第17話 密偵、背信、不実(1)
陽の落ちかけた、薄闇の荒れ野の中。
それは本当に突然、目の前に現われた。
もとは赤土色だったと思われる城壁は、今では枯草色と黒のまだらに色づいている。歳月で煤け、月日に洗われたせいだとはいえ、その様子は、まるで意図して装飾されたかのようで奇妙に美しい。
ここは自由都市ベルグだ。
門に立っているのは形ばかりの門番。中に入るのには何も要らない。
ここに関所はない。金さえ払う必要はない。
ベルグには誰もが入ることができる。
農民も職人も、富豪も物乞いも、隊商も軍人も。
城壁をくぐった瞬間、目の前に溢れたのは無数のたいまつの明かりだった。
馬上のテラ・スールが、驚きに小さく息を飲む。
俺も
俺がこれまでに訪なったことがあるのは、イレルダの王都とポーリスのシェームだけだ。
吐く息は白い。
だが、イレルダやポーリスのように、すべてを凍りつかせてしまうほどの寒さは感じない。これは、傍を通る暖かな海流のせいらしい。
ベルグは、いにしえから名にし負う交易の要所だ。
この辺りでは他にはない、冬にも凍らない港を持つせいだ。
その港の名は東湾という。
「骸骨と矢羽」を飛び出してシェームの町を走りながら、俺はずっと考えていた。
「イレルダの鼠」――すなわち「蒼の王の間諜」がいない場所へと逃げ込むのではなく、いっそ人波に紛れてしまうのも「手」ではないかと。
たしかに危険も大きい。
だが、引き替えに得られるものもある。俺はそう思ったのだ。
サリトリアが今、どんな様子なのか。それを知っておかなければならない。
先のサリトリア王、つまりテラ・スールの父王は、戦で蒼の王に殺された。
王太子も戦死したと聞いている。
今、彼の地を統べているのは、蒼の王の懐刀であるペトリ伯とその精鋭の騎士。
テラ・スールが、不用意にサリトリアに足を踏み入れれば、結局は彼らに捕らえられ、イレルダに戻されるだけだ。
味方はどこにいるのか。そして、それは誰なのか。
サリトリアに入る前に「そのような事々」を確かに知っておかなければならない――
いまや日もすっかり落ちたというのに、ベルグの通りは行き交う人々で溢れていた。
テラ・スールが、目を瞠って俺を見上げる。
俺もあまりの人の多さに面食らっていた。
さまざまな顔立ち、瞳の色、膚の色。
北から南から西から。ベルグにはあらゆるもの、あらゆる人、そしてあらゆる「報せ」が集まり交わる。
イレルダの「鼠」だけではない、各国の諜者は軒並み、この都市に顔を揃えているだろう。
遠い国々を渡り歩く隊商たちも、さまざまな「報せ」を握り、暗躍する。
自由都市ベルグは百鬼夜行の街でもあった。
俺たちは馬から降りて、通りを歩く。
宿の客引きの声が、石畳とれんが造りの建物の壁に響き渡ってこだまする。
ふと、男の子がテラ・スールへと近づいた。
物乞いが子供を使って盗みを働く話は、よく耳にする。俺はすこし気を張って、その様子を見つめる。
テラ・スールは何を訝しむこともなく、その少年に微笑みかけた。
子供は、うっとりとテラ・スールを見上げる。
その歳の頃は、まだ十か十一だろうか。
訊けば、宿の客の馬の手入れと客引きで金を得ていると言う。
少年の馬の扱いは確かで、しかも丁寧だった。
「お前のところの宿に決めよう」
俺がこう言うと、客引きの少年はひとしきり「
そして、テラ・スールを見上げると、恥じらうようにサリトリアの言葉で「ありがとうございます、サリトリアの綺麗なお嬢様」と告げた。
俺はテラ・スールに対し、まだひと言もサリトリアの言葉では話しかけていなかった。なのに――
「こんな子供」ですら、すぐに俺たちの「出」を見抜いてしまうとは!
さすがは、大都市ベルグといおうか。
やはり、ここへ来たのは、あまり良いことではなかっただろうか?
そう思う反面、ありとあらゆる国の者が歩き過ぎる通りを見渡しながら、俺はこうも考えた。
この街では、サリトリア人もイレルダの民も、特にめずらしくはないのだ。
だからこそ、俺たちは誰の注意も引かず、この街にいられる。
そして俺たちと少年は、人波ををかきわけるようにして、宿へと進んでいった。
□□□
宿はとても大きく、帳場には幾人もの帳場人が立ち働いていた。
客引きの子供も大勢いて、それぞれに自分の客を預ける帳場人が決まっているようだった。
俺たちも、とある帳場人に引き渡される。
その男はすぐさま、少年に銅貨を投げた。そして、
「馬は何頭? 馬房代は部屋代と込みだ。馬の餌と世話代をいくらにするかは、あの小僧と相談してくれ」と、少年を親指で指し示した。
続けて、「一晩分は先払いで頼む」と言いながら、金額を書きつけてよこす。
客がひっきりなしに出入りし、宿の玄関の戸は閉まる暇もない。
帳場の周りでは、あらゆる国の言葉が飛び交い、混ざり合い、その声がまるで地鳴りのように壁を震わせていた。
宿の者も客も、慌ただしくて他人のことなど気にかける様子もない。
しかし感覚を研ぎ澄ませると、時折、人々の間から突き刺すような視線が感じられた。
背後、左奥の浅黒い肌の男が、さっきからずっとテラ・スールを見つめている。
美しい髪も瞳も、外套にすっぽりと覆い隠されているというのに。
目ざとい者はいるものだ。
目の前の帳場人もまた、テラ・スールの青紫色の瞳と砡のような頬に、見とれるような目線を向け始めていた。
「この宿は人の出入りが多いから、持ち物には気をつけてくれ。何がなくなっても宿は文句は受けない、ほら、これが鍵だ。出かけるときは、これで部屋の戸をしっかり締めて」
帳場の男は前金と引き替えに、俺に向かって鍵を放った。
客引きの少年が、俺の上着の裾を引っ張る。
どうやらこの子が、俺たちを部屋まで連れていくらしかった。
□□□
部屋に入り、荷を下ろして振り返る。
テラ・スールは、寝台の上に倒れ込むようにして眠りこんでしまった。
客引きの子供が、その寝顔にじっと見入っている。
俺は寝台へと近寄り、テラ・スールの外套を脱がせた。
そして、そのか細い身体を抱きかかえ、寝台の上掛けをめくると、ふたたびそこへ、そっとテラ・スールを横たえた。
少年は、馬の世話代の算段を持ちかけるのも忘れ、ただうっとりとテラ・スールを見つめていた。
俺は銀貨を取り出し、客引きの手に握らせる。
「あの栗毛たちに、良い飼い葉と綺麗な水をたくさんやってくれ。寝藁は厚めに。長く走って馬たちは疲れている」
手に載せられた銀貨に、少年は目を丸くする。
そして「よく面倒を見るから心配するな」と、俺に請け合い、なんども「デ・ガータ」を言いながら、部屋を後にする。
けれども、手渡された過分の銀貨でも、少年のテラ・スールへの興味を完全に消し去ることはできなかったようだった。
部屋の戸口でしばし立ち止まると、客引きの子はまたしても、寝台に横たわるテラ・スールに、その目を奪われる。
俺はテラ・スールの髪を撫でながら、軽く片目を細めて少年を睨んでみせる。
客引きの子は頬を耳まで赤く染め、急ぎ廊下を走り去っていった。
□□□
窓を開ける。
イリが部屋に滑り入って、寝台の柱の先にとまった。
表の人通りは途切れる様子もなく、街はまだ賑わっていた。
テラ・スールは眠っている。
彼女が眠っている間に「なすべきこと」を済ませようと、俺は外套を手に取った。
「イリ、ここでテラ・スールを見ていてくれ」
返事めいて、イリがひとつ瞬きをする。
俺は鍵を持ち、そっと部屋を後にした。
このベルグの街の大きさも、おおよその道も。
これまでに写しを取った「報せ」の中身をたぐり寄せれば、頭の中に浮かんでくる。
だが街に溢れる人、そして物の多さときたら……!
そして、立ち並ぶ高い建物。
それらすべてが、俺の感覚を狂わせる――
目的の場所にたどり着くまでには、思っていたより時間がかかってしまった。
「そこ」は酒場であり食堂であり、商談の場であり密談の場所でもある。
どんな理由で旅をしていようとも。
裏がある者もない者も、商人も軍人も、ただの農民であろうが。
「ここ」は、自由都市ベルグに足を踏み入れる者が必ずや立ち寄る「場」だった。
その名を「ハレン」という。
意味は、ベルグの都市言葉で「部屋」だ。
「ハレン」は、もとはといえば、東湾に留まる船の積荷、主に月麦と薔薇麦の証書取引が行われていた建物だった。
だが今、ここではあらゆる種類の「品」と「報せ」が、やり取りされる。
「ハレン」を始めたのは、ベルグの有力な交易商人たちだった。今ではその組合が、この自由都市全体を取り仕切っている。
組合は、集めた「報せ」を書き付けにして「ハレン」の壁一面に貼り出していた。
近隣のあらゆる国の言葉で記された「書き付け」には、あらゆることが記されている。
各国の商船の動静、難破事故、街道の天候・治安、各地の麦の作付け、そのほかにも土地土地で起きる、ちょっとした奇妙な出来事まで……。
これらの「書き付け」は「ハレン」に立ち入る者は誰でも、まったく自由に見ることができる。
建物に入るのに金も要らない。
あらゆる旅人が、わざわざ多少の回り道をしても、このベルグに立ち寄ろうとする理由。それが、ここ「ハレンの書き付け」なのだ。
なるほど「上手いことだ」と、俺はあらためて感心する。
「ハレン」の壁の書き付けを見るために旅人達はベルグに立ち寄り、ここで酒を飲み、物を食らう。そしてまた、街の宿や店で金を使う。
旅人が落としていくのは「金」だけにとどまらない。
場合によっては、ベルグの組合の商人たちも知らないような新たな「報せ」が、ここ「ハレン」での旅人の世間話の中から、もたらされる。
この「ハレンの書き付け」の中身については、イレルダの間諜たちも、折にふれて「報せ」で寄こしていた。
貼り出されている書き付けに、じっくりと目を通す。
ひと渡り見渡すと、書かれている言葉によって「報せ」の内容に濃淡があることが解った。やはり「その国の事柄」については「その国の言葉」での書き付けが、最も細やかだ。
「サリトリアに向かうのか?」
俺と同じ書き付けに目をやっていた男が、いきなり話しかけてきた。
男が発したのは、サリトリアの言葉だ。
浅黒い肌に、淡い麦の色の長い上着を着込んでいる。
それは――
宿の帳場でテラ・スールを見ていた男だった。
サリトリアの南の方には「褐色の肌」の者が多いと聞く。
「そうだ。サリトリアへ向かっている。すまない、俺はサリトリアの言葉はあまり解らないのだ」
俺はわざと、公国ポーリスの方言で答えた。
男は微笑みとも苦笑とも、いわく言い難い笑みを浮かべて見せる。そして今度は、
アルシングの方言で、
「今のは『ポーリス』の言葉か、それとも『
「ポーリスだ。だがアルシングもポーリスも北の言葉は似ているから、意味は通じるだろう?」
俺はこう答え、続けて男に訊ねる。
「お前はサリトリアの出なのか?」
「そうだ。わたしの名はダユル」
男は右手で握り拳を作ると、肩の高さに掲げて前に突き出した。
これはアルシング独特の挨拶の作法で、イレルダでもポーリスでも行わない。
しかし一応、返礼として、俺は同じように拳を握り、相手の拳に軽く当てる。それから、自分の名を適当にでっちあげて名のった。
ダユルが俺に訊ねる。
「サリトリアには、どういう用向きだ?」
こみいった嘘をついても、どうせすぐに尻尾が出るだろう。
「商売をしている」と言おうにも、俺はなんの荷も持ち合わせていない。
「
「まったく、蒼の王の非道ぶりには……」
そう応じて、ダユルは眉根を寄せた。
「ダユル。そなたは夏は……戦の時はどうしていたのだ?」
「ちょうどアルシングにいた。わたしも戦ののち、初めてサリトリアへ帰るところなのだ。ただ……」
ダユルは濃い金色の目を伏せ、言い淀む。
俺は続きを促すように、ダユルの顔を覗き込んだ。
褐色の男が話を続ける。
「分るだろう? キサの石などという値の張る物を携えて、おいそれと今、サリトリアに足を踏み入れることができそうなのか、それを知りたくてね……
すると、通りがかりの年配の男が、俺たちの話に割り入ってきた。
「お前たち、サリトリア行きか? あそこは相変わらず、例のペトリ伯が仕切ってるな。そら、あの蒼の王のお気に入りの。おかげで、この冬は薔薇麦の出回る量が減って、値が上がってる」
「サリトリアの王家は、今、どうなってるんだ?」
俺は、その男に訊ねる。
「ああ、サリトリア王は蒼の王に殺されて、第一王子も戦死してる。蒼の王はサリトリアを直轄するつもりなんだろうな。王女はイレルダに連れて行かれたし、あの由緒ある王家も終わりだな」
「蒼の王が南の地をじかに治めるには、二国はやや離れ過ぎていると思うのだが……」
俺がそう言い掛けると、ダユルが、
「確かに、特に冬場は特にそうだろう。サリトリアに対する蒼の王の統治が弱まるのは間違いない。氷国の兵は、冬に『森』から南には出られない」と、口を挟んだ。
俺は年嵩の男に、ふたたび問いかける。
「ところでサリトリアには、隊商は問題なく出入りできているのか?」
「もちろん『商売は商売』さ。ペトリ伯はその辺の融通は利く男でな。まあ、秋の初め頃までは、くにざかいをイレルダの軍が固めていて出入りには喧しかったさ。だがな、あんた。戦では一糸乱れぬ動きを誇るイレルダの兵も、結局『これ』には、とんと弱いのさ」
そう言って、男は懐から銀貨を一枚取り出してみせた。
「だが、兵士たちが、勝手に賄賂を懐にいれるのを放っておくほどペトリ伯も『虚け』ではなかったさ。サリトリアに出入りする商人から、まとめて『上がり』だけを取る仕組みを、さっさと作っちまったよ」
そして、噂話の男は連れに呼ばれ、立ち去った。
「サリトリアの民は……よくも耐えているな」
思わず俺はつぶやきを洩らす。
するとダユルは、目を伏せたまま、
「サリトリア人は、生来、我慢強くてね」と応じた。
――我慢強い、か。
ふと、テラ・スールのことが思い出された。
そんな俺を、ダユルが怪訝そうに見上げる。
「ダユル、お前は俺と同じ宿に泊まっているな? 帳場で……俺たちの方を、じっと見てただろう?」
――正確には「テラ・スール」を。
「気づいていたのか」
ダユルはふたたび、微笑みとも苦笑ともつかない表情を見せた。
「なぜだ?」
俺の問いかけを受け、ダユルはしばし黙り込んだ後、ぽつりと口を開く。
「あんたの『連れ』が気になって……」
その言葉に、俺の心臓が大きく脈打った。
「ちらりと髪の色が見えてな。あんな色はサリトリアでしか見ないから……つい懐かしくて。あの子の親戚を訪ねるのか?」
俺は曖昧に頷く。
「お互い行き先は同じようだし、またどこかで見かけることもあるだろうよ」
そして、ダユルがまた、握り拳を俺の前に突き出した。
「それは……アルシングの者しかしない挨拶だ。ポーリスではやらない」
俺のこの言葉に、ダユルはゆっくりと拳を下ろした。
「なるほど、では『イレルダ』の者もやらないな?」
俺が「ポーリスの者」ではなく、本当は「イレルダの人間だ」と。
そして「そんなことはとっくに解っているのだ」と。
そう言わんばかりにダユルは告げ、麦色の上着の裾を翻し、その場を去っていく。
むろん、こちらとてダユルの言ったことをすべて真に受けるつもりなど、さらさらない。
俺が本当のことなど、ほとんど口にしていないのと同じように――
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