を倒そうと動いてはいないという感じだな。


 現状100年以上続いてきた北条家が執政を行っている鎌倉幕府は、だいぶ末期的になっていたはずだ。


 もともと鎌倉幕府は源頼朝が基盤としていた東国の関東や甲信・東海などの影響力は強かったが、畿内以西や東北・蝦夷などに対する影響力は限定的だった、特に畿内は天皇領や寺社領が多いこともあって幕府の支配力は弱かった。


 まあ、そんな所に俺たちは乗り込まされたわけだ。


 鎌倉幕府の御家人は平家や中央朝廷に生活を圧迫された豪族達で、土地を開墾して田畑を得た武装した農民の集団の長だ。


 しかし、後に鎌倉幕府は、承久の乱では打ち倒した朝廷方の勢力に敗れて滅亡した。


 その理由は、足利尊氏や新田義貞のような御家人の離反と、そもそも鎌倉幕府に与しない悪党と呼ばれるものたちの蜂起によるものだ。


 そもそも鎌倉幕府は、主に相模、房総、武蔵などの頼朝の父義朝と関係が深い豪族が土地の所有権や税の支払いに関して、朝廷や平家などの目代を排除し自分達の権利を保護し、豪族同士の土地や水などの利害対立を調停するために設けられたものだ。


 幕府の保護下に入ったものは御家人と呼ばれ、幕府にそういった権利などを朝廷から保護される代わりに、有事の際には軍事的戦力を自弁で揃えて提供し、戦に参加することでその保護の恩恵にあずかったわけだ。


 そして有事において功績を挙げたものにはその滅ぼされたものから取り上げた土地を幕府は恩賞として与えたわけだ。


 これが、「ご恩と奉公」とか「一所懸命」と呼ばれる言葉の語源だな。


 まあしかしこれは結構危うい前提だった。


 功績に対しては土地を与え続けないといけないこと。


 それと、裁判の公平性が失われてはならないことだ。


 しかし、まず頼朝が死ぬと北条家が頼朝の外戚などの政治的な敵を次々に滅ぼした。


 梶原景時かじわらかげとき比企能員ひきよしかず畠山重忠はたけやましげただ和田義盛わだよしもりなどだ。


 そして源実朝みなもとさねともが暗殺されると後鳥羽上皇ごとばじょうこうが、幕府打倒を計画し、北条義時ほうじょうよしときの追討の院宣を発した。


 実朝が暗殺された原因は彼が貴族政治に戻そうとしたからだとも言われるが詳細は不明だ。


 これが承久の乱だな。


 しかし、上皇が宣旨を出せば武士は従うだろうという思惑は外れて関東の御家人は幕府を支え朝廷軍を打ち破った。


 後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇じゅんとくじょうこうは佐渡島、土御門上皇つちみおかどじょうこうは土佐国へ配流され、後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ流され、仲恭天皇は廃され、行助法親王の子が即位し後堀河天皇となった。


 後鳥羽上皇など乱に関わり流罪になった皇族の荘園は没収され、その支配権は幕府が握り、さらに京方についた公家、武士の所領が没収され、幕府方の御家人に分け与えられた。


 これまでは良かった、戦えば土地が与えられたんだからな。


 そして、京の六波羅に六波羅探題などが設置され、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された、これも後醍醐天皇が倒幕に動くようになった原因の一つだ。


 この承久の乱ののち、朝廷は幕府に完全に従属することになる。


 幕府は朝廷を監視し皇位継承も管理するようになるんだ。


 朝廷側の上皇・天皇・諸臣が臣下である武士集団に処罰される事態は今までなく、朝廷の威信は文字どおり地に落ちこのあとは皇室や公家は零落し困窮していくことになるんだな。


 それにより皇室や有力貴族が地位をめぐって分裂していく。


 皇室は持明院統と大覚寺統に分かれ、皇位を争うし、藤原摂関家は五摂家に分裂してそれぞれ対立するようになっていく。


 しかし、このとき鎌倉幕府ははまだ意思決定の合議機関である評定衆を設置しての、集団指導体制での運営だった。


 あくまでも鎌倉幕府は、源頼朝という将軍と豪族である御家人の主従関係によって成立したので、北条氏も将軍の家来のひとつの家に過ぎず、有力な御家人であっても御家人たちの主君ではなかった。


 彼等は源氏の血を引いていたわけではなかったしな。


 また承久の乱の後、土地を巡っての訴訟事件などが急増したため、明確な裁判基準である御成敗式目を幕府は作成した、まあこれはいいことだったろう。


 やがて北条氏は鎌倉幕府創業以来の有力御家人である三浦泰村の一族を討滅すると、親王将軍が迎えられ、親王将軍は幕府の政治には関与しないようになる、文字通り神輿としての将軍だな、そして権力は北条宗家へ集中していった。


 北条宗家は得宗と呼ばれたことから、得宗専制といわれるようになった。


 しかし、その後の平和により御家人は新たに得られる土地がなくなり、また平和によって贅沢をするようになりさらにその頃は分割相続が普通だったので、所領を子孫に均等に分配することで所領そのものが少なくなって経済的にどんどん苦しくなった。


 それで幕府の御家人が土地や武具を担保に金貸しからカネを借り、破産するケースも増えた。


 そこで幕府は、徳政令を頻繁に出すようになる。


 御家人たちは、国家権力によって借金を帳消しにして貰ったが、当然金貸しは困った。


 その後も鎌倉幕府は、武力を用いて商人を弾圧した。


 清盛率いる平家は商業によって台頭したが頼朝は正反対だった。


 そして北条氏もそれと同じ考えで政治を行っていたわけだな。


 これに畿内以西の民衆は反発し、借金を棒引きされた御家人の所領を武力で取り戻した。


 こうして生まれた武力集団が悪党だ。


 悪というのはいわゆるアウトローのことで鎌倉幕府に従わない武装勢力を示したわけだな。


 そして鎌倉幕府にとって致命的なことが起こる。


 それは外国の侵略に巻き込まれたことだ。


 元による蒙古襲来がそれで戦闘は文永の役(ぶんえいのえき・1274年)と弘安の役(こうあんのえき・1281年)の2回に分け行われた。


 壱岐対馬の守備隊を全滅させ、九州の博多湾に侵入してきた高麗軍や元軍を御家人は必死になって撃退したが、防衛戦争であったため、新たに土地を得ることができず、恩賞を得られなかった。


 しかし、武器や食料の準備には莫大なカネがかかった。


 それにより御家人には、働き損であるという幕府に対する不信感が生まれた。


 さらに、北条家は蒙古来襲による非常時の迅速な対応のため合議を取りやめ御内人と呼ばれる側近により専制的な政策決定権を作り上げ、それが腐敗を招き、朝廷の後嵯峨天皇以後の皇位を巡っての大覚寺統と持明院統の対立にお互いの血統が交互に即位するようにしたことで朝廷からの不満が出るようになった。


 元の軍を打ち破り平和になったが、これ以降得宗専制の北条一門は堕落腐敗し津軽の安東氏の一族内部の土地訴訟において、対立する双方から巨額の賄賂を受け取り、賄賂の大きい側を無理やりに勝訴させた。


 これにより功績に対する報酬と、裁判の公平性が失われた。


 これは御家人にとって幕府の存在を無意味とするものだったわけだな。


 楠木家はもともとはごく小さな御家人だが、駿河から河内に移動させられた事もあって、農業だけでは食って行けず地元特産の水銀を売って経済的に力を蓄えた


 しかし、商を認めない鎌倉幕府にだんだんと愛想を尽かしてきていたわけだ。


 これが今の状況だな。

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