第16話 涙と痛み
泣いているのは、怖いからじゃない。
泣いているのは、安心したから。
でもガルディーンは、ひどく困っている。
初めてわたしが泣いた時も、ガルディーンはこう言った。
――泣かないでくれ、テラ・スール。
お願いだから、と。
早く泣き止まなければ。
「もう泣かない」と、何度もそう心に決めるのに。
「ガルディーン」
懸命に泣き声を抑えて呼びかけた。
ガルディーンがわたしの顔を覗き込む。
「イリがいないの……」
宿を抱きかかえられて町を行く途中、イリは、わたしの肩から飛びたって姿を消してしまった。
ガルディーンが、そっと、わたしの髪に指を滑らせる。
「ドラグのことは心配しなくていい、テラ・スール。あれは夜目も利く。ここがちゃんと分っているから」
「さっきはなぜ、急に逃げ出したの?」
ガルディーンは黙ったまま、すこし眼を細めてみせるだけだった。
「……イリエガの誰かが、わたしたちを追いかけてきたの?」
ガルディーンは、やはりわたしの問いには答えない。でも、ゆっくりと立ち上がってから、静かにこう言った。
「この町から、できるだけ早く出た方が良い。できれば今すぐに」
□□□
二日も歩きづめだった。
今夜ばかりはテラ・スールを暖かな部屋で、やわらかな寝床の上で休ませてやりたかった。だがもう、それもかなわない。
ここをすぐに出なければ、じきに俺たちは見つかってしまう。
馬屋にいたのは二頭の栗毛だった。両方とも、なんとも気立ての良さそうな黒い瞳をしている。
小屋はひどく簡素だったが、馬たちはよく手入れされていた。
口の前に轡を持っていくと、どちらの栗毛もすんなりとハミを噛む。
こんな夜分に、棲みかを騒がされたというのに、馬たちは、ずいぶんと大人しくしてくれていた。
「テラ・スール、馬に乗ったことは?」
「わたし、馬に乗るのはとても上手よ、ガルディーン。いつも誉められるの」
愛らしくも誇らしげにテラ・スールは頷いた。
「それは、頼もしいことだ」
俺は思わず笑みを洩らす。
「どちらの馬なら気が合いそうだ? テラ・スール」
そう訊ねながら、俺は鞍を持ち上げる。
厩の中に鞍はひとつしか見当たらなかった。
テラ・スールは、向かって左のやや小さめの方に近づき、その首を軽く叩いた。馬がよろこんで尾を振り立てる。俺はその馬に、鞍を載せた。
「ガルディーン?」
テラ・スールが、俺を見上げ、ゆっくりと瞬く。
「……この子たちに乗るの? わたしたちの馬じゃないわ」
おそらく。
この馬たちは、この先にある小さな農家の唯一の財産なのだろう。とても大切にされているということは、俺にもよく分っていた。
だが、今の俺たちには馬が要る。
俺は懐から財布を取り出すと、馬二頭分には十分すぎるほどの枚数の銀貨を飼葉桶の上に置いた。
「大事にしている馬は何にも換えがたいだろう。だが……持ち主には、これで許して貰おう?」
こう言って俺は、テラ・スールを鞍の上に抱え上げた。
俺は二頭の手綱を引き、そっと厩を離れる。
雪のせいで蹄の音は目立たない。
家々からすっかり離れてから、俺は裸馬の方に跨った。
羽音がし、耳元で風が鳴ったかと思うと、俺の肩にイリが舞い降る。
「しっかりついておいで、テラ・スール」
俺は彼女を振り返って言い、両の踵に力を込めた。
□□□
どちらの馬もよく駆けた。
テラ・スールはしっかりと俺の後をついてきた。
俺たちはかなり長い間、走り続けていた。
ふと、背後の馬の足が乱れる。そこで初めて、俺は今が昼近くで、自分たちがずっと駆け通しだったということに気が付いた。
俺は馬から降りる。
「テラ・スール、すこし休もう」
こう言って、俺はテラ・スールの乗る栗毛の手綱を取った。
水場を見つけて、手近の枝に馬をつなぐ。
小さな洞の入口にテラ・スールを座らせた。ごく弱々しいながらも、そこには冬の光が陽だまりを作っていた。
火を熾し、蜜を湯で溶かしてテラ・スールに与える。
うつわを渡そうと、彼女の掌を見た。
血まみれだった。
驚いて目を見開き、俺はその手を取る。するとテラ・スールが言い訳のように、ごく小さく言った。
「しばらくぶりに乗ったから………でも馬は得意なの、ほんとよ」
俺はテラ・スールを、ずいぶんと長く馬に乗せすぎたのだ。
こんな無骨な手綱では、この白くてやわらかな肌を、すぐに傷つけてしまうに決まっているのに。
荷の口を開き、薬を取り出す。
あのいまいましい雪酒が、また荷の中に紛れ込んでいた。
二度とこれに口をつける気にはなれない。だが、傷を焼くくらいの役には立つ。
雪酒を振りかけて、テラ・スールの傷を洗う。
テラ・スールは身体を固くして、目を閉じ、ただ黙って痛みに耐えていた。
……手綱を握り続けているだけでも、もうずっとつらかったのだろうに。
何も言わずについてきた。
昨日だって、あれだけ足から血を流しながらも、じっと堪えて歩き続けてきたのだ。
だから俺は、テラ・スールが痛い思いをしていることに、なかなか気がつかない。
テラ・スールの傷に布を巻く。
彼女は囁くように「デ・ガータ」を口にした。
テラ・スールは涙をこぼさなかった。
なのに、俺の方が、喉の奥が無性に締めつけられ、泣き出しそうな心持ちになる。
テラ・スールの手を取って口に押し当て、俺は懸命にそれをこらえた。
そんな俺を、テラ・スールが心配そうに覗き込む。俺はその花の色の瞳を見つめ返して言った。
「
□□□
傷が痛いのは、がまんできる。
ただ、がまんして手綱を支えていればいいだけのこと。
馬で行けるようになったのは、とてもよかった。
だって、歩けなくなってガルディーンに迷惑を掛けることが、もうなくなるもの。
足並みを乱したのは、血で手綱が滑ってしまったから。
急いでいたガルディーンの足を止めさせてしまい、わたしはひどく切ない思いをする。
きっと、もっと遠くまで行っていなければならなかったのに違いないのだ。
ガルディーンは、何も言わない。
でも、昨日の町をこんなに急に飛び出さなければならなかったのは、きっと蒼の王が追いかけてきたからなのだろう。
わたしは恐ろしかった。
こんなにも早く追いかけてくる、黒い影が怖かった。
これからは、もっと頑張らなければ。もっともっと。
だって、南へと帰りたいのは、わたし。
ガルディーンじゃない。
なのに、この灰色の髪をした
この人は、わたしのせいで凍え死んでしまいそうになった。
蒼の王にさからって、彼もわたしとともに追われている。
それに、ガルディーンは先からたくさんのお金を使っていた。
……そう、お金を。
ふとわたしは、そのことに気がついた。
□□□
「ガルディーン」
蜜の入った木のうつわに目を落としながら、テラ・スールが俺を呼ぶ。
「あなたは、お金をたくさんつかったわ」
いきなり言われ、俺は、その意味を掴みかねた。
「一体、なんの話だ?」
瞳を覗き込んで問いかけると、テラ・スールが俺から目をそらす。
そして、
「この馬たちを連れてくる時や、ゆうべの宿で……」と続けた。
なるほど。
テラ・スールが、路銀が足りるかを不安に思っているのだ。
「サリトリアに行けるほどには用意がある。だから何も心配はいらない」
もちろん「王侯貴族のような贅沢な旅をする」というわけにはいかないが。
けれどもテラ・スールは俺を見上げると、すぐさま大きく頭を振った。
「違うの、ガルディーン。あなたがわたしのために、お金をたくさん使ったと言いたいの」
そしてテラ・スールは、小さな革袋を腰から外す。
「これはわたしのよ。これを使ってね、ガルディーン」
袋の口を開けて中を見る。
美しい細工がほどこされ、貴石がちりばめられた飾り物の数々だった。
俺は、虹色に光る砡をはめ込んだ指輪をひとつ手に取り、陽にかざす。
「……足りないかしら」
テラ・スールが悲しげに声を上げた。
その言葉に俺はひどく面食らう。
だがすぐに、テラ・スールが「本気で」心配をしているのだということが分った。
彼女はおそらく何も――
何も「ものを知らない」のだ。
「テラ・スール、この砡ひとつだけでも馬二十頭の価値がある」
俺がこう告げると、テラ・スールは安堵したように応じた。
「じゃあ……足りるのね?」
テラ・スールの言葉に、俺は呆れるのを通り越して可笑しくなってしまう。
笑い出した俺を、テラ・スールが目を丸くして見上げた。
「『足りる』どころか、テラ・スール。これを金に換えたり、これと引き替えにできるほどの富を持つ者は、そうめったにはいない」
テラ・スールは、首を傾げ、瞳を揺らす。
「高価すぎて、使えないということだ」
俺は、テラ・スールの花の色の目を見つめて微笑んだ。
もし引き取る者がいたとしても――
こんなものが出回れば、すぐさま商人たちの間で噂となるだろう。そして。
それを、イレルダの「鼠」たちが聞きつけないわけがない。
「テラ・スールはここだ」と、報せているようなものだ。
だが俺は、そんなことまでは告げなかった。
意味もなく、テラ・スールを不安にさせたくはない。
「これはあなたが、大事に持っていると良い。あなたを飾るための物なのだから」
俺は革袋を、テラ・スールの手に戻す。
青紫の瞳が悲しみの色に沈む。
俺はテラ・スールのやわらかな絹糸のような髪を撫でた。
「何も心配いらない、テラ・スール。イレルダのガルディーンが、サリトリアまで、あなたを守護する」
そして、俺はテラ・スールの額に、そっと口づけた。
□□□
それでもまだ何かを問いたげに、テラ・スールは揺れる瞳で、俺を見上げていた。
だが、その小さな背中をゆっくりとさすり続けると、彼女は目を閉じ、眠りに落ちていく。
テラ・スールは、寝息一つたてず、深く深く眠った。
昨夜から一睡もさせてやれなかったのだ。できればずっと眠らせてやりたい。
だが今は、そんなに長くは寝かせてやれない。
――何も心配いらないと。
さっき、俺はそう言った。
しかし、どうだろうか?
ろくに眠らせてやることすらできず、手も足も傷だらけにさせてしまった。
この青紫色の瞳から何度、涙をこぼさせたことか。
やるせなさと情けなさが、こみ上げる。
俺はテラ・スールの蜜の色の長い睫毛に、くちびるで触れた。
悲しい顔も、つらい思いもさせたくはない。他の何をも、すべてを投げうってもかまわない。
強く胸を捕まれて、揺さぶられるように。
ひと息ごとに身体の内にわき起こる、この思いは、一体なんだろう。
今まで、俺には、こんなに大切なものはなかった。
失いたくない何かなど……。
そんなものは、知らなかった。
血の一滴、涙ひとつぶすら、こぼさせたくない。
いとしい。
たぶん、これがそうなのだ。これが「いとしさ」。
狂おしいほどに愛おしい。
テラ・スール。
「叶わない夢」などにはさせない。
サリトリアへと守護する。必ず。
イレルダの
「
□□□
水辺の馬たちに蜜の塊を与えた。
彼らも疲れ、腹を空かせている。だが、もうしばらくは駆けてもらわねばならない。
俺は二頭の首を叩く。
「今すこし走ってもらうぞ? お前たち。夕には腹一杯食べさせて、寝床でゆっくり休ませてやる」
栗毛たちは鼻を鳴らして応えた。
テラ・スールの乗っていた方の馬に荷を乗せる。
空のかなたからイリが舞い降り、鞍の先に留まった。
いまだ夢うつつのテラ・スールを片手で抱え、俺は馬に跨った。
テラ・スールを抱えた腕で手綱を取り、もう片方の手で空馬を引く。
ふと、馬上で我に返ったテラ・スールが「降りる」と言い張った。
ひとりで、馬に乗ると。
そんな手の傷では無理だと、俺は諭す。
テラ・スールはまったく聞き入れなかった。
また手綱をとれば、傷がひどくなる。そうすれば治りが悪くなって、ずっと馬に乗れなくなるから。
そう噛んで含めるように説き伏せても、テラ・スールを首を縦に振らなかった。
「ひとりで乗る」と。ただ同じ言葉を繰り返す。
テラ・スールのあまりの強情さに、俺もほとほと困り果てた。
説得を諦め、テラ・スールを抱える腕に力を込めると、俺は踵を締め、馬の足を早めさせた。
テラ・スールが、俺の胸を何度か両手で強く押す。
しかたなく、俺は馬を止めた。
ひとつ大きな溜息を吐き出してから、テラ・スールの顎を掴んで、その顔を覗き込む。
青紫の瞳は、涙でいっぱいだった。
「……なぜだ、なぜ泣く? テラ・スール」
「泣いてないわ」
テラ・スールは、すぐにこう応じた。
たしかに、まだ涙はこぼれ落ちてはいない。だが。
ひどく子供じみたテラ・スールの言い訳に、俺はいっそ笑い出したいような気分になる。
「どうして、そんなにひとりで乗りたいのだ?」
「ふたりで乗ったら、はやく走れない」
「それは……確かにそうだが」
ごく当たり前のことを言い返されて、俺は返事に困った。
「わたしがここに乗っていると、もう一頭の手綱も引かなくちゃならない、ガルディーンの邪魔になる……」
そしてとうとう、テラ・スールの青紫の目から涙がこぼれ落ちる。
「デ・ナーダ、テラ・スール。そんなことはなんでもない。大丈夫、今ぐらいで駆けられれば大丈夫だから」
俺はテラ・スールの涙を、指の先でそっと拭ってやった。
痛くてもつらくても、テラ・スールは涙をこぼしはしない。なのに。
俺のせいだ――
俺のせいで、テラ・スールは、泣いてしまう。自分自身が腹立たしい。
ふたたび深い溜息が口をついた。すると、テラ・スールが俺に言う。
「ごめんなさい。ガルディーン……泣いたりして」
「謝らなくていい」
手綱から手を離し、俺は両手で彼女を抱きとめる。
「痛いのもつらいのも……がまんできるの。だって、わたしが泣いたらガルディーンが困る」
とぎれとぎれに、テラ・スールが口にする。
「がまんしなくていい」
俺は彼女の耳元で囁いた。
「……がまんなどしなくていいから」
「ガルディーンに、やさしくされると涙を止められなくなる、泣きやむのが大変なの」
そして、テラ・スールの目からは、つぎつぎと涙の粒がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい。『泣かないでくれ』って、ガルディーンが困るのに……」
俺はテラ・スールの金色に波打つ髪に、顔をうずめて言う。
「もう言わない。『泣くな』とは言わない。テラ・スール、だからつらいときは、すぐにそう言ってくれ」
ごめんなさい、ごめんなさい、と。
テラ・スールは泣きながら、幾度も繰り返した。
イリが鞍の上からはばたき、テラ・スールの肩に舞い降りる。
首を傾げ、小さな声でひとつ鳴く。
テラ・スールは、やっと泣きやんだ。
ひとつ瞬いてテラ・スールを見つめると、イリは、ふたたび宙へ舞い上がった。
俺は、腕の中のテラ・スールに呼びかける。
「しっかりと俺につかまっていられるか、テラ・スール? そうすれば、俺は手綱が取りやすくなる。俺を困らせたくないのなら、そうしていてくれ」
テラ・スールは黙ったまま、大きく頷くと、俺の身体に両腕を回した。
俺はふたたび、鐙を踏み込む。
「『泣くな』とは言わない」
そうテラ・スールに告げた。
だが「泣かないでほしい」と、今でも本当はそう思う。
テラ・スールの涙を見ると息苦しくなり、ひどく胸が痛む。
しかし「泣くな」と、テラ・スールに強いることも、やはり俺にはできないのだ。それすらも、彼女につらいことを耐えさせることになるから――。
だからもう、テラ・スールに「泣かないでくれ」とは頼むまい。
俺の胸の痛みならば、ただ俺がひとりで引き受ければいい。
そうすればいいだけだ。
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